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眠れぬ令嬢

 侯爵が、孤児院の玄関先で膝をついた。


「どうか、娘を助けていただきたい」


 その声は、震えていた。


 領主としての声ではなかった。

 貴族としての声でもなかった。


 ただ、娘を失いかけている父親の声だった。


 シノは、すぐには答えられなかった。


 助ける。


 その言葉が、あまりにも大きかった。


 シノは医者ではない。

 魔導士でもない。

 侯爵の娘に会ったこともない。


 その子がどんな顔をしているのかも、どんな声で話すのかも知らない。


「……どうして、わたしなんですか?」


 シノは、正直にそう聞いた。


 レスト侯は、顔を上げた。


 疲れ切った目だった。

 けれど、その奥にある必死さだけは消えていなかった。


「ローネ湖のことを聞いた」


「ローネのうみ……」


「黒く濁っていた湖が、澄んだと。金色の神獣が現れたと。そして、そのそばに、歌う少女がいたと」


 シノは、胸元に手を当てた。


 ローネの湖は、歌ってどうにかなった。


 いや、どうにかしようと思ったわけではない。


 父が見せてくれたローモンド湖を思い出して、ただ歌っただけだ。


 その結果、リンちゃんが来てくれた。


 けれど、リンちゃんはシノのものではない。

 呼べば必ず来る道具でもない。


 来てくれたのだ。


 あの黒い湖の前で、シノの歌を聞いて。


「リンちゃんは、わたしが呼び出したりしたとかじゃありません」


 シノは言った。


「来てくれただけです」


「リンちゃん……」


 レスト侯が、その名を繰り返した。


 侯爵の目に、わずかな戸惑いが浮かぶ。


 無理もなかった。


 金色の神獣。


 湖を清めたかもしれぬ存在。


 その名が、あまりにも幼く、親しげだったからだ。


 マルナ院長が、静かに口を開いた。


「侯爵様。リンちゃんとは、シノがそう呼んでいる神獣様のことです」


「神獣様を、そのように……?」


「はい」


 マルナ院長は、井戸の方へ目を向けた。


「私も最初は、あまりに恐れ多い呼び名ではないかと思いました。ですが、神罰は下っておりません」


 シノは少し不安そうに、マルナ院長を見る。


 マルナ院長は、やさしく頷いた。


「むしろ、神獣様はその名を拒んではおられないように見えます」


 レスト侯は、言葉を失った。


 神獣に名を付ける。


 それだけでも、普通なら畏れ多い。


 だが、目の前の少女は、神獣を従えているのではない。


 恐れもせず、軽んじもせず、ただ親しい者として呼んでいる。


「……神獣様が、お許しになっている名、ということですか」


「少なくとも、私はそう受け止めております」


 マルナ院長は静かに答えた。


「ですから侯爵様。シノがリンちゃんと呼ぶ時、それは軽んじているのではありません。あの子なりの敬意と、親しみなのです」


「そうですか……」


 レスト侯の声が、かすかに震えた。


「シノ殿が呼びよせた訳ではないとしても、何か道があるのではないかと、もう他に頼れるものが……ないのだ」


 彼は深く息を吸った。


「娘は、眠れぬのです」


 シノは黙って聞いた。


「眠れば、亡き母の夢を見る。けれど、その夢から覚めるたびに、少しずつ弱っていく。神殿にも、医師にも、魔導士にも診せた。だが、誰にも救えなかった」


 悪夢。


 眠りの中にあるもの。

 呪い。

 夢。


 そういうものを、シノは知らない。


 湖とは違う。

 水の濁りとは違う。


 人の心の中にある夜を、どうすればいいのかなんて、分からない。


「わたし……魔導士じゃありません」


 シノは、正直に言った。


「呪いを解く方法も、分かりません」


 レスト侯は頷いた。


「承知した」


 けれど、その目から希望は消えなかった。


「それでも、娘はもう長く眠れていない。日に日に弱っていく。私は父親として、すがれるものがあるなら、すがりたい」


