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黒い湖《うみ》

 翌朝、ルミナリア孤児院はいつもより少し慌ただしかった。


 月に一度の行商の日である。


 孤児院では、薬草や軟膏、編み紐、縫い物、木の実の焼き菓子などを作っている。


 それを近くの村へ届けたり、売ったりする。


 売り上げは大きくない。


 それでも、孤児院にとっては大切な収入だった。


「リック、その箱は軟膏です。乱暴に置かない」


「置いてないよ。ちょっと勢いよく下ろしただけ」


「それを乱暴と言います」


 マルナ院長の声が、朝の庭に響く。


 荷車の上には、布で包んだ箱や籠がいくつも積まれていた。


 ネリは焼き菓子の袋を数え、ミミは横で紐を結ぶのを手伝っている。


「ネリ、焼き菓子の袋はこっちです。湿気らないように布を二重に」


「はい」


「シノ、薬草の束は数えましたか」


「うん。熱冷まし用が十束、虫刺され用が八束、傷薬用が六束」


「よろしい」


 シノは薬草の束を丁寧に籠へ入れた。


 乾かした薬草から、青く少し苦い匂いがする。


 この匂いは嫌いではない。


 孤児院の日常の匂いだ。


「今日はローネ村までですね」


 マルナ院長が言った。


「湖沿いの道を通りますが、寄り道はしないこと」


「湖!」


 リックが顔を上げた。


「魚いるかな」


「行商です。魚取りではありません」


 ネリがすぐに言う。


「見るだけ」


「リックの見るだけは信用できません」


「ひどい」


 シノは二人のやり取りに小さく笑った。


 ローネ村は、ルミナリア孤児院から歩いて半日ほどの場所にある。


 大きなうみのそばにある村で、水と薬草の取引が多い。


 孤児院で作った軟膏や熱冷ましの薬草も、よく買ってくれる村だった。


 マルナ院長は本当なら同行したかったが、今日は孤児院に残らなければならない用事がある。


 代わりに、村の荷運びを手伝ってくれる初老の男、バルドが一緒に行くことになっていた。


「ローネまでなら昼前には着く。帰りは日が傾く前だな」


 バルドが荷車の車輪を確認しながら言った。


「湖沿いの道は通るが、湖へ近づきすぎるなよ」


「はーい」


 リックが返事をする。


 ネリが横目で見る。


「今の返事は危ないです」


「なんでだよ」


「軽いからです」


 シノはまた笑った。


 エルンが王都へ行ってから、孤児院の日常は少しだけ静かになった気がする。


 ファルク家の屋敷へ通っていた二年間が、急に遠くなった。


 けれど、やることは変わらない。


 朝の手伝い。


 薬草の整理。


 小さい子の世話。


 歌。


 エルンは王都で頑張っている。


 なら、自分もここでできることをするだけだ。


「行ってきます」


「気をつけて」


 マルナ院長に見送られ、シノたちは荷車を押して孤児院を出た。


     ***


 ローネ村までは、森の端を抜け、低い丘を越えていく。


 道の途中で、リックが何度も荷車に乗ろうとしてネリに止められた。


「荷物の場所です」


「ちょっとだけ」


「だめです」


「シノからも何か言ってよ」


「リックが乗ったら焼き菓子が潰れるよ」


「それは困る」


 リックは素直に降りた。


 空は晴れていた。


 風も穏やかだった。


 丘の上から見える景色は、むしろいつもより澄んでいるようにさえ見えた。


 遠くにローネ村の屋根が並び、その向こうに大きな湖が広がっている。


 青い空。


 白い雲。


 低い丘。


 薄く霞む山影。


 絵のように綺麗な景色だった。


 それなのに、ローネ村に近づくにつれて、少しずつ空気の底だけが重くなっていく。


 最初に気づいたのは、シノだった。


 土の匂いが違う。


 森の湿った匂いでも、畑の匂いでもない。


 景色は綺麗なのに、どこか水の匂いだけが濁っている。


「ねえ」


 シノは足を止めた。


「なんか、変な匂いしない?」


 リックが鼻を鳴らす。


「そうか?」


 ネリも少し考える。


「水の匂いが重い気がします」


 バルドが顔をしかめた。


「湖の方からかもしれんな。最近、ローネの水がおかしいとは聞いていた」


「水が?」


「ああ。井戸が濁る日があるらしい。子どもが熱を出しているとも」


 シノは荷車の上の薬草を見た。


 熱冷まし用。


 いつもより多めに持ってきている。


 マルナ院長が、念のためと言っていた。


 ローネ村に入ると、いつもより人が少なかった。


 前に来た時は、子どもたちが広場で走り回っていた。


 今日は、その声がない。


 家の戸は閉じられ、井戸のそばには水桶がいくつも置かれている。


