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呪いの夢なら食べればいい

シノは、リーゼリアの手をそっと握った。


 細い手だった。


 冷たい。


 けれど、まだ温かさは残っている。


 部屋の中は静まり返っていた。


 レスト侯も、マルナ院長も、家令も、誰も声を出さない。


 リンちゃんは、寝台の足元に座っている。


 金色の瞳が、リーゼリアではなく、その夢の奥を見つめているようだった。


 シノは息を吸った。


 何を歌えばいいのかは、もう決まっていた。


 父が録ってくれた世界の歌ではない。


 画面の向こうの歌でもない。


 もっと近い歌。


 夜のベッドのそばで、自分だけに向けられていた声。


 母の声。


「ねんねんころりよ」


 シノの声が、部屋に落ちた。


「おころりよ」


 その歌は、魔導書に載っていない。


 譜式もない。


 王都式でも、古典流派でもない。

 

 そもそもこの世界の言葉ではない。


 ただ、眠る子のそばにある歌だった。


 リーゼリアの手が、少しだけ緩む。


 シーツを握っていた指から力が抜ける。


 シノは歌い続けた。


 怖い夢を倒そうとは思っていなかった。


 呪いを壊そうとも思っていなかった。


 ただ、眠る子が、少しでも怖くないように。


 母がそうしてくれたように。


 歌った。


 その時。


 部屋の中の影が、ゆっくりと動いた。


 リーゼリアの枕元に置かれた髪飾りから、黒い糸のようなものが伸びる。


 それは煙のように細く、蛇のようにうねり、リーゼリアの額へ絡みつこうとした。


 レスト侯が息を呑む。


「リーゼ!」


 飛び出そうとした侯爵を、マルナ院長が止めた。


「お待ちください」


「しかし!」


「シノの歌を、止めてはいけません」


 マルナ院長の声は震えていた。


 それでも、はっきりしていた。


 リンちゃんが静かに立ち上がる。


 金色の瞳が、髪飾りから伸びる黒い糸を見つめていた。


 けれど、リンちゃんは動かなかった。


 ただ、シノの歌に耳を澄ませるように、静かに目を細める。


 まるで、この歌に応じるものが他にいると知っているように。


 シノの歌が、さらに柔らかくなる。


 黒い糸が震えた。


 そして、部屋の隅に、ぽすん、と音がした。


 何かが落ちたような、軽い音。


 全員の視線がそちらへ向く。


 白く、丸く、もふもふしたものがいた。


 鼻は少し長い。


 耳は小さい。


 体はころんとしていて、短い脚で絨毯の上にちょこんと立っている。


 見たことのない獣だった。


 白い獣は、きょろきょろと部屋を見回した。


『今の歌、きみー?』


 シノは歌を止めかけた。


 けれど、すぐに小さく続ける。


 止めてはいけない気がした。


 白い獣は、シノを見て嬉しそうに目を細めた。


『いい歌だねー。ふわふわしてた』


 そして、鼻をひくひくさせる。


『で、お腹すいたー。なんか食わせてよー』


 部屋の空気が止まった。


 マルナ院長は、膝をつきかけた姿勢のまま固まっている。


 レスト侯は、それが神獣なのか、小動物なのか、判断できない顔をしていた。


 リンちゃんだけが、静かに目を細めている。


 シノは、白い獣を見つめた。


 ずっと昔、母か父が教えてくれた。


 悪い夢を見たら、獏にあげればいい。


 怖い夢を食べてくれる、夢の獣。


「もしかして……獏?」


『うん。夢喰いの獏だよー』


 白い獣は、得意げに胸を張った。


『悪い夢なら食べられるよ。いい夢は残しておくけどね』


 それから、リーゼリアの枕元に目を向ける。


 髪飾りから伸びる黒い糸が、まるで怯えたように引っ込もうとしていた。


『あ、あるじゃん』


 白い獣は、とてとてと寝台へ歩いていく。


『焦げた悲しみ。苦い怖さ。守りそこねた夢。うーん、あんまりおいしくなさそう』


「食べるの?」


 シノが尋ねると、白い獣は振り返った。


『食べるよー。ぼく、そういうの食べるために来たんだもん』


