かごめかごめ
「エルン――!!」
シノの叫びが、王都の空を裂いた。
黒い爪に脇腹を貫かれたエルンの身体から、力が抜けていく。
「……っ」
爪が引き抜かれた。
鮮血が散る。
エルンはその場に膝をつき、片手で傷口を押さえた。
「エルン!」
シノが駆け寄ろうとする。
だが。
「シノ、待て!」
ライアスが腕を伸ばし、その前へ出た。
《ディグニティ》を構えたまま、鋭い視線をユリアンへ向ける。
「教授」
低い声だった。
「あなたは……!」
「……」
ユリアンは何も答えない。
ただ。
西門の方角へ目を向けた。
「ごめんなさい」
「……何?」
「馬車を待たせてあるんです」
ライアスが眉を寄せる。
「馬車?」
その言葉につられ。
ロイドも西門を見る。
戦火の向こう。
混乱する兵たちのさらに奥。
一台の馬車が停まっていた。
そして。
その傍らに立つ男。
「……グランツ」
ライアスが呟く。
ロイドの目が細くなった。
「……そういうことか」
ユリアンは静かに笑った。
「私はね」
その声には。
ほんの僅かに、寂しさが混じっていた。
「やはり、諦められないのです」
「まだ言うか!」
「もう一度」
ユリアンは西門を見る。
「他国で、研究を続けます」
「……教授」
地面に膝をついたまま。
エルンが顔を上げた。
「あなたという人は……」
唇が震える。
「二度も……」
召喚術だと知らされず。
結界だと信じて歌った。
そして。
今度こそ。
一緒に《黒禍狼》を止めるのだと。
信じた。
「……クソ」
エルンが俯く。
「俺が……バカだったんだ……」
「エルン君」
「呼ばないでください……!」
ライアスが一歩前へ出た。
「逃げられるとでも思っているんですか?」
ユリアンは答えない。
「ここであなたを――」
「あなた方こそ」
ユリアンが口を開いた。
「……何?」
その瞬間。
巨大な影が落ちる。
「パラディン!」
「っ!」
《黒禍狼》の前脚が。
横薙ぎに振るわれた。
ライアスは《ディグニティ》を両手で構える。
――ギィィィン!!
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃。
白銀の鎧が軋む。
ライアスの両脚が石畳を削りながら後退する。
「くそっ……!」
「ラース!」
「加勢するぞ!」
ロイドが杖を振り上げる。
周囲に複数の譜式が展開された。
「ロイド師、右を!」
「言われんでも分かっとる!」
ライアスとロイドが。
《黒禍狼》の前へ立つ。
その隙に。
ユリアンは踵を返した。
「教授……!」
エルンが呼ぶ。
ユリアンの足が。
一度だけ止まった。
振り返る。
「エルン君」
「……」
「ありがとう」
エルンの顔が歪む。
「やはり私は」
ユリアンが微笑んだ。
「やはり君と出会うために――私は」
「――ユルサナイ」
小さな声だった。
「……?」
ユリアンが止まる。
誰の声か。
一瞬。
分からなかった。
子供の声。
だが。
シノの声とは。
どこかが違う。
「……嬢ちゃん?」
ライアスが振り返った。
シノの身体が。
浮いていた。
地上から。
ほんの少し。
「シノ……?」
ロイドの顔から笑みが消える。
シノの両腕は。
力なく下へ垂れている。
顔も俯いたまま。
そして。
ゆっくりと上げられた瞳には。
生気がなかった。
瞳孔が。
異様なほど大きく開いている。
「シノ!」
ライアスが叫ぶ。
返事はない。
代わりに。
唇が。
僅かに動いた。
「かーごめ……」
ぽつり。
「かごめ――」
空気が。
変わった。
「……?」
ロイドが顔を上げる。
風ではない。
王都に満ちる自然マナが。
一斉に震えた。
「なんじゃ……?」
シノを中心に。
目には見えない波が広がっていく。
一つ。
また一つ。
触れたマナが。
次のマナを震わせる。
「かーごの、なーかの――」
歌声が。
王都へ広がる。
「とーりーは――」
「……っ!」
ロイドが息を呑んだ。
「なんじゃ、このマナの気配は……!」
集まっている。
そう思った。
だが。
違う。
「いや……」
ロイドの目が見開かれる。
「増幅しておる……!」
一つのマナが次を。
次がまた、その次を。
王都そのものが。
巨大な共鳴器になったように。
シノの歌へ応えていく。
ユリアンも。
足を止めたまま空を見上げていた。
「これは……」
「いーつ、いーつ――」
シノの歌は止まらない。
「でーやーる――」
――ズン。
空が。
歪んだ。
「……何じゃ?」
シノの頭上。
何もなかったはずの空間に。
一つの黒い点が現れる。
点は。
膨らんでいく。
拳ほど。
人の頭ほど。
そして。
人間の身体を丸ごと呑み込めるほどの。
巨大な球体へ。
