神猫の研究室と遠い水辺
大会後、エルンは多くの視線を受けながら控室へ戻った。
誰も気軽には声をかけてこない。
先ほどまで「地方枠」と笑っていた者たちも、距離を測るように見ている。
レオナールが近づいてきた。
表情は複雑だった。
「……さっきの歌」
「ああ」
「何なんだ」
「雷唱だ」
「それは見れば分かる」
レオナールは少し苛立ったように言った。
「なぜ童謡で雷唱が発動する」
エルンは少し考えた。
正直、自分にも完全には分かっていない。
ただ、シノの歌から始まったことだけは分かっている。
「俺にも、まだ分からない」
「分からないものを、大会で使ったのか」
「制御できる範囲だと判断した」
「……本当に、地方の没落家か?」
エルンはレオナールを見た。
「それは関係あるのか」
レオナールは言葉に詰まった。
しばらく黙ってから、視線を逸らす。
「……ない、かもしれない」
それだけ言って、彼は離れていった。
エルンは、少しだけ息を吐いた。
そこへ、係の上級生がやってくる。
「エルン・ファルク。ヴェルク教授が研究室へ来るようにとのことだ」
「今からですか」
「ああ。できるだけ早く、と」
エルンは頷いた。
予想はしていた。
あの歌を歌えば、ユリアンが何も聞かずに済ませるはずがない。
鞄を持ち上げる。
中には記録帳がある。
童謡雷唱。
まだ仮の名前すら付けていない。
エルンは研究棟へ向かって歩き出した。
***
ユリアンの研究室に入ると、すでに数枚の記録紙が机に並べられていた。
大会の観測記録だ。
魔力反応。
外部マナの震え。
結界内の雷圧。
標的への貫通精度。
そして、呪文。
ごろごろ、ごろごろ、雲の太鼓。
その一文が、王立魔導士学園の正式な観測記録に書かれているのを見て、エルンは少し妙な気分になった。
ユリアンは記録紙から顔を上げた。
「見事でした」
「ありがとうございます」
「ですが、同時に困りました」
「困った、ですか」
「ええ。分類できません」
ユリアンは実に楽しそうに言った。
「第四階梯雷唱の変種、と言うには精度が高すぎる。古典雷唱、と言うには譜式が違う。童謡、と言うには出力が異常です」
「私にも、まだ整理できていません」
「でしょうね」
ユリアンは椅子を示した。
「座ってください。確認しましょう」
エルンは腰を下ろした。
ユリアンは記録紙の一枚を指で押さえる。
「まず、あの歌はシノ師から?」
「はい」
「雨の日に聞いた、と」
「はい。雷を怖がる子どもを落ち着かせるために、シノが歌っていました」
「その時、これは可能性の話ですが、召喚予兆や精霊の変化などは?」
「ありません。精霊も神獣も現れていません」
「雷は?」
「落ちませんでした。ただ、外部マナが揺れました」
ユリアンの目が細くなる。
「なるほど。歌そのものが召喚術なのではない」
「おそらく」
「ですが、マナは応じた」
「はい」
ユリアンは、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「これは召喚ではありません。ですが、通常の歌唱魔導でもない」
エルンは背筋を伸ばした。
「では、何でしょうか」
「何かが通るはずだった道を、君は雷唱として譜式化した」
「道……」
「シノ師の歌は、世界に道を作る。君はその道の跡を、魔導としてなぞった。少なくとも、現時点ではそう見えます」
エルンは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分がやってきたこと。
シノの歌をそのまま真似るのではなく、自分の歌に変えようとしてきたこと。
それが、少しだけ言葉になった気がした。
「つまり、私は召喚したわけではない」
「ええ。呼んではいない。借りたのです」
「借りた」
「歌が開きかけた力の通路を、君自身の魔力で支え、雷唱として成立させた」
ユリアンは微笑んだ。
「非常に危うく、非常に美しい」
「危うい、ですか」
「もちろんです」
ユリアンはさらりと言った。
「君が一歩間違えれば、結界内で落雷事故でした」
「……気をつけます」
「気をつけるだけでは足りません。記録し、分解し、再現条件を明らかにしましょう」
エルンは頷いた。
「はい」
その返事に、ユリアンは満足そうに目を細めた。
***
一方、その頃。
学園の別室では、数人の教授と理事が集まっていた。
机の上には、大会の観測記録が置かれている。
「エルン・ファルク」
「歴代最高総合点の新入生ですね」
「担当はヴェルク教授か」
「あの童謡みたいな雷唱は何だ」
「童謡と断定してよいのか?」