 そして、またシノを見る。


『ねえ、きみ。名前つけてよ』


「名前?」


『うん。歌で呼ばれたから、名前があると、また来やすいんだー』


 シノは少しだけ考えた。


 獏。


 ばく。


 悪夢を食べる、夢の獣。


「じゃあ……バッくん?」


『バッくん』


 白い獣は、ぱちぱちと瞬きをした。


『いいねー。呼びやすい。ぼく、バッくん』


 その瞬間、シノの胸の奥で、またひとつ、やわらかな結び目が生まれた。


 リンちゃんの時とは少し違う。


 金色のうみのような静けさではなく、温かい布団の中に潜り込むような、ふかふかした結び目。


 バッくんは、リーゼリアの枕元へ戻った。


『じゃ、いただきまーす』


 そう言うと、バッくんは口を開けた。


 黒い糸が、するすると吸い込まれていく。


 髪飾りから伸びていた影が、ひとつ、またひとつとほどける。


 リーゼリアが小さく震えた。


「お母様……」


 シノは歌を止めなかった。


 ねんねんころりよ。


 おころりよ。


 リーゼリアの表情が、少しずつやわらいでいく。


 悪夢が食べられていく。


 ただし、すべてが消えるわけではない。


 バッくんは、黒いものだけを食べていた。


 壊れた呪い。


 歪んだ恐怖。


 母の記憶に絡みついた悪夢。


 それだけを、もぐもぐと食べていく。


『うへぇ。カラい、でもこれがいい。三辛はあるなー』


 バッくんは顔をしかめた。


『でも、奥に甘いのがある。大事な夢だね』


 黒い糸が最後の一本まで吸い込まれる。


 髪飾りの青い石が、淡く光った。


 けれど、石の奥にはまだ黒い曇りが残っている。


 リンちゃんが、静かに歩み寄った。


 金色の角が、青い石へそっと触れる。


 黒く曇っていた石の内側に、透明な光が戻っていく。


 絡みついていた影が消え、銀の髪飾りは、まるで洗い清められたように澄んだ輝きを取り戻した。


 呪いの器ではなく。


 ただ、母の祈りを残す小さな夢守りとして。


 リンちゃんは何も言わない。


 けれど、その静かな瞳は、もう大丈夫だと告げているようだった。


 部屋の中に、優しい香りが広がる。


 花の匂い。


 古いドレスの匂い。


 子どもの髪を撫でる手の温もり。


 リーゼリアの頬に、涙が一筋こぼれた。


 けれど、その顔はもう苦しんでいなかった。


 眠っている。


 ちゃんと眠っている。


 そして、夢を見ていた。


     ***


 リーゼリアは、夢の中で母に会った。


 暗い廊下ではない。


 追いかけても届かない背中ではない。


 暖かな午後の部屋だった。


 窓から光が入り、白いカーテンが揺れている。


 母は、寝台のそばに座っていた。


 若く、美しく、優しい顔で。


「リーゼ」


 母が呼ぶ。


 リーゼリアは泣きながら駆け寄った。


「お母様!」


 母は、彼女を抱きしめた。


 やわらかい腕。


 懐かしい匂い。


 ずっと欲しかった温もり。


「ごめんなさい、お母様。私、怖くて、ずっと……」


「いいのよ」


 母は、リーゼリアの髪を撫でた。


「怖かったのね」


「お母様に会いたかったの。でも、夢を見ると怖くて……」


「もう大丈夫」


 母は微笑んだ。


「私は、あなたを怖がらせるために夢に残ったのではないわ」


「じゃあ、どうして……」


「あなたが、愛されていたことを忘れないため」


 リーゼリアは涙をこぼした。


 母は、そっと言った。


「でも、リーゼ。お父様を、あまり一人で泣かせないであげて」


「お父様……」


「あなたが苦しむと、あの人も一緒に苦しむの」


 リーゼリアは頷いた。


「はい……」


「あなたは、まだ生きている。だから、目を開けたら、お父様の手を握ってあげて」


 母の声は、子守唄のように優しかった。


「そして、いい夢をくれた子に、ありがとうを言いなさい」


     ***


 リーゼリアが目を覚ました時、部屋には朝のような静けさがあった。


 実際には、まだ夕方だった。


 けれど、長い夜が終わったような気配があった。


