リンちゃん様、孤児院に来る
「今回も、効果なしか……」
オルヴァン・レスト侯の声は、ひどく掠れていた。
寝台のそばに立つ老神官は、沈痛な面持ちで目を伏せる。
「申し訳ございません、侯爵様。祈祷も、夢祓いの術式も、反応はいたしました。しかし……奥へ届きません」
「奥?」
「はい。お嬢様の夢の奥に、何かが絡みついております。病ではありません。けれど、通常の呪いとも違う」
寝台の上で、リーゼリアが小さく身を震わせた。
「お母様……行かないで……」
オルヴァンは、娘の手を握った。
細い指は冷たく、汗ばんでいた。
「医師は、体に異常はないと言った」
「はい」
「神官は、祈りが届かないと言う」
「……はい」
「夢祓いの術師は、夢の奥へ入れないと言った」
オルヴァンは、笑おうとして失敗した。
「では、私は何に縋ればいい」
老神官は答えられなかった。
重い沈黙の中、部屋の扉が控えめに叩かれる。
「旦那様」
家令の声だった。
「ローネ村より、急ぎの報せが届いております」
「今はそれどころではない」
「ですが……湖が、浄化されたと」
オルヴァンの手が止まった。
「湖?」
「はい。瘴気に満ちていたローネの湖が、黄金色に輝き、清められたそうです」
老神官が顔を上げた。
「まさか、神殿から浄化師が?」
「いえ」
家令は、一瞬ためらった。
「歌った少女がいた、と」
部屋の空気が変わった。
「歌った、少女……?」
「そして、湖上に金色の神獣が現れたと。村人たちは、麒麟であったと証言しております」
老神官が息を呑んだ。
「麒麟……清浄と泰平の瑞獣……」
オルヴァンは、眠る娘を見下ろした。
リーゼリアの唇が、また震える。
「お母様……暗い……怖い……」
その声を聞いた瞬間、オルヴァンの目に迷いは消えた。
「その少女は、どこにいる」
「ルミナリア孤児院の、シノという子だそうです」
侯爵は立ち上がった。
「馬車を出せ」
「旦那様ご自身が?」
「ああ」
彼は、娘の手をそっと寝台へ戻した。
「領主としてではない」
声は静かだった。
「父として行く」
***
湖が黄金色に輝いた翌朝。
ルミナリア孤児院の井戸のそばに、神獣がいた。
「…………」
マルナ院長は、井戸の前で固まっていた。
手には水桶。
足元には、まだ汲む前の空の桶。
そして井戸の横には、子鹿ほどの大きさになった金色の獣が、前脚を折りたたんで丸くなっている。
鹿に似た体。
竜のような細かな鱗。
ふわりと揺れる金のたてがみ。
昨日、瘴気に満ちたローネの湖の上に立っていた瑞獣。
麒麟。
清浄と泰平を司る神獣。
その神獣が、井戸の横で、すやすや寝ていた。
「……シノ」
マルナ院長は、ゆっくりと声を出した。
「はい」
シノは、少し離れた場所で洗濯物の籠を抱えていた。
朝から、なんとなくこうなる気はしていた。
胸の奥に、昨日生まれたやわらかな結び目がある。
それが朝から、ぽかぽかしていたのだ。
「その子は」
「リンちゃんです」
「……リンちゃん」
「はい」
「昨日の」
「はい」
「ローネの湖に現れた」
「はい」
「神獣様ですね?」
「リンちゃんです」
マルナ院長は、水桶をそっと地面に置いた。
「少し、待ちなさい」
「はい」
そう言うと、マルナ院長は振り返り、孤児院の中へ早足で戻っていった。
シノは首を傾げる。
少しして、孤児院の中から、どたどたどた、と珍しく慌ただしい足音が聞こえた。
マルナ院長が戻ってくる。
手には、分厚い本。
先日、子どもたちに読んで聞かせていた『神獣大全』だった。
院長は井戸のそばに立ったまま、本をものすごい速さでめくった。
