詩
雨上がりの空には、まだ重たい雲が低く垂れ込めていた。
諒の運転する車は、濡れたアスファルトの上を、前後の車列に混じって、まっすぐな道を静かに進んでいく。タイヤがときおり、水たまりを柔らかく撫でる音だけが、車内に微かに響いていた。
文菜は、さっき目にした人影のことを話すべきかどうか、迷っていた。
見間違いだったのかもしれない。けれど、玲美の幻影のこともある。
膝の上で組んでいた手をそっと解き、声をかける。
「……あの」
「あのさ」
タイミングが重なり、ふたりの声が静かな車内に響いた。顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑い合う。
「なあに諒くん?」
「あ、文菜の方こそ」
「先に諒くんどうぞ」
軽く片手を差し出すと、諒は少し照れたように頷いた。
「ああ、昨日なんだけど、ちょっと思い出して、文芸部の詩集探し出したんだよ、文菜、文芸部だったろ?」
不意打ちの話題に、少しだけ目を瞬かせる。
「え?あ、うん」
そっと諒の横顔をそっと窺う。
ハンドルを握ったまま、目線を逸らさず前を見据えている。
口元が、ほんのわずかにほころんでいた。
「俺も本読むから、文芸部の作品とかも見てたんだよね」
「うん」
「でもさ、俺が気に入ってた奴がなかったんだよね……ああ、文菜の「影の音」ってやつだったかな、あれは良かったよ」
「影の音」は卒業作品として、詩集に納めたもの。
ちょっぴりうれしさと、恥ずかしさが同居する。
諒が読んでくれていたのは、うれしい。
でも、詩の中身が……ね。
「……ありがとう、それで……気に入ったのってどんなの?」
内心ドキドキしながら、興味があるから聞いてみる。
諒はちらりとこっちを見て、ふっと照れくさそうに笑った。
真意を包み隠すようなその笑みに、どこか少年のようなあどけなさがあった。
諒は少しだけ口を閉ざし、言葉を選ぶように、ぽつりと詠み始めた。
「あなたが 歩いていく先に
少しでも わたしの言葉が
灯りのように残せたら
あなたの不安や 痛みの影が
ほんの少しでも やわらげられたなら
わたしのこの気持ちは
きっと
意味のあるものになる。……確か「灯台」ってタイトル」
諒は、何気ないような口調で、けれどまっすぐに言った。
詠み上げられた詩のひとことひとことが、まるで鼓膜ではなく心で受け止めているかのように、言葉が静かに降り積もった。
思わず頬に手を添えて、視線を伏せる。
「それって、私が書いたやつ……」
「そう、どうして載せなかったの?他にもいいなって思うのあったのに」
そう、私の詩集ノートを、諒が拾ってくれた時のこと――
冬休みが明けた、少し風の冷たい日の放課後。
部活で卒業詩集に載せる詩を書こうと、校舎裏にある壊れかけたベンチに座っていた。
にわかに校庭が騒がしくなり、視線を向けると、後輩の練習に付き合っていた友美が足をくじいたようだった。
私は鞄を抱え、友美のもとへ駆け寄り、保健室まで付き添った。
そこでノートを置き忘れたことに気づき、保健室を出たところで、諒と鉢合わせた――
「あぁ、諒くん……やっぱり中、見たんだ……」
「あっ……ごめん、いや、名前書いてなかったから、確認しなきゃわからないだろ?……そしたら詩ごとに、文菜って書いてあった」
中指で眼鏡を押し上げながら、諒はため息まじりに口元をゆるめた。
「……もう、全部見られたの……」
ガクッとうなだれ、顔を手で覆う。
頭に血がのぼる。
頬が熱い。
あれには諒に対する想いの詩しか書いてない。
というか、そんな詩しか書かなくなっていた。
恥ずかしさに身を縮めながら、それでも少し、うれしい。
見られたくなかった気持ちを、見つけてくれたことが。
大きく溜め息をついて、諒の方に顔を向ける。
「でも、何か良かったよ、今ならもっと……なんか理解できるというか」
どことなく嬉しそうな諒の表情に、ちょっぴり驚かされる。
「そう……?」
車は、土庄町へ通じる大きな峠をゆっくりと登っていた。
雨上がりのアスファルトにはまだ湿り気が残り、タイヤが静かに水の跡をなぞる。
道路沿いの木々のすき間から見える空には、まだ雲が住んでいた。
諒が拾ったのは、ほんの一瞬。それなのに、あの詩を覚えているなんて。
どこにも載せていないし、もちろん誰にも見せたことはない。
でも、どうして今、それをわざわざ口にしたの?