 村の女が、シノたちに気づいて駆け寄ってきた。


「ああ、ルミナリアの行商かい。助かったよ」


 声に疲れが滲んでいる。


「熱冷ましの薬草はあるかい?」


「あります」


 シノはすぐに荷車から束を取り出した。


「子ども?」


「ああ。三人、熱を出してる。大人も何人か気分が悪いって」


 ネリが軟膏の箱を下ろす。


「水ですか」


「たぶんね。湖の水が黒くなってから、井戸もおかしい日があるんだ」


「湖が黒く?」


 シノは聞き返した。


 女は、村の奥を指さす。


「あっちのうみだよ。前は澄んでたんだけどね。遠くから見れば綺麗なままなのに、水だけが黒いんだ。近づくと胸が悪くなる」


 バルドが低く唸った。


「水源がやられているのか」


「分からない。村長は神殿に知らせるって言ってるけど、返事を待ってる間にも子どもが熱を出すんだ」


 シノは薬草を渡しながら、胸の奥がざわつくのを感じた。


 歌で病気が治るわけじゃない。


 前世で、それは知っている。


 どれだけ優しい歌でも、熱を下げる薬にはならない。


 病を消してくれるわけではない。


 だから、薬草は必要だ。


 水を調べる人も必要だ。


 神殿や医師に知らせることも必要だ。


 それでも。


「その湖、見てもいいですか?」


 気づくと、シノはそう言っていた。


 バルドが眉をひそめる。


「近づくだけでも気分が悪くなるんだぞ」


「遠くから見るだけ」


「シノ」


 ネリが心配そうに名前を呼ぶ。


 リックは少し不安そうな顔をしながらも、荷車の取っ手を握った。


「俺も行く」


「遊びじゃないよ」


「分かってる」


 村の女は迷った末、湖へ続く道を教えてくれた。


「無理はしないでおくれ。おかしいと思ったらすぐ戻るんだよ」


「はい」


 シノたちは荷車を村の広場に預け、湖へ向かった。


     ***


 湖は、村の少し奥にあった。


 そこは、美しい場所だった。


 岸辺には背の低い草が揺れ、小さな白い花が咲いている。


 遠くには低い丘があり、その向こうに薄い山影が見える。


 空は青く、風も穏やかだった。


 水鳥の声も聞こえる。


 何も知らずに遠くから見れば、ただ静かで綺麗な湖畔だった。


 なのに。


 湖面だけが、黒かった。


 泥で濁っているのとは違う。


 藻が増えたのとも違う。


 青い空も、白い雲も、そこには映っていない。


 まるで湖だけが景色から切り取られて、別の暗い場所へ沈んでしまったようだった。


 湖面には、薄い膜のような黒いものが張りついている。


 煙に見える。


 けれど、風が吹いても流れない。


 水の上に、嫌なものだけが貼りついている。


 吸い込んではいけない。


 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


「シノ?」


 リックが不安そうに声をかける。


 シノは答えられなかった。


 周りの景色が澄んでいるからこそ、その黒い水面だけが異様だった。


 白い花が咲いている。


 風は気持ちいい。


 鳥の声も聞こえる。


 なのに、水だけが死んでいる。


 ネリが口元を押さえた。


「これ……水が汚れているだけじゃない」


 バルドも顔をしかめ、一歩下がる。


「まずいな。これは、村の者だけでどうにかできるものじゃない」


 シノは、黒い湖面を見つめた。


 歌でどうにかできるとは思っていない。


 自分に、そんな力があるとも思っていない。


 神殿に知らせるべきだ。


 村に戻って、マルナ院長にも伝えなければならない。


 そう分かっている。


 それでも、目が離せなかった。


 景色は綺麗なのに。


 水だけが、黒く沈んでいる。


 その違和感が、シノの胸の奥にあった記憶を揺らした。


 父が見せてくれた、画面の向こうの湖。


 低い雲。


 遠くに連なる山影。


 朝の光が、水面を金色に滑っていた。


 あの湖は、景色と水がひとつだった。


 空も、山も、風も、歌も。


 全部が水面に映っていた。


 岸辺に立つ人が、知らない言葉で古い歌を歌っていた。


 嬉しい歌ではなかった。


 けれど、悲しいだけでもなかった。


 遠い場所を思う歌。


 もう戻れない誰かを思う歌。


 それでも、美しい湖を忘れないための歌。


 シノの胸の奥で、その旋律が小さく揺れた。


 けれど目の前の湖は、黒く沈んでいる。


 空を映すこともなく。


 光を返すこともなく。


 ただ、重く、冷たく、沈んでいる。


 これは、ただ水が汚れているのではない。


 そのうみは、瘴気で満ちていた

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