夢から目覚めた朝
リーゼリア・レストは、久しぶりに朝まで眠った。
その知らせは、夜明け前のレスト侯爵家を静かに揺らした。
侍女が廊下を走る。
神官が祈りを止める。
医師が何度も脈を確かめる。
家令が目元を押さえる。
そして、寝台のそばで一睡もせずに娘の手を握っていたオルヴァン・レスト侯は、ただ黙って、娘の寝顔を見ていた。
穏やかな寝顔だった。
苦しそうに眉を寄せることもない。
母を追って暗闇へ落ちることもない。
細い呼吸は静かで、頬には薄く血の色が戻っている。
眠っている。
ただ、それだけのことが。
レスト侯には、奇跡に見えた。
「旦那様」
家令が、そっと声をかける。
「お休みになられては」
「いや」
レスト侯は首を振った。
「この顔を見ていたい」
その声は、ひどく疲れていた。
けれど、昨夜までとは違う。
絶望に押し潰された声ではなかった。
「眠っているだけだ」
レスト侯は、娘の手を包んだまま呟いた。
「ただ、眠っているだけなのだな」
家令は何も言わず、深く頭を下げた。
***
シノは、客間の長椅子の上で目を覚ました。
いつの間に眠ってしまったのか、よく覚えていない。
昨夜、リーゼリアが穏やかに眠ったあと、レスト侯が何度も何度も頭を下げた。
マルナ院長は「まだ完全に安心はできません」と言い、医師と神官が何度も確認をした。
バッくんは「悪い夢はだいたい食べたよー」と言って、丸くなって寝た。
リンちゃんは窓辺に座り、朝まで静かに目を閉じていた。
シノはたぶん、そのあたりで力が抜けたのだと思う。
「……朝?」
窓から柔らかい光が入っている。
孤児院の朝とは違う。
床も、カーテンも、壁も、全部きれいだ。
でも、少し落ち着かない。
「起きましたか」
声がした。
マルナ院長だった。
椅子に座り、背筋を伸ばしている。
目の下に少し疲れが見えるが、いつも通り落ち着いていた。
「院長先生、寝た?」
「少しだけ」
「少しだけって、どれくらい?」
「ほんの少しです」
「それ、寝てないって言うんじゃ……」
「シノも人のことは言えません」
「はい」
シノは素直に頷いた。
足元を見ると、バッくんが丸くなって寝ていた。
白いもふもふが、寝息に合わせて上下している。
リンちゃんは窓辺にいた。
金色のたてがみに朝日が当たり、まるで光そのものがそこに座っているようだった。
「リンちゃん、おはよう」
リンちゃんは、静かに目を細めた。
「バッくん、おはよう」
『あと五夢……』
「五夢?」
『五つ夢を食べたら起きる……』
「それ、どれくらい?」
『夢によるー……』
バッくんは寝たまま答えた。
マルナ院長は真面目な顔で呟く。
「神獣様にも二度寝という概念があるのですね」
「院長先生、そこ?それを言うなら二食だよ」
シノが小さく笑った時、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
侍女が入ってくる。
「リーゼリアお嬢様がお目覚めになりました。シノ様に、お会いしたいと」
シノは立ち上がった。
***
リーゼリアの部屋は、昨夜より明るかった。
カーテンが少しだけ開けられている。
朝の光が、白い寝具の上に落ちていた。
リーゼリアは寝台の上で上体を起こしていた。
顔色はまだ薄い。
けれど、瞳には光が戻っている。
枕元には、青い石の髪飾りが置かれていた。
もう黒く濁ってはいない。
澄んだ水のように、静かに光っている。
「シノ様」
リーゼリアは、シノを見ると小さく微笑んだ。
「様はいらないよ」
シノは昨日と同じように言った。
リーゼリアは少し困った顔をして、それから言い直す。
「そうでした……シノさん」
「うん」
「シノさん。昨日は、本当にありがとうございました」
「ううん。わたしだけじゃないよ。バッくんが食べて、リンちゃんが綺麗にしてくれたの」
足元にいたバッくんが、ふわふわと欠伸をした。
『悪い夢は辛かったよー』