しかも、詩を理解できるなんて……私の想いが分かってるってこと?
少しの沈黙。
ゆるやかなカーブにさしかかり、体が諒の方へ僅かに傾く。
フロントガラスの向こうで、風に揺れる枝の間を、小さな鳥が素早く横切っていく。
「あなたが黙っているとき
わたしも黙っていたくなる
言葉じゃないところに
ちゃんと あなたがいるから
すぐそばに 答えなんていらない
ただ その時間が 終わらなければいい
目をそらしてもいいよ
ちゃんと わたしは
ここにいるよ……」
言葉に乗せると、やっぱり恥ずかしい。
自分の詩を、誰かの前で読むなんて。
けど、諒が覚えていてくれたなら。
「ああ、それはね……「そっと、わかる」だろ」
ぽーっと頬が熱を帯び、頭の中までも染まっていく。
「当たり……覚えてたの?」
どんどん、心がさらけ出されていくようで。
覗かれている気がして、体がふっと縮こまる。
「まあ、そういう事になるか……」
見つめられている気がして、伏せた顔をそっと諒に向ける。
視線が交わると、諒はほんの少し眉を上げて、言葉の代わりに目で何かを伝えようとしていた。いい?と言いたげだった。
「あと印象に残ってるのはこれなんだ。
つらいとき
思い出してくれなくてもいい
でも どこかで風が吹いたとき
ふと わたしを感じてくれたら
いつかの笑い声や
小さな沈黙が
あなたにとって
やさしい場所になれたら
それだけで
じゅうぶん しあわせです」
「なんかこの「風に乗せた」もそうだけど、全部、文菜みたいな優しい詩だよな」
「そう……?」
気づかぬうちに、か細く、震える声が漏れていた。
恥ずかしさを越えて、ただただ胸がいっぱいになる。
まるで、自分の詩の言葉そのものが、諒の声となって返ってきたかのようだった。
車はゆっくりと減速する。赤信号。
「……文菜の心の声みたいに感じた。上手く言えないけど」
諒は少し俯いて、すぐ顔を上げてまだ曇ったままの空を見つめた。
そうだよ。そうなんだよ。
大切な人を感じて、私の想いを綴っただけの詩。
心の中のアルバムから拾い集めて編んだ言の葉たち。
あのベンチで、図書室で、屋上で、夜の部屋で、一人きりで。
わたしの心は、ずっと、そっと、そこにいる。一ミリたりとて、変わらずに――
「文菜って名前だけあって、文才があるんだな」
冗談ぽっく諒は言う。
諒なりの照れ隠し。
きっと、それが分かるから、愛おしい。
「参ったな。……これはね、おばあちゃんとの思い出がヒントになったんだ」
私は苦笑まじりに答えながら、震える指先をそっと握る。
「そうなんだ。似てたのかもな、おばあさんと文菜って、外見だけじゃなくて。心の中も」
「……そうかも。でも、うれしい。ありがとう諒くん、覚えていてくれて……」
声はまだ少し震えていた。
ふと、私の頭を撫でる諒の手の温もりが、遠い日の祖母の手と重なる気がした。
あの日と同じ、優しくて、確かな気持ち。
ちゃんと届くんだ。
そんなふうに思えたことが、何よりもうれしかった。
車は、また静かに走り出す。
信号が青に変わったことにも気づかないくらい、心に小さな光がぽっと灯るのを感じた。
「俺も思い出せてうれしいんだ。でもなんで、あの壊れかけのベンチにノート忘れてたの?」
「え?あ?何でだろう?たぶんその辺りで書いてたんじゃないかな……」
視線が泳いで、苦笑う。
「ふーん。でも冗談抜きで、文菜は文章書くのも上手いんだな」
「そっかな……」
そっと髪を耳に掛ける。
「少なくとも俺はそう思う。心にそっと明かりを灯してくれる。言葉も文章も」
諒の言葉がきっかけに、私の心に灯った光が全身を照らしていくよう。
「心にそっと明かりを灯してくれる」――
それは、自分の中の諒に対する想いを紡いできた言の葉が、ちゃんと届いていたんだという実感だった。
私と同じように、諒もあの頃の記憶を、丁寧に、静かに、大切にしてくれていたんだって。