「……目?」
ライアスが呟く。
それは。
巨大な眼球だった。
黒く濁った球体。
閉じられた瞼。
その周囲に。
黒い霧のようなものがまとわりついている。
「よーあけーの、ばーんに――」
瞼が。
ゆっくり。
開いた。
――ギョロリ。
「……っ!」
ロイドが。
一歩。
後退した。
「嘘じゃろ……」
「ロイド師?」
「まさか……」
巨大な瞳が。
王都を見下ろす。
その周囲へ。
一つ。
また一つ。
人の形をした黒い影が浮かび始めた。
顔がない。
腕だけのもの。
首のないもの。
泣き声だけが聞こえるもの。
悪霊。
「つーると、かーめが――」
ロイドの顔から血の気が引いていく。
「《アグライア》……」
「何です?」
「魂の美を見通す神獣じゃ……」
ロイドの声が震える。
「だが」
巨大な眼球を見上げる。
「あれは違う……!」
「すーべった――」
悪霊たちが。
一斉に。
巨大な瞳へ跪く。
「《アグライア》の裏……」
ユリアンが呟く。
ロイドが答えた。
「《タナトス》」
「……」
「伝承にしか残っておらん、悪霊の支配者じゃぞ……!」
ライアスが《ディグニティ》を握り直す。
「そんなものまで……!」
「シノ嬢が呼んでいるのか……?」
ロイド自身にも。
分からない。
ただ。
一つだけ。
分かる。
「うしろの、しょうめん――」
自然マナが。
怒っている。
「まずい……」
「ロイド師?」
「これは……」
シノの周囲。
いや。
王都中のマナから。
恐ろしいほどの感情が伝わってくる。
「マナが、怒りに満ちておる……!」
「だーあれ」
――瞬間。
《タナトス》の瞳孔が。
大きく開いた。
空が暗くなる。
悪霊たちが。
一斉に顔を上げた。
完全に。
顕現した。
◇
「……終わった?」
ライアスが呟く。
「いや」
ロイドは。
まだ空を見ていた。
《タナトス》は、王都の空に浮かんでいた。
巨大な眼球。
その周囲を取り巻く、無数の死霊。
たった今まで騒乱に満ちていた王都が、その存在に見下ろされているだけで、まるで息を潜めたように静まり返っている。
そして。
宙に浮かぶシノもまた。
動かない。
瞳孔は開いたまま。
誰を見ているのかすら分からない。
「……シノ」
ロイドが呼ぶ。
返事はなかった。
歌は終わった。
《タナトス》は完全に顕現した。
ならば。
これで――。
「かーごめ……かごめ……」
「……なに?」
ロイドの顔が強張った。
もう一度。
シノが歌い始めた。
「二度目……?」
ライアスが空を見上げる。
今度は違う。
先ほどの歌では、王都中の自然マナがシノへ応え、《タナトス》をこの世へ引き寄せた。
だが。
今は――。
「譜式……?」
《タナトス》の周囲に。
巨大な光の線が走る。
一つ。
二つ。
三つ。
幾重にも重なり合い、空そのものへ巨大な術式を描いていく。
「第一階梯……」
ロイドが呟く。
「第二……第三……」
線が増える。
魔力が膨れ上がる。
「第四……第五……」
「まだ上がるんですか!?」
ライアスが叫ぶ。
ロイドは答えない。
答えられない。
「第六……!」
「第六!?」
さらに。
「七……」
ロイドの声が震えた。
最後の環が閉じる。
空が。
低く唸った。
「……八」
ライアスが息を呑む。
「ロイド師……?」
ロイドの顔から。
完全に血の気が引いていた。
「第八階梯……」
「第八!?」
「《ディメンションバインド》……!」
古代魔法。
人間が辿り着くことなどないとされた領域。
「そんな……シノが?」
「違う!」
ロイドが叫んだ。
「シノ嬢は術式を組んでおらん!」
「え?」
「歌じゃ!」
ロイドが《タナトス》を指す。
「あの歌を鍵にして、《タナトス》自身が第八階梯を展開しておる!」
「神獣が……魔法を……?」
「こんなもの、儂だって見たことがないわ!」
その瞬間。
《タナトス》の巨大な瞳が。
ゆっくりと動いた。
――ギョロリ。
王都を。
見渡す。
次の瞬間。
黒い光が放たれた。
「なっ!?」
一本。
二本。
十本。
いや。
数え切れない。
光は王都の空を駆け抜け。
建物を越え。
通りを越え。
次々と。
何かを捕らえていく。
「ぐっ!?」
西門。
馬車の傍らに立っていたグランツ公爵の身体へ。
黒い帯が巻き付いた。
「これは……!」
腕。
脚。
胴。
身体が。
空間そのものへ縫い付けられる。
そして。
その周囲。
クーデターへ加担していた貴族たちにも。
次々と。
同じ光が絡みついた。
「公爵!」
「動けん!」
「何だこれは!」
さらに。
「……っ」
ユリアンの身体にも。
黒い帯が巻き付く。
「教授……」
エルンが。
傷口を押さえながら顔を上げた。
そして。
――ゴォォォォォォッ!!