 シノは何も言えなかった。


 できる、とは言えない。

 助けます、とも言えない。


 でも、目の前で膝をついているこの人が、本当に娘を助けたいと思っていることだけは分かった。


 井戸の方で、かすかな金色の光が揺れた。


 リンちゃんが、いつの間にか姿を現していた。



 子鹿ほどの姿で、静かにシノを見ている。


 マルナ院長が息を呑み、すぐに膝を折りかけた。


「リンちゃん様……」


 リンちゃんは、院長を止めるように尾を揺らした。


 そして、レスト侯の方を見た。


 金色の瞳が、静かに細められる。


 まるで、遠い夢の奥を見ているようだった。


 レスト侯は、その神獣の視線を受け、膝をつき胸に三本の線を引いた。


「……ああ神獣様。本当に顕現なされたのですね、どうか、娘を……」


 リンちゃんは答えなかった。


 ただ、シノの方へ歩み寄り、その鼻先をシノの手にそっと触れさせた。


 ひんやりしている。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


「……行った方がいいの?」


 シノが小さく尋ねると、リンちゃんの胸の奥で金色の光が一度だけ瞬いた。


 答えのようだった。


     ***


 マルナ院長は、簡単には許可しなかった。


「侯爵様。シノはまだ子どもです」


「承知している」


「神獣様に縁を持ったとはいえ、神官でも魔導士でもありません」


「それも、承知している」


「そして、孤児院の子です。領主家の都合で連れていかれる存在ではありません」


 マルナ院長の声は静かだった。


 だが、そこには一歩も引かない強さがあった。


 レスト侯は、もう一度頭を下げた。


「無理に連れていくつもりはない。シノ殿が拒むなら、それまでだ。だが、父として頼ませてほしい」


 シノは、二人の間で迷っていた。


 怖い。


 侯爵家も怖い。


 呪いも怖い。


 悪夢なんて、どうすればいいのか分からない。


 けれど。


 娘を助けてほしいと頭を下げたレスト侯の背中を見ていると、前世の父を思い出した。


 月森奏一郎。


 病室で手を握ってくれた父。


 歌を、景色を、画面の向こうの世界を届けてくれた父。


 父も、あんな顔をしていたのだろうか。


 詩乃が眠れない夜。


 咳が止まらない夜。


 怖い夢を見て泣いた夜。


 父は、何もできない自分を責めるような顔で、そばにいてくれた。


「院長先生」


 シノは言った。


「行ってみます」


「シノ」


「呪いは解けないかもしれない。でも……眠るのが怖い子に、歌うことならできます」


 マルナ院長は、しばらくシノを見つめていた。


 そして、深く息をつく。


「分かりました。ただし、私も同行します」


「院長先生も?」


「当然です」


 マルナ院長はレスト侯を見た。


「侯爵様。シノひとりをお預けすることはできません」


「もちろんだ。望む者は同行してほしい」


「それから、シノに危険があると判断した場合は、即座に戻ります」


「従おう」


 レスト侯は迷わず頷いた。


 その顔にあるのは、貴族の誇りではなく、親としての必死さだった。


     ***


 レスト侯爵家へ向かう馬車の中で、レスト侯は娘の病状を話した。


 名は、リーゼリア・レスト。


 年はシノより少し上。


 もともと身体の弱い子ではなかったという。


 だが、ひと月ほど前から、眠るたびに悪夢を見るようになった。


「最初は、ただの夢だと思った」


 レスト侯は、膝の上で両手を握りしめていた。


「亡き母の夢を見るのだと、リーゼは言っていた。寂しさが見せる夢なのだろうと、私は……そう思ってしまった」


 母の夢。


 その言葉に、シノは胸の奥が少し痛んだ。


「でも、違ったんですか?」


「ああ」


 侯爵は低く答えた。


「眠るたび、妻の姿が遠ざかるようになった。追いかけると、暗い場所へ落ちる。声をかけても振り向かない。やがて、妻の姿をした何かが、リーゼを冷たい場所へ引きずり込むようになった」


