おかえり
――あれから、十年が経った。
◇
「ちょーっと、掃除が足りないなぁ」
夏の陽射しが差し込む、小さな墓地。
一人の女性が墓石の前にしゃがみ込み、濡らした布で丁寧に石を拭いていた。
「ほら、この辺。ちょっと苔ついてるじゃん」
もちろん。
返事はない。
それでも女性は、そこに誰かがいるように話しかけながら、隅々まで磨いていく。
墓石には。
一つの名前が刻まれていた。
――マルナ・アリシア。
「ハルナー!」
女性が顔を上げた。
「お花持ってきてー!」
「はーい! 院長先生!」
孤児院の方から、少女の元気な声が返ってくる。
「あと、お水もお願いー!」
「はーい!」
女性は満足そうに頷くと、もう一度墓石へ向き直った。
「まったく。院長先生、昔からお花好きだったもんね」
ふっと。
懐かしそうに笑う。
その時。
「院長せんせーい!」
今度は建物の方から別の声が飛んできた。
「新しい子が、もう面会に来てますよー!」
「えっ!?」
女性が勢いよく立ち上がる。
「もう来たの!?」
「来てまーす!」
「ごめーん! 今行きますー!」
慌てて走り出し。
二、三歩進んだところで。
振り返った。
「じゃあ、院長先生。またあとでね」
そして。
若い女性神官は今度こそ、孤児院へ駆けていった。
◇
「――レスト領独立法令に従いまして」
ルミナリア孤児院、応接室。
役人の男が、手元の書類を読み上げていた。
「家名不明の少年、リュウ。年齢十一歳。本日付をもって、レスト領ファルク地区ルミナリア孤児院に保護をお願いいたします」
隣の椅子には。
少し痩せた少年が座っている。
目つきは鋭い。
知らない場所。
知らない大人。
そのすべてを警戒しているのが、見て分かった。
「なお、養育に関する援助金につきましては、法令に定められた――」
「カナックさん」
「はい」
「硬いなー」
「……院長先生」
カナックと呼ばれた役人が顔を上げる。
「仕事ですので」
「それは分かってますけどぉ」
院長先生が頬を膨らませた。
「子どもの前でお金の話、しないでくださいよ。いつも言ってるじゃないですか」
「これも必要な手続きです」
「むぅ……」
「そんな顔をされても省略できません」
「相変わらず融通きかないなぁ」
「院長先生が柔らかすぎるのです」
「それ褒めてます?」
「いいえ」
「えー」
リュウは。
何なんだ、この二人。
という顔で見ていた。
やがて。
カナックが書類を閉じる。
「以上で、行政上の手続きは終了です」
「はい。ありがとうございました」
「じゃあ」
院長先生が勢いよく立ち上がった。
リュウの前へ歩いていく。
「ここからは、私のお仕事ね」
「では、改めまして!」
胸を張る。
「私が、このレスト領ファルク地区ルミナリア孤児院の院長――」
「シノ・ルミナリアです!」
「……」
リュウが。
壁に掲げられた孤児院の名を見る。
シノを見る。
もう一度。
名を見る。
「……自分の名前、孤児院につけたの?」
「違います!」
即答だった。
「孤児院の名前と一緒なのは、私が経営してるからではありません!」
「じゃあ、なんで同じなんだよ」
「私がここの孤児だったからです!」
「……逆なの?」
「逆です!」
廊下を通りかかったハルナが笑う。
「院長先生、それ毎回説明してますね」
「だって毎回言われますからね!」
リュウが、もう一度シノを見る。
「……ほんとに、ここにいたの?」
「そうですよ」
今度は。
少しだけ柔らかく。
「私も、ここの子だったよ」
「……」
「だから」
にっと笑う。
「まあ、先輩だね」
「……変な先輩」
「なんだとー?」
リュウの口元が。
ほんの僅かに。
緩んだ。
「……院長の?」
「それもあるけど」
シノの表情が。
すっと変わった。
胸元へ手を添える。
指先が。
流れるように三本の線を描いた。
「……」
カナックが僅かに姿勢を正す。
リュウも。
何となく、目を逸らせなくなった。
十年前。
何度も習い。
師である国王にさえ。「極め中」と宣言した祈りの作法
今では。
指先の運び。
呼吸。
一礼の角度。
そのすべてが。
見る者を自然と静かにさせるほど、美しかった。
「三神の慈しみを受けし子よ」
シノの声が、静かに響く。