《黒禍狼》が吠えた。
巨体が跳ねる。
だが。
その身体にも。
幾重もの黒い光が絡みついている。
前脚。
後脚。
首。
胴。
暴れるたびに。
光がさらに食い込んでいく。
「神獣の裏まで……」
ライアスが絶句する。
「いや」
ロイドは。
別のことに気づいていた。
「……あり得ん」
「何がです?」
「対象を指定しておらん」
「え?」
ロイドがシノを見る。
「シノ嬢は誰の名も呼んでおらん!」
「……」
「場所すら見ておらん!」
それでも。
黒い光は。
王都の至る場所へ飛び。
必要な者だけを捕らえている。
ロイドが《タナトス》を見上げた。
「見通しておるのか……」
「何を?」
《アグライア》。
魂に宿る美を見通す神獣。
なら。
その裏にあるものは。
「罪……」
ロイドが呟く。
「悪意。後悔。心の奥へ隠したもの……」
巨大な瞳が。
すべてを見透かしている。
「タナトス自身が……対象を選んでおる」
「そんな……」
二度目の歌が。
終わりへ近づく。
そして。
拘束された者たちの様子が。
変わり始めた。
「……?」
グランツの身体が震える。
「叔父様」
「……!」
誰かの声。
グランツの顔が凍りつく。
「そんな……」
背後。
いる。
見なくても。
分かる。
「叔父様」
「やめろ……」
一方。
ユリアンも。
息を呑んでいた。
背後から。
獣の息遣い。
一つではない。
いくつも。
「……まさか」
「ロイド師!」
ライアスが叫ぶ。
「何が起きているんです!」
「まだじゃ!」
ロイドの声が震える。
「まだ、何も見せておらん!」
「何?」
「《ディメンションバインド》は、ただの拘束魔法ではない!」
ロイドが空を睨む。
「最後に、その者が最も見たくないものを見せる!」
「最も……」
「記憶か、罪か、恐怖か……そんなことは儂にも分からん!」
歌が。
最後の一節へ。
シノの唇が。
静かに動く。
「うしろのしょうめん――」
グランツの背後から。
再び声。
「叔父様」
「やめろ……!」
ユリアンの背後では。
爪が石畳を掻くような音。
「……誰だ」
ロイドが叫んだ。
「来るぞ!」
《タナトス》の瞳孔が。
大きく開く。
そして。
シノが。
最後の言葉を歌った。
「――だあれ」
瞬間。
世界が。
裏返った。
◇
「叔父様」
グランツは。
懐かしい声に顔を上げた。
「……お前」
そこにいた。
姪が。
失った少女が。
生前と変わらぬ姿で。
自分へ微笑んでいる。
「……すまなかった」
グランツが手を伸ばす。
「私は……お前を守れなかった」
「叔父様」
「だが、だからこそ私は――」
「叔父様が死ねばよかったのに」
「……何?」
少女の頬が。
黒く染まった。
皮膚が剥がれる。
肉が腐る。
「やめろ……」
「今までだって」
腐り果てた唇が。
笑った。
「いっぱい殺したんでしょ?」
「違う」
「じゃあ」
少女が首を傾げる。
「だから私が死んだの?」
「違う!」
「叔父様が、いっぱい殺したから?」
「違う!!」
「ほら」
少女が。
グランツの背後を指差した。
そこには。
人。
人。
人。
数え切れない死者。
兵士。
民。
敵。
味方。
そして。
今日。
何も知らず。
王都へ連れてこられたエルドリアの兵たち。
「……」
少女が笑う。
「また、いっぱい連れてきた」
「やめろ……」
死霊が。
少女へ手を伸ばす。
「やめろ!」
「叔父様が連れてきたんだよ」
「やめろぉぉぉ!!」
死霊たちが。
一斉に。
少女へ群がる。
腕を掴む。
脚を掴む。
口を開く。
食らいつく。
「やめろ! やめろ!」
グランツは走る。
手を伸ばす。
だが。
決して届かない。
目の前で。
守れなかった少女が。
今度は。
自分が積み上げた死者たちに。
