異変
神舞の撮影が、すべて終了した。
聡は、静かに胸に手を当てる。
ほっとした――はずなのに。
それ以上に「終わってしまった」という名前のない寂しさが、ひっそりと心を満たしていった。
それでも、ひとつだけ、はっきりと言えることがあった。
思っていた以上に、楽しかった――本当に。
ただ舞っただけの、小さな、小さな役。
それでも、自分なりに名もなき巫女の姿を、精一杯、真っ直ぐに演じ切ったという達成感があったかもしれない。
六角堂の下、張られた白布の上に残った水飛沫が、照明の余韻を受けて淡く光っている。きらきらと煌めくその残り香に、ほんの少しだけ夢の気配が溶け込んでいる気がした。
遠くから響くスタッフたちの片づけの声。ひとつ、またひとつと照明が落とされていく。まるで物語の幕が静かに閉じられていくようで、そこに流れる時間さえ愛おしかった。
撮影を通じて間近に見た本物の役者たちは、誰もがまるでその役そのものとして、そこに「生きて」いた。演じるというより、存在そのものだった。
物語の世界からそのまま現実に溶け出してきたような、不思議な気配――。
私もほんの短い時間だけれど、そんな世界の片隅に、自分も立てたような気がする。
見てくれてかな。
いつの間にか雨は止んでいて、しっとりとした空気が肺の奥に染み込む。
雨上がり特有の土と緑の匂いが、名残惜しさに輪をかける。
見渡す境内にはまだ、沢山の人がいる。
でも、肝心なその姿だけは見つけることができなかった。
「君達に、おじいちゃんからプレゼントだ」
そう言う、津山さんの計らいで、監督やスタッフ、出演者との集合写真にも参加させてもらった。
栞や先輩たちと肩を並べ、笑ってシャッターを切るその瞬間、確かに「この場所にいた」と思えた。
津山さんや八雲さんとも個別に撮らせてもらった写真は、一生の宝物になるかもしれない。母は、津山さんとのツーショットをまるで宝物のように抱きしめ、少女のように頬を染めていた。
もちろん、先輩たちとも何枚も撮った。おどけたり、真面目に構えたり。カメラ越しに笑いあったその時間は、愛おしい記憶として心に刻まれていく。
今度、栞と一緒に四人で遊ぶ約束もした。
ここ数日の出来事が、夢見心地で──そう思いたいだけかもしれないけれど、昨夜のあの体の異変さえ、本当になかったような錯覚に陥る。
楽しい時間が一つ過ぎるたび、寂しさが募る。
社務所の座敷へ戻ると、私服に着替えるため、装束を丁寧に脱いでいく。
今回は、先輩たちと同じ部屋だった。みんな、楽しそうに撮影の思い出を語り合っていた。笑い声が絶えないその空間の中で、私は少しだけ、静かに息を吐いた。
――楽しかった。本当にそう思ってる。
鏡越しに、みんなの姿が見える。笑い合いながら、晴れやかな顔で衣装を直している。
きれいだな――そんな言葉がふと心に浮かび、慌てて打ち消した。
鏡の中の自分をそっと見つめる。誰かのように華やかではないけれど、それでも。
私は私のやり方で、あの神舞をちゃんと踊れた。
そのことだけは、胸を張っていい気がした。
衣装の絹がそっと背中から滑り落ちる。その瞬間、夢から現実に戻されるようで、思わず肩に力が入る。
不意に背中越しに声が届く。
「あーちゃん、ありがとう」
鏡越しに視線を交わすと、栞の目元がふわりと緩んでいた。
「どしたの?」
「だって、あーちゃんが神舞に誘ってくれなかったら、こんな経験できなかったもん」
「……ああ、それはお互い様でしょ。ありがとう、しーちゃん」
言葉にして、はじめて気づく感情がある。今のこの気持ちも、きっとその一つ。
栞が小さく目尻に皺を寄せて笑った。
「じゃあ、このあと打ち上げだね」
「それ、いい!ケーキ食べよ!」
笑い合う二人の声が、部屋の空気をやさしく包む。
装いを脱ぎ終えた瞬間、ふいに寂しさと達成感がこみ上げてきた。
ふたつの感情が胸の奥で混ざり合い、自然と笑みがこぼれる。
ふっと肩の力が抜けていく。ゆるやかに、現実が戻ってくる気配。
――慎哉の姿は、最後まで見つけられなかった。
それでも、どこかで見てくれていた。そう信じていた。
ただ静かに、そう思っていた。
監督やスタッフに挨拶を済ませて外に出ると、もう10時半を回っていた。
空は変わらず、どんよりとした灰色の雲に覆われ、低く垂れ込めている。
蒸し暑さが肌に纏いつくようで、祭りの余熱のように、ざわめきが境内に残っていた。
人混みの向こう――境内の外れ、杉木立の陰に、不意に慎哉の姿が見えた。
顔と心が緩む。
やっぱり見に来てくれていたんだ。
慎哉は誰かと話していた。相手の姿は人波に遮られてよく見えない。
けれど、人の流れが途切れた刹那――相手の顔が見えた。
ハッと息を呑む。
朝のお清めの時に見かけた、あの長髪の年配の男性だった。
風が一筋、木々が目を覚ますようにざわめいた。
湿った空気の中に、なぜか乾いた冷気が細い糸のように背筋を這い上がる。
「あ、あの人……」
声にならない言葉が喉の奥で震える。
――あの舞の最中、炎の中で見た人の一人。
体の深いところで、じわりと熱い違和感が広がっていく。
「ん? あーちゃん、どうしたの……? あーちゃん?」
すぐ隣で栞の声が響く。振り向けない。視線はそのまま、人混みの奥へと釘付けになっていた。
「それ……どうしたの?」
栞が私の顔を指差す。何かがおかしい。
反射的に鼻を拭おうと、ショルダーバッグからティッシュを取り出し、そっと押し当てた――赤い。
「……え?」
「ねえ、あーちゃん、大丈夫?」
心配そうな声。栞の小さな手が私の腕に触れた。
「うん……だいじょうぶ……」
そう笑ってみせたけれど、さっきまでいた人影は、もうどこにも見当たらなかった。
胸の不穏な鼓動が響き始める。脈が速くなり、息が苦しくなる。
足元の石畳が、遠くのように感じられた。
(……どうして?)
