終焉の魔王
黒禍狼は。
なおもディメンションバインドに縫い止められたまま、低い唸り声を上げていた。
だが。
王都へ散った眷属たちは違う。
ケルベロスたちは、主が拘束された今も通りを駆け回り、騎士たちと激しくぶつかり続けている。
遠くで。
三つの咆哮が重なった。
その騒音の中。
何もなかった空間が。
ゆっくりと歪んだ。
「……ふむ」
低い男の声。
ロイドが息を呑む。
いつからそこにいたのか。
一人の男が、王都の大通りに立っていた。
周囲の惨状など。
まるで目に入っていないように。
建物を見上げ。
遠くの神殿を見。
懐かしむように辺りを眺めている。
「ずいぶん長いこと来ていなかったが……」
男が目を細めた。
「ここも変わったような」
一拍。
「変わらないような……」
その時。
――ガァァァァッ!
遠くでケルベロスが吠えた。
「ん?」
男の眉が僅かに寄る。
もう一体。
さらに一体。
王都のあちこちから聞こえる獣の咆哮。
「……ちと騒がしいな」
男は。
面倒そうに一本の指を向けた。
「歌は静かに聴くものだ」
その瞬間。
――ピタリ。
ケルベロスの動きが止まった。
「……え?」
騎士たちが絶句する。
一体ではない。
王都中。
暴れ回っていた眷属すべてが。
まるで時間そのものを止められたように。
動かなくなった。
「……」
ロイドが。
声を失う。
譜式は。
見えなかった。
詠唱も。
魔力操作の兆候すら。
何一つ。
「……何者じゃ」
ようやく。
ロイドが絞り出す。
男は、ちらりとこちらを見た。
「ふん」
鼻を鳴らす。
「名を尋ねるなら、まず己から名乗る」
少し考え。
「人間の礼儀とは、そういうものだったか」
「……」
「くだらん」
ロイドは杖を握ったまま。
男から目を離さなかった。
「ロイド・ブレイズじゃ」
「ロイド……?」
男が目を細める。
そして。
「ああ」
思い出したように笑った。
「涎のロイ坊か」
「……は?」
「魔導書を枕にして眠り、頁によだれを垂らしておった奇特な小僧よ」
ロイドの顔が固まった。
「な……」
声が掠れる。
「なぜ、それを……」
「まだやっておるのか?」
「……」
シノが。
小さく呟く。
「ロイ坊……」
エルンも。
「……ロイ坊」
ライアスまで。
「ロイ坊……」
「お主ら……」
ロイドが振り返る。
だが。
いつものように怒鳴る余裕はない。
目の前の男が。
なぜ。
幼い頃の自分を知っている。
「ロイ坊」
男がもう一度呼ぶ。
そして。
何でもないことのように。
名乗った。
「余は、イーサン・ラグナロク」
一拍。
「魔王である」
「……」
沈黙。
ロイドの瞳が。
大きく開かれる。
「……ラグナロク」
唇が震える。
「終焉魔王……ラグナロク……」
伝承。
古代史。
禁書。
魔導史。
幾度となく、その名を読んだ。
最後に確認された。
魔王。
その本人が。
今。
目の前にいる。
「さて」
ラグナロクは。
そんなロイドなど気にも留めず。
シノへ顔を向けた。
「そんなことより娘」
僅かに笑う。
「良い歌であっ――」
「魔王!?」
「ラグナロク!?」
ライアスとロイドの声が重なった。
「……」
ラグナロクの眉がぴくりと動く。
「おい」
二人を見る。
「我が賛辞を送っている最中に口を挟むな」
「いや、しかし――」
「無粋な奴らめ」
ラグナロクが小さくため息を吐く。
そして。
改めて。
宙に浮いたままのシノを見る。
「……」
その視線が。
シノへ触れた瞬間だった。
「……あれ?」
虚ろだった瞳に。
光が戻った。
「わたし……」
シノの身体が。
ゆっくりと地上へ降りていく。
足が。
石畳へ触れる。
「……?」
瞬きをする。
そして。
突然。
何かを思い出したように顔を上げた。
「あっ!」
辺りを見回す。
「エルン!」
視線が。
石畳に横たわる少年へ止まった。
「エルンは!?」
脇腹。
大量の血。
青ざめた顔。
「……エルン?」
シノの顔色が変わった。
「エルン!」
駆け寄る。
膝をつく。
「やだ……」
震える手で。
頬へ触れる。
「エルンーー!」
「……」
ラグナロクが。
その様子を眺めていた。
「なんだ」
近づく。
「この小僧か」
「エルンが……!」
「分かった」
「血がいっぱい……!」
「うるさい」
「え?」
ラグナロクが。
片手を向けた。
「泣くな」
そして。
何の力みもなく。
「《ヒール》」
光が。
エルンを包んだ。
「……え?」
傷口が。
閉じていく。
裂けた肉が戻る。
血が止まる。
青ざめていた顔に。
血色が戻っていく。
「……っ」
エルンが。