「音神アウラの導きが、其方の心に歌を」
「水神ミリニアの恵みが、其方の命に潤いを」
「大地神ガルシアの支えが、其方の歩みに安らぎを」
そして。
シノはリュウをまっすぐ見る。
「これよりの日々に」
「三神の御加護が、末永く在らんことを」
深く。
静かな一礼。
「……」
リュウは。
何も言えなかった。
シノは顔を上げると。
一瞬で、いつもの顔に戻った。
「はい! これで終わり!」
「……急に普通に戻るんだな」
「ずっとあの感じだと疲れるでしょ?」
「そういう問題なのか?」
カナックが小さく咳払いする。
「祈りそのものは、相変わらずお見事です」
「でしょ?」
シノが得意げに胸を張る。
「十年かけましたから!祈り、ここに極まるっ!」
「努力は認めます……」
「やった」
「では、私はこれで」
「えー、お茶飲んでってくださいよ。暑いし」
「次の仕事が」
「冷たいのありますよ?」
「……」
「一杯だけ」
「……一杯だけです」
「やった」
シノはリュウにも水を差し出した。
「ほら。リュウも」
「……いらない」
「喉乾いてるでしょ?」
「別に」
「乾いてる顔してる」
「どんな顔だよ」
「こういう顔」
「分かんねーよ」
それでも。
水は受け取った。
シノは、その様子を見て少し笑う。
「リュウ」
「なに」
「いいこと教えてあげる」
「……説教?」
「え?」
「教会みたいな説教とか、やだよ」
リュウが目を逸らす。
「俺、孤児だし。難しいことなんて分かんねーし」
「ほほう」
シノの眉が上がった。
にやりと微笑み、そして。
びしっ、と指を差す。
「ふふん。君の無学と孤独が孤児を理由にする日々は、すぐに終わりを迎えるだろう少年!」
「は!?」
カナックが思わず口元を押さえた。
「院長先生……」
「じゃあ、リュウにも分かるように教えてあげる」
シノがしゃがみ。
少年と目線を合わせる。
「『ただいま』ってさ」
「……うん」
「一人でも言えるでしょ?」
「まあ」
「誰もいない部屋でも、言おうと思えば言える」
「……」
「でも」
シノが笑った。
「『おかえり』は、誰かがいないと言えないんだ」
「……」
「聞くこともできない」
リュウが。
少しだけシノを見る。
「だから」
「『おかえり』って言う時」
「『おかえり』って言ってもらった時」
「その時は」
シノは少し考え。
「そこにいる人に、ちょっとだけ感謝してみて」
「……」
「余裕ができたら」
胸元に三本の線を引く。
「三神にも」
「……神様は後なんだ」
「最初から全部できなくていいよ」
「……」
「神様は、そのくらい待ってくれるから」
カナックがため息をついた。
「神殿の方に聞かれたら、また何か言われますよ」
「大丈夫。知り合い多いから」
「それが困るのです」
リュウは。
少し黙ってから。
「……分かった」
「うん!」
◇
昼過ぎ。
孤児院の庭。
「今日はちょーっとバタバタしてるけど、ごめんねー!」
シノが手を叩く。
子どもたちが一斉に振り返った。
「では!」
人差し指を立てる。
「暑い日は――まず水分補給!」
「はーい!」
「ちゃんと飲んでねー! 喉が渇いてからじゃ遅いからね!」
子どもたちが。
木陰で次々と水を飲んでいく。
「リュウも」
「さっき飲んだよ」
「もう少し」
「そんな飲めねーって」
「じゃあ一口」
「……分かったよ」
「よし!」
シノは満足そうに頷く。
「飲み終わったら――」
一拍。
「音楽の時間です!」
「はーい!」
その瞬間だった。
――ざわっ。
「……?」
リュウが顔を上げる。
風ではない。
木々でもない。
空気そのものが揺れた。
「なんだ……?」
光。
風。
水。
大地。
様々な気配が。
孤児院の庭へ集まってくる。
「え……」
リュウが立ち上がった。
最初に現れたのは。
一人の青年だった。
長身。
整いすぎるほど整った顔立ち。
どこか人ならざる美しさを持った青年が、光の中から姿を現す。
「あ、リンちゃん!」
シノが手を振る。
「来たんだ」
「うむ」
青年は。
当然のように椅子へ腰を下ろした。
「シノ」
「なに?」
「レストはいるか」
「いるよ?」
「呼べ」
「また紅茶?」
「うむ」
優雅に足を組み。
「例の紅茶とやらを所望する」
「只今!」
「うわっ!?」
