湖上の麒麟
その湖は、瘴気で満ちていた。
シノは、黒い湖面を見つめたまま動けなかった。
水だけが黒い。
空を映さない。
雲を映さない。
光を返さない。
まるで湖だけが、別の暗い場所へ沈んでしまったようだった。
「戻ろう、シノ」
ネリが言った。
声が少し震えている。
「これは、私たちだけでどうにかできるものではありません」
「うん……」
シノは頷こうとした。
その通りだ。
戻らなければならない。
村へ知らせて、マルナ院長へ知らせて、神殿にきちんと報告してもらう。
自分にできることなんて、ない。
歌で病気が治るわけじゃない。
歌で水が綺麗になるわけでもない。
前世で、父は言っていた。
歌は魔法じゃない。
歌っただけで、雨が降るわけではない。
歌っただけで、病が消えるわけではない。
それでも、人は歌う。
忘れたくないものを、歌にする。
シノは、黒い湖面から目を離せなかった。
思い出していた。
父が見せてくれた、画面の向こうの湖を。
***
ローモンド湖。
父は、そう言っていた。
スコットランドにある、とても大きくて綺麗な湖なのだと。
画面の中には、低い雲があった。
静かな水面があった。
遠くに、青く霞んだ山影があった。
朝の光が、湖面を金色に滑っていた。
詩乃は、ベッドの上で画面に顔を近づけた。
「きれい……」
父は、少し嬉しそうに笑った。
「実際は、もっと広いよ」
「いいなあ」
ぽつりと言うと、父は少しだけ黙った。
それから、詩乃の頭を優しく撫でた。
「いつか、本物を見られるといいな」
父が再生ボタンを押す。
画面の中で、誰かが歌い始めた。
知らない言葉だった。
けれど、声は優しかった。
湖の岸辺から、遠くへ向かって伸びていくような旋律。
嬉しい歌ではない。
でも、悲しいだけでもない。
遠い場所を思う歌。
もう会えない誰かを思う歌。
それでも、湖の美しさを忘れないための歌。
「これはね、古い湖の歌だよ」
父は言った。
「ローモンド湖の岸辺の歌。美しい水辺と、そこへ帰れなかった人たちの歌だ」
「帰れなかったの?」
「うん。歌には、そういう記憶が残ることがある」
詩乃は、その歌を何度も聞いた。
英語の言葉は、全部は分からない。
でも、最初の響きだけは耳に残った。
美しい岸辺。
美しい丘。
画面の向こうの湖。
詩乃が一度も触れられなかった、本当の水。
***
シノは、黒い湖の前に立っていた。
奇跡を起こそうとしたわけでもない。
自分にそんなことができるとも思っていない。
ただ、思い出した。
父が見せてくれた、画面の向こうの湖を。
低い雲。
静かな水面。
朝の光。
岸辺で歌う人の声。
シノの唇から、知らないはずの遠い土地の言葉がこぼれた。
“By yon bonnie banks……”
ほんの一節。
その先は、言葉というより、景色だった。
父の横顔。
小さなスピーカーから流れる歌。
水面に揺れる金色の光。
シノは歌った。
湖を清めるためではなく。
誰かを助けるためでもなく。
ただ、画面の向こうにあった、あの美しい湖を思い出して。
その歌を、黒い湖の前で口ずさんだ。
最初に反応したのは、水面だった。
黒い湖面に、小さな波紋が広がる。
金色だった。
シノは歌いながら、目を見開いた。
金色の波紋が、ひとつ。
またひとつ。
湖の上に広がっていく。
黒い膜のような瘴気が震えた。
水面に張りついていた黒いものが、波紋に触れたところからほどけていく。
「シノ……?」
リックの声が震えていた。
ネリも、バルドも、声を出せない。
シノ自身も、何が起きているのか分からなかった。
ただ、歌が止まらない。
胸の奥から、あの湖の景色が溢れてくる。
水面に朝が戻るように。
忘れていた光が、もう一度浮かび上がるように。
その時。
湖の中央が、光った。
黒い水が割れる。
そこから、金色の角が現れた。