「歌詞は明らかに子どもの遊び歌だ。意味も分かる。だが、あれほど精密な雷唱を発動した例はない」
「問題は、その出所だ」
一人の理事が、記録紙の別の箇所を指した。
そこには、短くこう書かれていた。
――シノ師。
「このシノという人物は誰だ」
「地方の歌唱魔導師では?」
「古流派の継承者かもしれません」
「神殿外の口伝系統という可能性もある」
「ファルク家にそのような伝手が?」
「分からん。だが、エルン・ファルク本人は、少なくとも王都式ではない歌唱体系を身につけている」
部屋に沈黙が落ちた。
やがて、年配の教授が低く言った。
「ヴェルク教授に、慎重な調査を依頼しましょう」
「本人の才能だけでは説明がつかない」
「ええ。重要なのはエルン・ファルクだけではない」
理事は、記録紙に書かれた名を見た。
「シノ。まずは、その人物が何者なのかを確認する必要がある」
***
研究室では、ユリアンが冷めた紅茶を手に取っていた。
エルンは机の端に置かれたカップを見た。
「教授。紅茶が冷めています」
「ええ」
ユリアンは当然のように頷いた。
「神猫は邪熱を払う、という諺があります」
「神猫……ですか」
「ええ。熱に浮かされれば、人は事象を見誤る。カッとなって我を忘れず、冷静沈着に物事を把握せよ、という意味です」
ユリアンは、いかにも教授らしい落ち着いた声で続けた。
「紅茶もまた同じです。冷めてから初めて気づく香りもある」
「なるほど……」
エルンは思わず感心しかけた。
すると、ユリアンは少しだけ口元を緩めた。
「まあ、対外的にはいつもそう言うのですが」
「はい」
「実は私、猫舌なんです」
「……猫舌」
「ええ」
ユリアンは静かにカップを置いた。
「猫舌を誤魔化す時に使える口上です。君も使っていいですよ」
どこか得意げに、きらりと目元を光らせる。
エルンは、しばらく返す言葉を探した。
「いや、俺は猫舌じゃないし……」
「それは惜しい」
「惜しいんですか」
「使いどころのある言葉ですから」
エルンは、王都の教授というものが少し分からなくなった。
神猫ねぇ……。
***
「神獣とは、古き時代より人の祈りに応じて姿を現す、清き獣たちの総称である――」
マルナ院長の声が、ルミナリア孤児院の食堂に響いていた。
夕食後。
子どもたちは長机を囲み、院長の手元にある分厚い本を覗き込んでいる。
表紙には、古びた金文字でこう書かれていた。
――神獣大全。
シノも、ミミの隣に座ってその本を見ていた。
分厚くて、重そうな本だ。
ところどころに挿絵があり、鹿のような獣、鳥のような獣、角のある魚、翼のある猫のようなものまで描かれている。
「神猫だって」
リックが絵を指さした。
「かわいい?」
「神猫は、清めと静謐を司る小さな瑞獣ですね」
マルナ院長が説明する。
「火照った心を鎮め、邪熱を払うとされています。古い諺にも出てきます」
「邪熱ってなに?」
「怒りや焦り、熱に浮かされた判断のことです」
「じゃあ、怒った時に猫を抱っこしたらいいの?」
「普通の猫に無理をさせてはいけません」
ネリが真面目な顔で言った。
「リックは猫に逃げられるもんね」
「逃げられてない。ちょっと距離を取られてるだけ」
「それを逃げられてるって言うんだよ」
子どもたちが笑う。
マルナ院長も少しだけ微笑んだ。
「では、今日はもうひとつ読みましょう」
院長は頁をめくった。
古い紙が、ぱらりと音を立てる。
「麒麟。清浄と泰平を司る瑞獣。濁りし水辺、荒れた大地、争いの兆しある地に現れることがある」
「きりん?」
ミミが首を傾げた。
「首が長いやつ?」
「それは別の生き物ですね」
マルナ院長が苦笑する。
「本によると、鹿に似た体、竜に似た鱗、金のたてがみを持つ、とあります」
「かっこいい!」
リックが身を乗り出した。
「乗れる?」
「神獣に勝手に乗ってはいけません」
「じゃあ、触るのは?」
「見つけても勝手に触ってはいけません」
「じゃあ、何ならいいの?」
「まず、祈りなさい」
マルナ院長の声は真面目だった。
リックは少し肩をすくめる。
「神獣って大変だな」
「神獣の方がそう思っているかもしれませんね」
ネリが静かに言った。
また笑いが起きる。
シノは、挿絵の麒麟を見つめていた。
金のたてがみ。
水辺に立つ、清らかな獣。
その絵を見ていると、胸の奥が少しだけ揺れた。
どこかで見たような気がする。
いや、見たのではない。
聞いたのだ。
遠い水辺の歌。
画面の向こうで父が見せてくれた、広く静かな湖。
その岸辺で歌われていた、古い民謡。
シノは、そっと胸に手を当てた。
歌は、まだそこに残っている。
遠い水辺の光と一緒に。