リーゼリアは、そっと手を伸ばした。
「撫でても、よろしいですか?」
『いいよー。よき夢の匂いがする子は歓迎ー』
バッくんは、とてとてと寝台の横へ歩き、リーゼリアの手に頭を押しつけた。
リーゼリアの顔が、ふにゃりと崩れる。
「もふもふ……」
レスト侯がその様子を見て、静かに目を伏せた。
昨夜までなら、娘がこんな顔をすることはなかった。
泣くか、怯えるか、疲れて眠るか。
それだけだった。
「シノ殿」
レスト侯は、深く頭を下げた。
「娘を救ってくださったこと、心より感謝する」
「えっと……」
シノは慌てる。
「そんなに頭を下げないでください。侯爵様だし」
「侯爵である前に、私はこの子の父だ」
レスト侯は顔を上げた。
「父として、礼を言わせてほしい」
シノは、少しだけ黙った。
その言葉は、胸の奥にやわらかく届いた。
父として。
月森奏一郎の顔が、少しだけ浮かぶ。
「……はい」
シノは小さく頷いた。
「どういたしまして」
***
礼を、という話になると、シノは急に困った。
レスト侯は、金貨でも、衣服でも、学びの機会でも、望むものを用意すると言った。
シノは首を横に振った。
「そんなにいらないです」
「しかし、それでは私の気が済まぬ」
「でも、わたし、本当に……」
シノは困ってマルナ院長を見た。
マルナ院長は、しばらく考えたあと、静かに言った。
「侯爵様。シノ個人への過分な贈り物は、お控えいただけますでしょうか」
「なぜだ」
「この子はまだ幼く、受け取ったものの重さを正しく扱えません。それに、孤児院の子です。ひとりだけ過分に飾り立てられれば、本人にも周囲にも歪みが生まれます」
レスト侯は真剣に聞いていた。
「では、どうすれば」
「もしお気持ちをいただけるのであれば、孤児院の子どもたち全体に向けていただければと存じます」
シノは顔を上げた。
「院長先生」
マルナ院長は、シノを見る。
「シノ。あなたはどう思いますか」
「わたしは……」
シノは少し考えた。
孤児院の井戸。
雨漏りする屋根。
冬になると足りなくなる毛布。
薬草を売って、焼き菓子を売って、少しずつやりくりしている日々。
ミミの小さな靴。
リックが何度も直して履いている上着。
ネリが大事に使っている古い本。
「孤児院のみんなが、困らないようにしてほしいです」
シノは言った。
「あと、井戸のまわりを直した方がいいかも。リンちゃんがいるし」
マルナ院長が一瞬だけ目を閉じた。
「シノ、理由が少しおかしいです」
「だって、リンちゃんがよく寝てるから」
「それはそうですが」
レスト侯は、初めて少しだけ笑った。
「分かった。ルミナリア孤児院への定期支援を約束しよう。井戸、屋根、冬支度、子どもたちの衣服と学用品。必要なものは、家令に調べさせる」
「ありがとうございます」
マルナ院長が深く頭を下げる。
シノも慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ」
レスト侯は静かに答えた。
***
しばらくして、リーゼリアがぽつりと言った。
「本当なら、今年の春には王都へ向かうはずだったのです」
シノは首を傾げる。
「王都?」
「はい」
リーゼリアは、枕元の髪飾りに指を添えた。
「王立魔導学園の予科へ進む手続きが、進んでいました」
「王立魔導学園……」
シノは、その名前に聞き覚えがあった。
「エルンが行ったところだ」
「エルン様?」
「うん。わたしの歌をいっぱい覚えてくれた人」
リーゼリアは、少しだけ目を丸くした。
「その方も、王立魔導学園に?」
「うん。すごく頑張ってた。歌うとすぐ倒れて、リザさんに怒られて、私にも怒られてた」
「倒れるほど……?」
「うん。でも、頑張りすぎるから怒ったの」
リーゼリアは、不思議そうにシノを見た。
それから、少しだけ笑った。
「シノさんは、その方の先生なのですね」
「先生なのかな?」