次に、鹿に似た顔。
竜のような鱗。
水面を濡らさずに歩く、しなやかな脚。
黄金のたてがみが、湖面の風に揺れる。
それは、昨夜『神獣大全』で見た挿絵に似ていた。
けれど、絵よりもずっと美しく、ずっと大きく、ずっと静かだった。
麒麟。
清浄と泰平を司る瑞獣。
金色の神獣が、湖の上に立っていた。
バルドが膝をついた。
「これって……」
リックが口を開けたまま固まっている。
ネリは両手を胸の前で握りしめた。
シノは、歌を止めた。
湖の上の麒麟が、ゆっくりとこちらを見る。
その瞳は、深い水のように静かだった。
その時、湖の底が揺れた。
金色の波紋とは違う。
もっと重く、もっと濁った揺れ。
黒い水が盛り上がる。
湖面の奥から、何かが浮かび上がってきた。
魚のようにも見えた。
蛇のようにも見えた。
獣のようにも見えた。
けれど、どれでもなかった。
骨のような鱗。
濁った目。
裂けた口。
体から瘴気を吐き出す、黒い影。
それは、生き物というより、本来の形を失った何かという姿だった。
「な、なんだよ、あれ……!」
リックが震える声を出す。
黒い獣は、湖面を裂きながら麒麟へ向かって突進した。
シノの喉が凍る。
「危ない!」
叫んだ瞬間。
麒麟が一歩、水面を踏んだ。
ただ、それだけだった。
金色の波紋が、湖全体へ広がる。
黒い獣の身体に、亀裂が走った。
瘴気が悲鳴のような音を立てる。
獣はなおも麒麟へ喰らいつこうとした。
だが、麒麟は逃げない。
角が、わずかに光った。
次の瞬間、黒い獣の体が内側からほどけた。
燃えたのではない。
斬られたのでもない。
汚れた糸を、一本ずつ解いていくように。
瘴気が金色の光の中で崩れていく。
黒い獣は声にならない声を上げ、湖面へ沈んだ。
その影が消えた場所から、黒い水が澄み始める。
ゆっくりと。
けれど確かに。
湖の色が変わっていく。
黒から、深い青へ。
深い青から、透明な水へ。
そして水面に、空が戻った。
雲が映る。
岸辺の白い花が映る。
遠い丘の影が映る。
熱病の原因だった嫌な気配が、風にほどけて消えていく。
シノは、息を忘れて見ていた。
目の前の湖に、朝の光が落ちる。
金色だった。
画面の向こうでしか見られなかった湖の光が、今、目の前にあった。
湖の中央に立つ麒麟が、シノへ向かって歩いてくる。
水面を踏むたび、金色の輪が広がった。
やがて、麒麟は岸辺に立った。
シノの前で足を止める。
そして、声が響いた。
『我は麒麟』
水底から鳴る鐘のような声だった。
『清浄と泰平を司る瑞獣なり』
シノは息を呑んだ。
リックもネリも、バルドも、誰も動けなかった。
麒麟は、静かにシノを見つめる。
『歌により、縁は結ばれた』
「え……?」
『縁を持って、我に名を付けよ』
名。
名前。
シノは、金色の神獣を見上げた。
厳かで、綺麗で、少し怖い。
けれど、その瞳は不思議と優しかった。
「名前……」
麒麟。
きりん。
りん。
シノは、ぽつりと言った。
「リンちゃん……?」
沈黙が落ちた。
リックが小さく呟く。
「ちゃん……?」
ネリも目を丸くしている。
バルドは膝をついたまま固まっていた。
金色の麒麟は、しばらくシノを見つめていた。
そして、ゆっくりと頭を垂れる。
『よかろう』
水面に金色の波紋が広がった。
『リンちゃん――その名、受け取った』
その瞬間、シノの胸の奥で何かが小さく結ばれた。
歌の終わりに残る余韻のような、やわらかな結び目。
それが、シノと麒麟の間に生まれた。
のちにこの世界の召喚術学の研究者たちは、それをこう呼ぶことになる。
歌縁。
けれど、この時のシノには、そんな難しい言葉は分からない。
ただ、胸の奥が温かかった。
湖はもう黒くなかった。
透明な水面に、空と雲が映っている。
そして夕陽の光を受けた湖は、黄金色に輝いていた。