気付くと、胸に手を添えていた。
「あーちゃん?」
こみ上げるものに咳き込み、慌てて口元をティッシュで押さえる。
赤――瞬く間に滲んでいく、血の色。
「誰かっ!あーちゃんが……!」
栞の叫びが、遠くの鐘の音のように響いた。
その時――
ドクンと大きな拍動。
身体がふわりと浮くような感覚に包まれる。
重力から解き放たれたかのような意識の中、私は駆け出していた。
止めようとする理性を振り切るように、足が勝手に動く。
ざわめく人波をかき分け、一目散に木々の方角へと駆ける。
濡れた土の匂いが鼻を掠め、枝葉を踏みしめる音が鼓動と重なって響く。
境内の端――木々の奥に、目的の人物はいた。
「聡ちゃん?」
慎哉の声が飛んでくる。
その隣にいたのは――あの男だった。
長く流れる髪が風に揺れている。
目が合った瞬間。
グッと奥歯が軋み、拳を握る。
小刻みに空が震えて見える。
漆黒の瞳。
深く、底知れないほどの哀しみが、確かに宿っていた。
それでも、まっすぐに私を見ている。
逃げることなく、拒むこともなく。
ただひたすらに、悲しみと……赦しのような、そんな色。
「どうして……私を騙したの……」
私の中に怒りと哀しみが、いっせいにせり上がってくる。
慎哉が慌てて間に入った。
「姫様、それは違うんだ」
慎哉の瞳は揺れている。
哀れみを乞う羊のように。
「あなたの……お子なのですね?」
乾いた音が響く。
気づけば、私の手のひらが、慎哉の頬を打っていた。
慎哉は言葉を失い、わずかに後ずさる。
頬に手を当て、何か言いかけたが、俯いてしまった。
長髪の男が、一歩、歩を進めた。
その大きな瞳を見上げる。
胸を灼くような激情が、どす黒い濁流となって渦を巻き、私の中を塗りつぶしていく。
「……私はただ、あなたのため、民のため、怨霊を鎮めるために、言祝ぎの舞を舞っただけ……なのに、あなたは……あなた達は……」
声が震える。怒りが、悲しみに溶けていく。
心が裂けそうだった。
「私はあなたに身も心も捧げたのに……裏切ったのよ……私を殺めたのですよ……」
「炎に包まれた瞬間、悟りましたわ。私は……結局、人身御供だったのだと……」
「……フフ、日立様。そうだったのでしょう……その証に、あなたは約を違え、一度も姿を見せなかった……」
「……私の母と妹もむざむざと殺された。……守ると仰ったのに……」
「うやうやしく、私の想いを封じる結界までお張りになって……」
言葉のひとつひとつが、積もった怨嗟の雪のように冷たく、重かった。
けれどその根には――たしかに、愛があった。
だからこそ、深く傷ついた。
恨みも、悲しみも、その全ては愛から生まれたもの――。
「……すまない」
その一言が、胸を鋭くえぐった。
私は、男の胸を両拳で何度も叩いた。
「聞いておいで、お前たちを呪ってやる。私は――決して、許さない!」
「悔しければ、また消し去るがいい……それでも、私は甦る。恨みは末代まで続こうぞ――」
(だめだよ、百々楚姫様……そんなの悲しいよ……)
「あーちゃん!どうしたの? あーちゃんっ!」
涙を溜めた栞の声。
彼女が必死に私の腕を掴む。その顔が、悲しみに歪んでいた。
その顔を見た瞬間――
胸の熱も、苦しさも、音も、匂いも、感覚も、すべてが……ふっと、静かに、溶けるように消えていった。
「……お…り……」
口が勝手に動いた。
次の瞬間、世界が音を失い、私はその場に崩れ落ちた。
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