リュウが飛び上がった。
いつからいたのか。
レスト侯が。
既に控えていた。
「リンちゃん様! 本日も最高の茶葉をご用意しております!」
「レスト侯、最初から待ってたでしょ」
「当然だが?」
「当然なんだ……」
「ソルジュ!」
「はっ!」
使用人が即座に動こうとする。
だが。
リンちゃんが片手を上げた。
「レストよ」
「はっ!」
「茶は、ライナーのものがよいな」
「……」
レスト侯の顔が。
僅かに曇った。
「リンちゃん様」
「なんだ」
「ライナーは昨年、引退いたしました」
「引退?」
「膝を悪くしまして」
「……」
リンちゃんが。
不思議そうに眉を寄せる。
「些事である」
「は?」
「我なら、すぐ治せる」
「……!」
「連れてまいれ」
「は、はい! ただ、現在は領都の家で隠居しておりまして……」
「今日はいないのか」
「はい」
「……ふん」
少し不満そうに鼻を鳴らす。
「では次回だ」
「はっ!」
シノが笑う。
「リンちゃん、ライナーさんの膝治してくれるの?」
「当然だ」
「優しい」
「違う」
「え?」
「あやつの茶がよい」
「そこ!?」
そこへ。
ふわりと甘い香りが漂った。
「あら」
扇子を手にした、優雅な女性が姿を現す。
「マダムベル!」
「ごきげんようザマス」
マダムベルは孤児院を見回し。
いつものように、ため息をついた。
「いつも思うザマスが」
「うん?」
「この孤児院、小さすぎるザマス」
「またそれ言う!」
「これだけ神獣が集まる場所として、明らかに手狭ザマス」
「神獣を集めるための施設じゃないの!」
その言葉を待っていたかのように。
庭のあちこちへ。
新たな気配が現れる。
獏。
白い獣。
小さな鳥。
次々と。
子どもたちには見慣れた存在が姿を見せた。
「あ、バッくん!」
「今日は早いねー!」
「アウリスも来た!」
子どもたちは。
まるで近所の知り合いでも迎えるように手を振っている。
「……」
リュウだけが。
完全に取り残されていた。
「……院長先生」
「なに?」
「ここ、本当に孤児院?」
「そうだよ?」
「……」
何も返せなかった。
◇
その時。
庭の一角で。
空間が歪んだ。
「待たせたな!」
堂々と。
一人の男が姿を現す。
「コンサート会場はここか!?」
「あ!」
シノが振り返る。
「ラグさん!」
「うむ!」
「遅いよー! もう始まるよー!」
「まだ始まっておらんではないか」
「もう始まるの! 急いで!」
「我を急かすでない」
「あら」
マダムベルが扇子を開いた。
「ラグさん殿」
少し呆れたように。
「少々、無粋ではないザマスか?」
「む」
男が足を止める。
そして。
マダムベルを見るなり。
すっと胸へ手を当てた。
「いやいや、マダムベル殿」
優雅に一礼する。
「今日もお美しい」
「世辞はよすザマス」
「世辞ではないぞ?」
「はいはい、ラグさん。早く座って!」
「シノよ」
「なに?」
「余に対する扱いが、年々雑になっておらぬか?」
「だってラグさんだもん」
「その名をつけたのは其方であろう!」
「そうだけど?」
「……」
リュウが。
シノを見る。
「……名前」
「ん?」
「あの人の名前、院長先生がつけたの?」
「うん」
「へえ……」
それ以上は分からない。
ただ。
妙に偉そうで。
妙に馴染んでいる男。
それだけだった。
ラグさんはリンちゃんの隣へ腰掛ける。
「リンちゃん。今日もおるのか」
「貴様こそ暇だな」
「歌を聴きに来ぬ理由がなかろう」
「ふん」
リンちゃんが紅茶を口へ運ぶ。
「それには同意する」
マダムベルも扇子の向こうで微笑む。
「子どもたちの歌も、なかなか可愛らしいザマスからね」
「うむ」
ラグさんも頷く。
「それに」
ちらりとシノを見る。
「最後がある」
「ラグさん」
「なんだ」
「今日も私の歌目当てでしょ」
「子らの歌も楽しみにしておるぞ」
「『も』って言った!」
「細かいことを気にするな」
「やっぱり!」
神獣たちの間から。
笑いが起こった。
◇
その時。
孤児院の門から。
よく通る声が響いた。
「嬢ちゃん! 待たせたな!」
「あ!」
シノが振り返る。
「ライアスさん!」
「悪い悪い。神殿の仕事が長引いてな」
「もう始まるよー」
「間に合っただろ?」