 彼女は、ゆっくりと目を開けた。


「……お父様」


 レスト侯が息を呑む。


「リーゼ」


 リーゼリアは、細い手を伸ばした。


 レスト侯は、その手を両手で包む。


「お母様に、会えました」


 その一言で、レスト侯の顔が歪んだ。


「そうか……」


「怖くありませんでした」


「そうか」


「お父様を、一人で泣かせないでって」


 レスト侯は、もう何も言えなかった。


 娘の手を握りしめ、深く頭を垂れる。


 リーゼリアは、ゆっくりとシノを見た。


「シノさん」


「はい」


「ありがとう……ございます」


「ううん」


 シノは首を振った。


「いい夢、見られた?」


 リーゼリアは、涙を浮かべながら笑った。


「はい」


 その時、ベッドの足元で、バッくんがころんと丸まっていた。


 リーゼリアは目を丸くする。


「その子は……?」


「バッくん」


「バッくん……」


 リーゼリアは、そっと手を伸ばした。


 バッくんは少しだけ近づき、もふもふの頭を彼女の手に押しつける。


 リーゼリアの表情が、ふわりとほどけた。


「もふもふですっ……」


『よき夢の残り香がする子だねー』


 バッくんは満足そうに言った。


『しばらく撫でてもいいよ』


 リーゼリアは、両手でバッくんを抱きしめた。


『あ、強すぎると夢がこぼれるよー』


「ご、ごめんなさい」


『でも、少しならいいよー』


 リーゼリアは泣きながら笑った。


 レスト侯が、その光景を見て、静かに涙を流していた。


 娘が笑っている。


 何日も、何夜も、眠ることさえ怖がっていた娘が。


 白い丸い獣を抱きしめて、泣きながら笑っている。


「……マルナ殿」


 レスト侯は、声を震わせた。


「あの方は、いったい……」


 マルナ院長は胸に手を当て三本線を引き、深く息をついた。


「断じるには、まだ早いかもしれません」


 そう言いながら、マルナ院長は持ってきた鞄へ手を伸ばした。


 シノが目を丸くする。


「院長先生?」


「シノ。リンちゃん様が同行される時点で、備えは必要です」


 マルナ院長は鞄の奥から、小さな厚い本を取り出した。


 古びた革表紙には、金の文字でこう記されている。


『神獣大全 略抄』


「持ってきてたの?」


「持ってこない理由がありません」


 マルナ院長は真顔で答え、頁をめくった。


 レスト侯は、その本を見て息を呑む。


「神殿の神獣記録ですか」


「古い写しです。孤児院の蔵書です」


「孤児院に、そのようなものが……」


「神は子どもにも必要ですので」


 マルナ院長は静かに言い、指で頁を追った。


「白き体毛。丸き体躯。夢路に現れ、悪夢を食す。眠りの底に沈みすぎた魂を、よき夢の岸へ戻すもの……」


 その指が、ある一文で止まった。


ばく。あるいは、夢喰いの神獣に類するもの」


 レスト侯は、ゆっくりとバッくんを見た。


 白く丸い獣は、リーゼリアに抱きしめられながら、満足そうに目を細めている。


『ふかふかは、夢にいいよー』


 レスト侯は、さらに深く頭を下げた。


「娘を苦しめるものを食べてくださったこと、心より感謝申し上げます」


『んー? 食べたかったから食べたよー』


 マルナ院長の手が、また胸元へ動いた。


 敬意と戸惑いが、同時にそこにあった。


「少なくとも、軽んじてよい存在ではありません」


 マルナ院長はそう言ってから、バッくんを見た。


 バッくんはリーゼリアの腕の中で、ふにゃりとあくびをした。


『でも、ふかふかはもっとあってもいいよー』


「……神獣様にも、好みがおありなのですね」


 レスト侯が、涙を拭いながら呟いた。


 リンちゃんは、窓辺で静かに目を閉じていた。



 シノは、また母の子守唄を思い出していた。


 歌は魔法ではない。


 歌っただけで病気が治るわけではない。


 それでも、怖い夜を越えるための歌はある。


 もしそれを魔法と呼ぶなら。


 シノの母は、きっと本当に、大魔導士だったのだ。

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