「麒麟……麒麟……清浄……泰平……瑞獣……金のたてがみ……水辺……」
頁をめくる手が止まる。
マルナ院長は、本とリンちゃんを交互に見た。
それから、本を閉じた。
静かに息を吸う。
そして。
「ははーっ」
その場に膝をついた。
「院長先生!?」
シノが慌てた。
リンちゃんが、薄く目を開ける。
金色の瞳が、眠そうに院長を見た。
リックが食堂の窓から顔を出す。
「何してんの、院長先生」
ネリも隣から覗いた。
「あ、リンちゃんだ」
「え、もう普通に呼ぶの?」
リックが振り返る。
ミミが駆け出してきた。
「リンちゃん!」
「待ちなさい、ミミ!」
マルナ院長が膝をついたまま叫んだ。
「その御方は、神獣様です!」
「リンちゃん様?」
「そうです!」
「リンちゃん様、おはようございます」
ミミはぺこりと頭を下げた。
リンちゃんは、ふわりと尾を揺らした。
それは返事のようにも見えた。
マルナ院長は、もう一度深く頭を下げる。
「清浄と泰平を司る麒麟様。辺境の粗末な孤児院ではございますが、どうかご無礼をお許しください」
リンちゃんは、あくびをした。
神々しい金色のあくびだった。
「……あくびしてる」
リックが小声で言う。
「神獣様も眠い時は眠いのです」
マルナ院長は真顔で返した。
シノは、リンちゃんのそばにしゃがみ込んだ。
「リンちゃん、どうして来たの?」
リンちゃんは、すっと首を伸ばした。
そして、シノの頬に鼻先を近づける。
ひんやりしている。
でも、嫌な冷たさではない。
湖の朝みたいな冷たさだった。
シノは少し笑った。
「遊びに来たの?」
リンちゃんは、目を細めた。
その答えで十分だった。
***
リンちゃんが孤児院に来たことで、朝の仕事はかなり混乱した。
まず、井戸水が妙に澄んだ。
マルナ院長が水を汲むと、桶の中の水がきらきら光っている。
リックが覗き込んだ。
「これ、飲んでいいやつ?」
「むしろ、今までで一番飲んでいい水だと思います」
ネリが言った。
マルナ院長は、まず自分で少し口に含んだ。
そして目を見開く。
「……おいしい」
「院長先生が水でびっくりしてる」
「水は大事です」
院長は真面目な顔で言った。
「とても大事です」
次に、ミミがリンちゃんのたてがみに花を挿そうとした。
「ミミ!」
マルナ院長の声が飛ぶ。
「神獣様のたてがみに勝手に花を飾ってはいけません!」
「だめ?」
ミミがリンちゃんを見る。
リンちゃんは、じっとミミを見た。
それから、少しだけ頭を下げる。
「いいって」
「神獣様のお許しが出たなら……いえ、出たのでしょうか……?」
マルナ院長は混乱していた。
結局、ミミは小さな白い花をひとつだけリンちゃんのたてがみに挿した。
金色の毛に、白い花がよく似合った。
リンちゃんは誇らしげだった。
「かわいい」
シノが言う。
「神獣様にかわいいは失礼では……」
マルナ院長は言いかけて、リンちゃんが嬉しそうに尾を揺らしているのを見た。
「……いえ、かわいらしいですね」
少しずつ、院長も慣れてきていた。
完全には慣れていない。
だが、子どもたちが「リンちゃん様」と呼び、リンちゃんが井戸のそばで寝たり、庭の草を眺めたり、シノの後ろをついて歩いたりしているうちに、孤児院の空気は少しずつ落ち着いていった。
ただし、礼拝前には必ずマルナ院長が言う。
「リンちゃん様に失礼のないように」
そしてリックが言う。
「失礼ってどこから?」
ネリが答える。
「リック基準なら、だいたい全部危ないです」
「ひどい」
リンちゃんは、そのやり取りを聞いて、どこか楽しそうに目を細めていた。
***
ローネの湖が浄化されたという噂は、驚くほど早く広がった。