 マルナ院長が眉を寄せる。


「それは……ただの夢ではありませんね」


「医師も呼んだ。神官も呼んだ。夢祓いの術師も呼んだ。だが、誰にも解けなかった」


 レスト侯の声が少し震える。


「ここ三日は、ほとんど眠れていない。眠ると悪夢に落ち、起こすと泣き叫び、また気を失うように眠る。そしてまた、同じ夢へ戻る」


「同じ夢に戻る……」


 シノは呟いた。


「悪夢が、待っているみたいですね」


 マルナ院長が静かに言った。


 レスト侯は頷いた。


「枕元には、妻の遺品を置いている。リーゼは、それがないと眠れない。だが最近は、それを握るほど夢が深くなるように見える」


「遺品?」


「髪飾りだ。妻が使っていたものだが、夢守りの術式が施されていると聞いている。本来は、眠る子を悪夢から守るための小さな魔道具だった」


 守るためのもの。


 それが、悪夢を深くしている。


 シノは、馬車の床を見つめた。


 難しいことは分からない。


 でも、ひとつだけ分かった。


 リーゼリアは、お母さんに会いたかったのだ。


 夢の中だけでも。


 なのに、その夢が怖いものに変わってしまった。


 眠るのが怖い。


 でも眠らなければ、お母さんの声を思い出せなくなる気がする。


 その気持ちは、少し分かる気がした。


 シノにも、母の声の記憶がある。


 もう遠くなってしまったけれど、消えてはいない。


 夜のベッドのそばで、そっと歌ってくれた子守唄。


 父が届けてくれた世界の歌とは違う。


 もっと近くて、もっと小さくて、もっと柔らかい歌。


 シノは、膝の上で手を重ねた。


     ***


 レスト侯爵家の屋敷は、孤児院とは比べものにならないほど大きかった。


 高い鉄門。


 広い庭。


 手入れされた石畳。


 玄関には使用人たちが並び、誰もが緊張した顔でシノたちを迎えた。


 シノは、思わずマルナ院長の袖を握りそうになった。


 貴族の屋敷は、ファルク家で慣れたつもりだった。


 けれど、ここは違う。


 ファルク家の屋敷は古く、静かで、どこか寂しかった。


 レスト侯爵家の屋敷は、整っている。


 けれど、空気が重い。


 美しい廊下にも、磨かれた燭台にも、薄い影がかかっているようだった。


 リンちゃんは小さな姿で、シノの隣を静かに歩いている。


 使用人たちは、そのたびに息を呑み、深く頭を下げた。


 マルナ院長は何度も「神獣様に道をお開けして」と小声で言いそうになっていたが、リンちゃんが特に気にしていないので、どうにか堪えているようだった。


 やがて、厚い扉の前に着いた。


 レスト侯が、そっと扉を開ける。


 部屋の中は薄暗かった。


 カーテンが閉じられ、昼なのに夜のようだ。


 寝台の上に、少女が横たわっている。


 リーゼリア・レスト。


 淡い金髪。


 白い肌。


 けれど、その表情は穏やかではなかった。


 眉間にしわを寄せ、唇を震わせ、細い手でシーツを握りしめている。


「いや……」


 かすれた声が漏れた。


「来ないで……お母様……」


 シノの胸が、ぎゅっと痛んだ。


 悪夢を見ている。


 ただ怖い夢を見ているだけではない。


 誰かに追われているような、何か大切なものを失い続けているような、そんな苦しみがあった。


「リーゼ」


 レスト侯が寝台のそばに膝をつく。


「父がここにいる」


 けれど、リーゼリアには届かない。


 小さな声で、何度も同じ言葉を繰り返す。


「お母様……行かないで……」


 シノは、部屋の隅に置かれた小さな箱に気づいた。


 古い木箱だった。


 蓋は開いていて、中には髪飾りのようなものが入っている。


 淡い青の石がついた、銀の髪飾り。


 その周りに、黒い糸のようなものが絡んでいるように見えた。


「それが……?」


 シノが尋ねると、レスト侯は箱を見た。


「ああ。妻の遺品だ」


「リーゼリア様のお母様の?」


「そうだ。リーゼが幼い頃、妻が使っていた髪飾りだ。妻が亡くなってから、リーゼはこれを枕元に置くようになった」


 レスト侯の声が沈む。


「最初は、これがあると母の夢を見られると言っていた。優しい夢だったのだ。妻が髪を撫でてくれる夢。子守歌を歌ってくれる夢」


 シノは、箱の中の髪飾りを見つめた。


「でも、最近は……?」


「夢が変わった」


 レスト侯は、苦しそうに言った。


「妻が遠ざかる。呼んでも振り返らない。追いかけると、暗い場所へ引きずり込まれる。そう言っていた」


 マルナ院長が静かに眉を寄せる。


「夢守りの術式が壊れたのかもしれません」


「壊れた?」


「守ろうとする力が歪んでしまったのでしょう。本来は母君の優しい記憶を守るものだった。それが今は、悪夢だけを繰り返し呼び戻している」