シノは首を傾げる。
「歌を教えただけだよ」
マルナ院長は、そっと目を伏せた。
歌を教えただけ。
その言葉で済ませるには、あまりにも多くのことが起きている。
けれど、シノにとっては本当にそれだけなのだろう。
リーゼリアは、青い石の髪飾りを見つめた。
「でも、眠れなくなってからは、もう王都へ行くのは無理だと思っていました」
その声は、昨夜よりずっと落ち着いている。
けれど、奥にはまだ小さな怖さが残っていた。
「眠るたびに暗い場所へ落ちるなら、王都に行ってもきっと迷惑をかけてしまう。そう思って……」
「うん」
「まるで、誰かに行くなと言われているみたいでした」
レスト侯の表情が、わずかに曇った。
王都へ向かうはずだった娘を、悪夢が引き留めた。
そう考えたことが、なかったわけではない。
だが、それを口にすれば、もっと恐ろしい何かを認めることになる気がしていた。
シノは、深く考えなかった。
ただ、リーゼリアを見て言った。
「でも、もう怖くないんだよね」
リーゼリアは瞬きをする。
「はい」
「じゃあ、行けるね」
その言葉は、あまりにも簡単だった。
でも、リーゼリアの胸に、まっすぐ届いた。
「……はい」
リーゼリアは、小さく頷いた。
「行きたいです。王都へ」
レスト侯は娘を見る。
「リーゼ」
「お父様。私、もう一度、頑張ってみたいです」
その声はまだ弱い。
けれど、確かに前を向いていた。
レスト侯は、娘の手を握った。
「ああ」
低い声で答える。
「ならば、行こう」
***
ただし、父としての不安が消えたわけではなかった。
リーゼリアは救われた。
悪夢は食べられた。
髪飾りも清められた。
それでも、昨日まで三日まともに眠れなかった娘を、すぐに王都へ送り出すことはできない。
レスト侯は、しばらく沈黙したあと、シノを見た。
「シノ殿」
「はい」
「無理を承知で、ひとつ頼みたい」
マルナ院長の表情が、すっと引き締まった。
「侯爵様」
「分かっている。マルナ殿、まず聞いてほしい」
レスト侯は頷き、続けた。
「リーゼは王都へ向かう。だが、父としては不安が残る。もし、また眠りの奥で悪夢が戻ったらと思うと……」
リーゼリアが、申し訳なさそうに目を伏せる。
シノは、バッくんを見た。
「バッくん、また悪い夢が来たら食べられる?」
『食べられるよー』
バッくんは、リーゼリアの膝の上で丸まりながら答えた。
『でも、悪い夢が戻る前に、いい歌がそばにある方が楽だねー』
「いい歌……」
『うん。怖くなる前に、ふわふわにしておくのー』
レスト侯は、深く息を吸った。
「シノ殿。リーゼが王都へ向かう間、しばらくそばにいてはくれないだろうか」
部屋が静かになった。
シノは目を丸くした。
「わたしが?」
「ああ」
「王都へ?」
「無論、無理にとは言わない。嫌なら、この話はここで終わりだ」
マルナ院長が静かに問いかける。
「侯爵様。それは、シノを侯爵家に仕えさせるという意味でしょうか」
「いいや」
レスト侯は即座に否定した。
「雇うのではない。囲うのでもない。娘の恩人として、客人として迎えたい。身の安全と生活は、侯爵家が責任を持つ。孤児院への支援も続ける」
「期間はどのくらいでしょう」
「リーゼが王都で落ち着き、眠りが安定するまで。マルナ殿が望むなら、同行していただいても構わない」
マルナ院長は黙った。
シノも黙った。
王都。
遠い場所。
エルンがいる場所。
王立魔導学園がある場所。
そして、きっと、孤児院からずっと遠い場所。
シノは、膝の上で手を握った。
孤児院を離れるのは不安だ。
院長先生も、リックも、ネリも、ミミもいる。
でも、リーゼリアがまた眠るのを怖がるなら、そばにいてあげたいとも思った。
それに。
「王都に行ったら、エルンに会えるかな」
シノが呟くと、リーゼリアが顔を上げた。
「会えると思います。王立魔導学園へ行くのですから」
「そっか」
シノは少しだけ笑った。