喰い尽くされていく。
◇
「……成功した」
ユリアンの頬を。
涙が伝った。
目の前には。
美しい神獣。
その隣に。
軍神。
そして。
光を宿す瞳の神獣。
「成功した……」
身体が震える。
「ついに……!」
何年。
何十年。
求め続けた。
金も。
人との繋がりも。
良心すら。
差し出した。
「私は……」
ユリアンは笑った。
「召喚士に――」
「お前」
「……?」
「才能ないよ」
笑顔が止まった。
「……何を」
「お前じゃない」
フェンリルが言う。
「違う」
アルテマが言う。
「勘違いしないで」
アグライアが言う。
「私は術式を解いた!」
「お前じゃない」
「私は召喚を――」
「お前は扉を壊しただけだ」
「違う!」
ユリアンが叫ぶ。
「私は召喚士だ!」
その時。
神獣たちの背後から。
闇が滲む。
《黒禍狼》。
《タナトス》。
そして。
名すら知らぬ。
幾つもの神獣の裏側。
「……」
闇の中から。
声。
「お前が届いたのは、こっちだけ」
「違う……」
「召喚士なんだろ?」
黒禍狼が。
牙を剥いた。
「なら、制御してみろよ」
「……っ!」
ユリアンが手を伸ばす。
譜式を組む。
出ない。
「なぜだ……!」
歌おうとする。
声も。
出ない。
「待て……」
表と。
裏。
神獣たちが。
一斉に近づいてくる。
「私は……」
牙。
爪。
巨大な瞳。
「私は……召喚士に……!」
神獣たちが。
ユリアンへ。
一斉に。
食らいついた。
◇
現実では。
ほんの一瞬だった。
――ばたり。
一人。
倒れた。
続いて。
また一人。
ばた。
ばたばたと。
王都の至る場所で。
《ディメンションバインド》に捕らわれた者たちが。
一斉に崩れ落ちる。
白目を剥き。
身体を痙攣させ。
口元から泡を吹いて。
「……」
グランツ公爵も。
その場に膝をついた。
「や……め……」
その声を最後に。
泡を吹き。
倒れた。
「公爵!」
ユリアンも。
「……」
何も言わず。
力なく。
石畳へ崩れ落ちる。
「教授……」
血に濡れた脇腹を押さえながら。
エルンが呆然と見つめていた。
「……」
そして。
――ゴォォォォォォォォッ!!
《黒禍狼》が咆哮する。
空間の枷を引き千切ろうと。
巨体を狂ったように暴れさせる。
だが。
動けない。
第八階梯。
《ディメンションバインド》。
神獣の裏側すら。
完全に縫い止めている。
「……あり得ん」
ロイドが。
震えていた。
「第八階梯……」
一人。
二人ではない。
王都中。
離れた場所にいる者まで。
同時に拘束し。
魂の奥底を見通し。
精神へ直接。
最も見たくないものを叩き込んだ。
「しかも……」
ロイドが《タナトス》を見上げる。
「神獣の裏まで拘束しおった……」
魔導を極め。
七十年近く。
伝説を追い続けた男。
そのロイドでさえ。
目の前の光景を。
理解できない。
「こんなもの……」
声が掠れる。
「人の世へ出してよい魔法ではないぞ……」
そして。
宙に浮かぶ。
シノを見る。
瞳は。
まだ。
虚ろなまま。
「シノ嬢……」
その時。
ふっ。
風が吹いた。
「……?」
ロイドが顔を上げる。
違う。
風ではない。
何かが。
触れた。
王都の自然マナへ。
遥か遠くから。
どこなのかも分からない。
それでも。
確かに。
シノの歌へ。
何かが。
届いた。
「……まさか」
ロイドの顔が。
さらに強張る。
そして。
声がした。
低い。
男の声。
どこか楽しげで。
それでいて。
底知れぬ声。
「そんなに心を揺らして歌われたら――」
シノの周囲のマナが。
大きく震える。
《タナトス》の巨大な瞳さえ。
僅かに動いた。
声は。
静かに続けた。
「届いてしまうだろう?」
一拍。
「――この私に」