「ギリギリ」
「それは間に合ったって言うんだよ」
「……」
リュウが。
固まっていた。
白銀の装い。
三神の紋章。
そして。
腰に佩かれた聖剣。
それだけは。
知っていた。
学校へろくに通っていなくても。
田舎の子どもでも。
この国で。
その姿を知らない者はいない。
「……パ」
「ん?」
「パラ……」
ライアスがリュウを見る。
次の瞬間。
「パラディンだぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「うおっ!?」
今日一番の大声だった。
リュウが駆け寄る。
「本物!?」
「……」
ライアスは。
一瞬だけ。
いつもの顔を見せた。
だが。
目の前にいる少年の。
輝く目を見た瞬間。
姿勢が変わった。
背筋を伸ばす。
表情が凛と引き締まる。
聖剣へ、静かに手を添えた。
「いかにも」
先ほどまでとは違う。
堂々とした声。
「三神に仕えしパラディン――」
「……!」
「ライアス・エンフィレルだ」
「うわああああああ!」
リュウの目が、さらに輝く。
「本物だ!」
「ふふ」
「二百年ぶりのパラディン!」
「いかにも」
「《三神聖断》使うんだろ!?」
「よく知っているな」
「黒い狼を一人で倒したんだろ!?」
「ああ」
「聖剣見せて!」
「それは――」
ほんの僅かに。
いつものライアスが戻りかけた。
「まあ見るくらいなら――」
「ふん」
後ろから。
ラグさんの声。
「気を抜くでない、パラディン」
「……!」
ライアスが振り返る。
ラグさんは腕を組んでいた。
「子が見ておるぞ」
「……分かっています」
ライアスは。
小さく息を吐き。
再び、凛としたパラディンの顔になる。
「聖剣は、三神より預かりし剣」
リュウが真剣に聞いている。
「故に、軽々しく抜くことはできぬ」
「……そっか」
「だが」
僅かに微笑む。
「見るだけならば、構わぬ」
「いいの!?」
「ああ」
「やったぁぁぁぁ!」
リュウが飛び跳ねる。
シノが横から笑った。
「ライアスさん、人気者だね」
ライアスは。
リュウから見えない角度で。
シノへ小さく顔をしかめる。
「……嬢ちゃん、後で覚えてろよ」
「今、パラディン口調!」
「……」
ラグさんが笑う。
「まだまだだな、ラース」
「その呼び方はやめてください!」
「ラース!?」
「覚えなくていい!」
今度こそ。
庭中に笑い声が広がった。
◇
「はいはい!」
シノが。
ぱん、ぱん、と手を叩いた。
「そろそろ始めるよー!」
子どもたちが集まる。
神獣たちも。
思い思いの場所へ腰を落ち着けた。
リンちゃんは紅茶を手に。
マダムベルは扇子を開き。
ラグさんは。
いつの間にか一番見やすい場所を確保している。
ライアスも。
子どもたちに囲まれて座った。
「さあ!」
シノが笑う。
「まずは、みんなで歌ってみよう!」
「はーい!」
「リュウは今日は聞き役ね!」
「……俺、歌わなくていいの?」
「今日はね」
シノが答える。
「まずは聞いて、覚えて」
「……」
「歌いたくなったら、一緒に歌えばいいよ」
「……分かった」
「よし!」
子どもたちを見る。
「じゃあ、まずはこの前教えた歌からいこう!」
「はーい!」
「みんな元気にね!」
「はーーい!」
神獣たちも。
静かに待っている。
子どもたちの歌を。
少し外れる音も。
早くなりすぎる拍子も。
元気いっぱいの声も。
全部。
楽しむために。
そして。
その最後に。
今日のシノが。
どんな歌を歌うのか。
それを。
皆。
楽しみにしていた。
シノは。
庭にいる一人一人の顔を見渡した。
ここで暮らす子どもたち。
今日からここで暮らす少年。
十年の間に出会った者たち。
今もそばにいる者たち。
そして。
もう。
会えなくなった者たち。
それでも。
歌は残る。
誰かから。
誰かへ。
そして。
また。
その次の誰かへ。
シノは。
大きく息を吸った。
「いくよー!」
子どもたちが。
笑顔で構える。
十年前。
シノ自身が聞いた。
あの言葉。
誰の声だったのか。
今も。
分からない。
けれど。
あの日。
自分へ渡されたものを。
今度は。
自分が。
次の子どもたちへ。
シノ・ルミナリアは。
笑った。
「さん、はい!」