小さく息を吸った。
「……シノ?」
「エルン!」
シノが抱きつく。
「よかった……!」
その横で。
ロイドは。
何も言えなかった。
瀕死。
貫通創。
それを。
ただの《ヒール》の一言で。
「……」
七十年近く。
魔導を追い続けてきた。
だからこそ。
理解できる。
今。
自分の物差しで測ろうとしてはいけない相手が。
目の前にいる。
「さて」
ラグナロクが。
シノを見る。
「我を呼んだということは――娘、召喚士か?」
「違います」
「違うのか」
「はい」
「ふむ」
ラグナロクが僅かに首を傾げる。
「まあ」
口元を緩めた。
「本当のことを言えば、我も今回は召喚されたわけではない」
「え?」
「歌が良かったものでな」
一拍。
「つい、来てしまった」
「つい……」
ロイドの眉が動く。
そんな理由で。
終焉魔王が。
「それより」
ラグナロクは空を見上げた。
まだ。
タナトスの巨大な瞳が。
王都を見下ろしている。
「こいつは邪魔だな」
「……」
軽く。
手を上げる。
「こいつは消すので、そこのところは善きに計らえ」
「待――」
次の瞬間。
タナトスが。
消えた。
「……」
ただ。
消えた。
巨大な眼球も。
無数の死霊も。
最初から。
そこには何も存在しなかったかのように。
「……」
ロイドの手が。
僅かに震える。
その時。
ライアスが。
即座にシノの前へ出た。
ディグニティを構える。
「悪魔め! シノに近づくな!」
ラグナロクの眉が動いた。
「……悪魔?」
「そうだ!」
露骨に。
不愉快そうな顔になる。
「悪魔などという下等なものと一緒にするな」
「何?」
「魔王と悪魔を混同するとは、不勉強が過ぎるぞ当代のパラディン」
「魔王が……悪魔ではない?」
「その通りじゃ」
答えたのは。
ロイドだった。
「ロイド師?」
ロイドは。
ラグナロクを見つめたまま。
ゆっくりと口を開く。
「古い文献には、こうある」
一字一句。
記憶を確かめるように。
「魔王とは、悪魔の王にあらず」
「……」
「魔を統べ、魔力を統べ、魔界に座する王なり――と」
ライアスが目を細める。
「つまり……」
「悪魔は、魔界に棲む種の一つに過ぎぬ」
ロイドが続ける。
「分かりやすく言えば」
一度。
ラグナロクを見る。
「魔力の王。魔界の王じゃ」
「ふん」
ラグナロクが満足そうに頷く。
「ロイ坊。なかなか勉強しておるではないか」
「……恐れ入る」
「そして」
ラグナロクが。
ライアスを見る。
「ラースよ」
「……っ!」
ライアスの顔が。
一気に赤くなった。
「あ、あの!」
「なんだ」
「なぜあなたまで、その呼び方を!」
「ロイ坊が呼んでおったではないか」
「だからって!」
「細かい男だな」
「細かくありません!」
ラグナロクは。
そんなライアスを。
改めて眺めた。
「……ふん」
ディグニティ。
白銀の鎧。
三神の紋章。
「当代のパラディン」
少し考え。
何かに気づいたように笑う。
「なるほど」
「……?」
「アルテマめ。こんな余興を仕込んでおったか」
「余興?」
ラグナロクが。
拘束された黒禍狼を指差した。
「このフェンリルもどきを、パラディンが斬り伏せ」
今度は。
シノを指す。
「歌姫が、賛辞の歌を贈る」
「……」
満足そうに頷く。
「なるほど。祭りらしい演出ではないか」
「いや、それは――」
「よし!」
ラグナロクの顔が。
楽しそうに輝く。
「我も楽しませてもらおうではないか!」
「……え?」
片手を。
黒禍狼へ向ける。
「ケミストポイズン」
――ドクン。
「……?」
《黒禍狼》の身体が。
大きく脈打った。
傷ついていた肉体が。
みるみるうちに再生していく。
黒い毛並みが逆立つ。
筋肉が膨れ。
赤い双眸が。
先ほどまでよりも。
さらに強い光を宿した。
「……」
ライアスの顔が引きつる。
「何を……」
ロイドも。
思わず声を漏らした。
「何をした……?」
「治した」
「……」
「ついでに」
ラグナロクが楽しそうに笑う。
「少し強くしておいた」
「なぜですか!?」
ライアスの声が裏返った。
――ゴォォォォォォォォッ!!
黒禍狼が咆哮する。
ディメンションバインドの残滓が。
次々と。
砕けていく。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「待たん」
ラグナロクは。
腕を組んだ。
完全に。
観客の顔だった。
「パラディン」
「……はい?」
一拍。
「一騎打ちにて討伐せよ」
「……」
ライアスが。
固まった。
そして。
「えええええええええ!?」