「じゃあ、エルンに手紙を書いてもいいですか?」
レスト侯は頷く。
「もちろんだ。早馬で届けさせよう」
シノはマルナ院長を見た。
「院長先生」
マルナ院長は、シノの目を見返した。
しばらくして、静かに息をつく。
「あなたが決めなさい」
「いいの?」
「ただし、条件があります」
マルナ院長はレスト侯を見た。
「シノを一人にしないこと。身分や礼儀を理由に、この子を責めないこと。歌を強要しないこと。シノが帰りたいと言ったら、必ず帰すこと」
「すべて約束する」
「そして、私も王都まで同行します」
シノが驚いた。
「院長先生も?」
「当然です」
マルナ院長は、少しだけ厳しい顔で言った。
「あなた一人で王都へ行かせるわけがないでしょう」
「でも、孤児院は?」
「サラ先生に頼みます」
シノはぱちぱちと瞬きをした。
「サラ先生、来てくれるかな」
「来てくれます。あの人は今も、あなたたちのことを気にかけてくれていますから」
サラ先生は、かつてルミナリア孤児院でマルナ院長を手伝っていた女性だ。
今は結婚してハウル村に住んでいるが、院長が村の用事で留守にする時など、時々孤児院を見に来てくれる。
リックはサラ先生の焼き菓子が好きだった。
ネリはサラ先生の裁縫を尊敬している。
ミミは、サラ先生に髪を結ってもらうのが好きだった。
そしてシノも、サラ先生の笑い方をよく知っている。
ふわりと笑って、忙しい時ほど手が速くなる人だ。
「じゃあ、大丈夫だね」
「大丈夫にしてから行きます。だから、準備に数日は必要です」
マルナ院長はレスト侯へ向き直る。
「侯爵様。孤児院の留守はサラ先生に任せます。ですが、物資と人手の不足があっては困ります」
「必要なものはこちらで整えよう。食料、薪、薬、修繕費。必要であれば村の者を日当付きで雇う」
「ありがとうございます。ただし、子どもたちの暮らしに過度な干渉はなさらないでください。急に大勢の使用人が出入りすれば、落ち着きません」
「約束する。支援は、マルナ殿とサラ殿の指示に従わせよう」
マルナ院長は、そこでようやく頷いた。
「ならば、王都まで同行します。シノを一人で行かせるわけにはいきません」
シノは、胸の奥が温かくなった。
「ありがとう」
「礼を言う前に、手紙を書きなさい。エルン様も、急に知らされたら驚くでしょう」
「うん」
シノは頷いた。
***
その日の午後。
シノは、レスト侯爵家の客間で手紙を書いた。
上等な紙だった。
少し緊張する。
ペンも、いつも孤児院で使うものよりずっと軽い。
けれど、書く内容はあまり変わらなかった。
エルンへ
シノです。
リンちゃんが来ました。
バッくんも来ました。
リーゼリア様の悪い夢を食べてもらいました。
それで、リーゼリア様が王都へ行くので、わたしも少し一緒に行くことになりました。
王都で会えたらうれしいです。
シノ
書き終えると、シノは満足そうに頷いた。
「できた」
マルナ院長が横から覗き込む。
そして、少しだけ黙った。
「シノ」
「なに?」
「もう少し説明を足してもよいのでは?」
「足りない?」
「足りないというより、受け取った方が驚くと思います」
「エルンなら分かるよ」
「そうでしょうか」
マルナ院長は、少しだけ遠い目をした。
レスト侯は、その手紙を家令に託した。
「最速で王都へ届けよ。王立魔導学園、エルン・ファルク殿宛てだ」
「かしこまりました」
家令が深く頭を下げ、手紙を受け取る。
シノは窓の外を見た。
王都。
エルン。
王立魔導学園。
まだ見ぬ場所へ、少しずつ歌が近づいていく。
その意味を、シノはまだ知らない。
王都では今、エルンが彼女の名を守るために、何度も沈黙を選んでいることを。
そして王立魔導学園では、すでに“シノ師”という名が、教授たちの間で囁かれ始めていることを。
もちろん、シノは知らない。
自分の短い手紙が、王都を少し揺らすことになるなんて。