 シノには、難しいことは分からない。


 けれど、なんとなく分かった。


 守りたい気持ちが、壊れてしまった。


 思い出したい夢が、悪夢になってしまった。


 それは、とても悲しいことだと思った。


 その時、リーゼリアの瞼がわずかに開いた。


「……お父様」


 レスト侯が息を呑む。


「リーゼ」


「また……夢を見ていました」


 リーゼリアの声は細く、今にも消えそうだった。


「お母様が、行ってしまうのです。追いかけると、真っ暗なところへ落ちて……でも、追いかけないと、お母様の声を忘れてしまいそうで……」


 シノは寝台のそばに寄った。


「リーゼリア様」


 リーゼリアは、ぼんやりとシノを見る。


「あなたが……シノ様?」


「はい。でも、様はいらないです」


 そう言ってから、シノは少しだけ迷った。


 いらないです、で合っていただろうか。

 侯爵令嬢に向かって、そんなふうに言ってよかったのだろうか。


 リーゼリアは、そんなシノを見て、かすかに目を細めた。


「では……シノさん、とお呼びしてもよろしいですか」


「うん。いいよ」


 返事をしてから、シノはまた少しだけ困った顔をした。


「あ、えっと……いいです」


 リーゼリアの口元に、ほんの小さな笑みが浮かんだ。


「シノさん」


「はい」


「どうか、無理に言葉を整えないでください」


「え?」


「私、怖いのです。眠るのも、夢を見るのも、目を覚ますのも」


 リーゼリアは、布団の端を握った。


「だから、今はきれいな言葉より、シノさんの言葉で話していただけた方が、安心します」


「でも、リーゼリア様は侯爵様の娘さんで……」


「はい。ですから、私はすぐには砕けた話し方ができないと思います」


 リーゼリアは、少し困ったように微笑んだ。


「でも、シノさんには、普通に話してほしいのです。お友達に話すように」


「許す。友達のように話しかけてやってくれ」

レスト候も同調する。


「お友達……」


 シノは、その言葉を小さく繰り返した。


「じゃあ……リーゼリア様が嫌じゃなければ、少しだけ、そうする」


「はい」


「でも、様はつけてもいい?」


「もちろんです」


 リーゼリアは頷いた。


「私も、すぐにシノちゃんとは呼べないかもしれません」


「うん。じゃあ、少しずつでいいね」


「はい。少しずつで」


 それで、少しだけ部屋の空気が軽くなった。


 リーゼリアは、改めてシノを見つめる。


「湖を……清めた方……」


「清めたというか……歌ったら、リンちゃんが来てくれたというか……」


 シノは少し困って笑った。


 リーゼリアの目が、足元のリンちゃんへ向く。


「神獣様……」


 リンちゃんは静かに目を細めた。


 リーゼリアは、小さく息を吐く。


「私、眠るのが怖いのです」


「うん」


「でも、眠らなければ……お母様に会えないかもしれなくて」


「うん」


「お母様に会いたいと思うのは、いけないことですか」


 シノは首を横に振った。


「いけないことじゃないよ」


 リーゼリアの瞳が揺れる。


「でも、お父様が悲しそうにするのです。私が泣くと、お父様も苦しそうで……」


 シノは、レスト侯を見た。


 侯爵は娘の手を握ったまま、何も言えずに俯いている。


「お母さんに会いたいって思うのも、本当だと思う」


 シノはゆっくり言った。


「でも、お父さんが心配してるのも、きっと本当だよ」


 リーゼリアの目から、涙がこぼれた。


「私……どうしたらいいのか、分からないのです」


「私も、分からない」


 シノは正直に言った。


「わたし、魔導士じゃないし、呪いも解けない」


 リーゼリアが、少しだけ不安そうな顔をする。


「でも」


 シノは、そっとリーゼリアの手を握った。


「眠るのが怖い子に歌う歌なら、知ってる」


「歌……?」


「うん」


 シノは少しだけ胸を張った。


「これは、ある意味、魔法です」


 マルナ院長が、ほんの少し目を丸くした。


 シノが魔法だと自分から言うのは珍しい。


 リーゼリアはかすれた声で尋ねた。


「シノさんのお母様は……大魔導士なのですか?」


 シノは首を横に振った。


「ううん。違うよ。普通のお母さん」


 そして、優しく笑った。


「でも、リーゼリア様がいい夢を見られたら、大魔導士かもね」


 リーゼリアの瞳が、少しだけ揺れた。


「いい夢……見たいです……」


「うん」


 シノは頷いた。


「じゃあ、歌うね」


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