最初は、ローネ村の人々の間だけだった。
黒く濁っていた湖が、一夜にして澄んだ。
熱を出していた子どもたちの容体が落ち着いた。
水面が黄金色に輝いた。
湖の上に、金色の神獣が立っていた。
そのそばに、ルミナリア孤児院のシノがいた。
話は、村から村へ渡る。
行商人が聞く。
旅の神官が聞く。
薬草を買いに来た老婆が聞く。
街道の休憩所で、馬車の御者が聞く。
そして噂は、少しずつ形を変えていった。
シノが湖に手をかざしたら、黒い水が金になった。
シノが歌ったら、神獣が天から降りた。
シノが麒麟を連れて帰った。
ルミナリア孤児院には、今、神獣が住んでいる。
シノ本人は、ほとんど何も知らなかった。
知っていたのは、リンちゃんが朝になると井戸のそばにいて、昼には庭でうとうとし、夕方になるとふっと姿を消すこと。
そして、時々気が向くとまた遊びに来ることだけだった。
「リンちゃんって、ずっとここにいるわけじゃないんだね」
シノが聞くと、リンちゃんは静かに目を閉じた。
答えはない。
けれど、胸の奥のやわらかな結び目が、ふわりと温かくなる。
帰る場所は、他にもある。
でも、ここにも来る。
そんな感じだった。
「そっか」
シノはリンちゃんの横に座った。
「また来てね」
リンちゃんは、白い花の飾られたたてがみを揺らした。
***
その日の夕方。
ルミナリア孤児院の門前に、立派な馬車が止まった。
黒塗りの車体。
銀の飾り金具。
扉には、レスト侯爵家の紋章が刻まれている。
孤児院の子どもたちは、窓や扉の隙間からこっそり覗いた。
「すごい馬車」
「王様?」
「王様はもっとすごいんじゃない?」
「じゃあ、すごい人」
リックが小声で言う。
「リンちゃん様を見に来たのかな」
ネリが首を振る。
「たぶん、それだけじゃないと思います」
シノは、マルナ院長の後ろに立っていた。
リンちゃんは、今日は井戸のそばにはいない。
けれど胸の奥の結び目は、静かに温かい。
いる。
どこかにはいる。
そんな感じがした。
馬車の扉が開く。
降りてきたのは、疲れた顔の貴族だった。
深い藍色の外套をまとい、髪には白いものが混じっている。
格式ある人物だと、一目で分かった。
だが、その顔には高慢さよりも、切実さがあった。
マルナ院長が丁寧に頭を下げる。
「ルミナリア孤児院へようこそ。どのようなご用件でしょうか」
男は帽子を取った。
「私はオルヴァン・レスト。この地を預かる侯爵である」
マルナ院長の表情が固くなる。
子どもたちの間に緊張が走った。
領主。
それも侯爵。
普通なら、孤児院の食堂に直接来るような人物ではない。
レスト侯は、マルナ院長に頭を下げた。
浅い会釈ではない。
深く、はっきりとした礼だった。
「突然の訪問をお許しいただきたい」
「侯爵様、そのような」
「いや、礼を欠いているのはこちらだ」
レスト侯は顔を上げ、シノを見た。
「君が、シノ殿か」
シノは少し緊張しながら頷いた。
「はい」
レスト侯は、しばらくシノを見ていた。
その目にあったのは、疑いではなかった。
期待でもなかった。
追い詰められた人の、最後の祈りのようなものだった。
そして彼は、孤児院の玄関先で膝をついた。
マルナ院長が息を呑む。
リックが目を見開いた。
ネリが両手を口元に当てる。
侯爵が、孤児院の少女の前で膝をついた。
「シノ殿」
レスト侯は、深く頭を下げた。
「どうか、娘を助けていただきたい」
シノは、何も言えなかった。
その時、井戸の方から、かすかな金色の光が揺れた。
まるで、眠っていた神獣が、遠い夢の気配に気づいたように。