今日、諒と交わした言葉のひとつひとつから、それが確かに伝わってきた。
こんなふうに素直に褒められるのは慣れていない。
むずがゆくて、こそばゆくて、でも嫌じゃない。
むしろ、この一瞬を、大事にしまっておきたくなる。
ほんの少し、視線を落として、つとめて平静を装うように微笑む。
「……ありがと」
声に出すと、それもまた、じんわりあたたかく響いた。
「俺のほうこそ、ありがとう」
そういう諒の横顔を見ているだけで、もう充分だった。
言葉じゃないところに、ちゃんと諒がいる――詩に書いた通りの、そんな瞬間だった。
余韻に包まれた車内は。私の詩の如く静かなまま。
沈黙さえ二人の大切な会話の一つだと感じさせてくれているようで、諒の横顔をそっと眺めていた。
やがて、静謐をそのまま乗せて、車は目指す根元高太朗の家に着いた。
そこは、昨日訪れた重岩がある麓の集落にあった。山を背に、ぽつぽつと家が点在する静かな住宅地。
静けさの中に、どこか時間の止まったような空気が漂っている。
車は、少し離れた空き地に滑り込むように止まった。
諒と視線を交わし、お互い軽く微笑んで車から降りた。
空を覆う雲の海はまだ健在で、蒸した空気には、微かに潮の香りが混じっていた。
その中で、ひときわ古びた木造の平屋がひっそりと佇んでいた。
屋根瓦はところどころ色褪せ、雨樋は錆び、外壁の板には風雨に晒された痕跡が刻まれている。
周囲を囲むコンクリートブロックの塀には、苔がところどころ染みついていた。
塀の一角に掲げられた表札に「根元」と彫られた二文字がくっきりと残っている。
玄関へと続く飛び石の道は雑草に縁取られ、踏むたびに小さな音が靴底に響いた。家の前に立つと、ただそこに在るだけで、重たい沈黙が押し寄せてくるような気がした。
互いに視線を交わす。
言葉は交わさずとも、どこか気が引き締まる。
諒が玄関脇の呼び鈴を押す。
ブー……
という古びた音が、静けさの中に響いた。
二度、三度と繰り返すけれど、中から人の気配はしない。
生活の気配が、どこか薄い。
諒が玄関の引き戸に手を掛ける。もちろん、鍵はかかっていた。
ガシガシ、とわずかに揺れる音だけが返ってくる。
「……留守か」
諒は一歩後ずさって、周囲を見回す。
何かを探すように、視線を巡らせている。
その目つきに、何か諦めきれないものを感じる。
玄関脇には、細い通路のような隙間があり、そこから庭へとまわれそうだった。
諒が、そちらに目をやり、私に小さく目配せをした。
――行ってみる?
そう言いたげだった。
私は小さく手を振って、やめた方がいいと伝える。
けれど、諒は小さく息を吐くと、まるで何かに引き寄せられるように、そちらへ歩き出した。
草を踏む音が、ひそやかに響く。
「もう、諒くん……」
私は思わず呟いたが、諒は止まらない。
その後ろ姿を見ていると、急に心細さが胸に湧いてきて、気づけば諒の後を追っていた。
足元に伸びた草をかき分けながら、通路を進む。一歩一歩踏むたびに、湿った草の匂いが鼻に届く。どこか冷たく、懐かしいような匂い。
諒は身をかがめて、建物の角から奥を覗き込んでいた。
私はその背に近づき、何を見ているのか確かめようと、そっと身を寄せた――その時。
「来るな!」
突然の声に、思わず足が止まった。
大きくはなかった。
けれど、耳に触れた瞬間、なにか異質なものが全身を駆け抜けた。
どこかで聞いたような響き……
その声の温度――明らかに、いつもの諒のものとは違っていた。
私は黙って頷き、一歩下がって、諒の背中を、ただ見つめる。
風が、庭木の葉をわずかに揺らしている。その向こうの空は、まだ灰色のままだった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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