記憶
瀬田町にある素麺屋「松寿庵」は、開店早々にも関わらず、店内は活気にあふれていた。
テーブルに置かれたコップを手に取り、冷たいお冷を一口含む。
車内では気づかなかったが、向かいに座る文菜の頬は、昨日よりもほんのり華やいで見えた。
「お待ちどう様です、こちらが天婦羅定食になります」
二人の少女がトレーを一つずつ持っている。
おそらくアルバイトだろう。
「あ、はい」
諒は片手を上げた。その時、声を掛けた少女と目が合う。
漆黒の大きな瞳が印象的で、心の奥を見透かされるような、吸い込まれるような雰囲気があった。
彼女は不思議そうに首を傾げている。
「あ、すみません、どこかでお見かけしたような気がして」
「ああ、それだったら、香っち、今年の神舞踊ってたからじゃない?」
隣の少女が口を挟む。
香っちと呼ばれた少女は、自分の前にそっとトレーを置いた。
「ああ、そうだったんですね」
「へー、あなたが今年の舞手さんだったんだ、じゃあ、明日の映画撮影もあなたが舞うの?」
「ええ、まあ」
伏し目がちの、香っちは小さく頷く。
「えっと、山菜定食はお姉さんだね、どーぞ」
もう一人の少女が文菜の前に丁寧にトレーを置く。
「美味しそう」
文菜は胸の前に手を合わせ微笑んでいる。
「ごゆっくりどうぞ」
二人の少女は軽く会釈をして下がって行った。
「食べよ、食べよ」
文菜の声に誘われるように、箸を手に取る。自然と文菜と目が合い、声を揃えて手を合わせる。
「いただきます」
素麺を箸でつまみ、そっと麺つゆにくぐらせてから口に運ぶ。
「美味しい」
「やっぱり、旨いな」
ニコニコしながら頬張る文菜に負けじと、素麺をかき込む。
揚げたての天婦羅はサクサクで、素麺はツルツルと喉をすべる。もくもくと箸を進めた。
「ん?」
文菜は箸を休め、ショルダーバックからスマホを取り出す。両手で軽やかに何か打ち込みバックに戻すと、何事もなかったように食べ始めた。
「大丈夫?」
「ん?何が?」
文菜は素麺をすすりながら、上目遣いで覗き込んでくる。
「いや……」
言いかけて、ふっと笑みがこぼれる。
「どうしたん?」
「……彼氏じゃないの?」
「え?……」
文菜の頬が一瞬、ほんのり紅潮する。
そして、箸で摘まんだ白い束を見つめ、それをそっと麺つゆにくぐらせて飲み込んだ。
「いないよ……そんなの」
ぷくっと、頬を膨らませている。
「あ、ごめん……」
「面倒……だからね」
「え……?」
「美味しい」
文菜は、ニコニコしながら素麺を頬張っている。
「面倒……か」思わず俯いて笑ってしまった。
あの日、自分が使った言葉が、こんなふうに文菜の口から返ってくるなんて。
――真名井さんが風邪引いたら、面倒だろ――
あの時「面倒」という言葉に、たぶん自分の中の何かが揺れた。
こめかみをかきながら文菜を見ると、口元に手を当てモグモグしながら頷いている。
嬉しそうに。
文菜も、覚えてるのかもしれない……
ほんの少しだけ、心の中の距離が揺らぐ。
文菜だって”当事者”で関係がある可能性が高い。
だったら共有してもいいのではないか。
……そう思う反面、胸の奥で、何かがブレーキをかけている。
それが理性なのか、恐れなのか、自分でもわからない。
あの男の言葉がよぎる。
「迂闊に人を信じるな、知り合い、友人、家族であってもだ」
信頼する探偵──
唯一、真剣に過去の真実に向き合ってくれている相手の忠告だった。
目が合った文菜は、どうしたの?と言いたげに眉を上げている。
「あのさ、文菜ってさ、小さい頃、例えば幼稚園くらいの時の事って覚えてる?」
「どうしたの急に?」
「俺さ小さい頃の記憶がないんだよね、小学校低学年の頃より前のことって、全然」
言い終えた瞬間、文菜の表情が変わった。
驚いたように瞬きをしたあと、ゆっくりと目を見開き、そっと箸を置く。
見つめ返してくる瞳は、ほんのりと潤んでいて、俺の奥を静かに覗き込むように揺れていた。
「他の人はどうなんだろうって」
「うーん、人によると思うけど、私は覚えてるかな」
「例えば?」
「細かくは覚えてないけど、思い出せるよ。おじいちゃんと散歩したこととか、お遊戯会で恥ずかしくて、泣きそうになったこともある」
そして、少し照れたように笑いながら、文菜は言葉を続けた。
「小学校入る前くらいかな。昔、近所に駄菓子屋があってね、よく通ってたの。そこのおばあちゃんが優しくてさ、私のこと“ふうちゃん”って呼んでくれたんだ。嫌なことがあった日、ふらっと入ってね――」
文菜の声が、少しだけ遠くを見ているような響きになる。
目を細めるその表情は、記憶の中の風景を丁寧にたぐり寄せているようだった。
「レジの奥の棚から、おばあちゃんがそっとチョコを取り出してくれて、“今日は特別なチョコレートがあるんだよ”って。小さなハートのチョコ。“これは元気が出るチョコなんだよ”って――言ってくれてね」
そう語りながら、文菜は小さなチョコを、両手で包むような仕草をする。
空をなぞる指先がやわらかく動く、その記憶がどれほど大切だったかが滲んでいた。
「本当に、心がポカポカしたんだよ。そのときのチョコの味、今でも覚えてるの。不思議だよね、ただのチョコなのにさ」
言葉の余韻に合わせるように、文菜の目がまたこちらを見る。
優しく、でもどこか切なさを帯びた光がそこに宿っていた。
「それから時々、嫌なことがあると駄菓子屋に行ってた。でも高学年になる頃には、おばあちゃんの店、閉店しちゃってて……」
「そっか……駄菓子屋のおばあちゃんのチョコか」
思わず、ぽつりと声が漏れる。
心の中に、淡くて、けれどたしかな温かさが染み渡っていく。
文菜が語る思い出に、俺の何かが包み込まれていくような、不思議な感覚だった。
「やっぱり、人に寄るんじゃないかな、嫌な事があったら忘れたいと思うだろうし、あ、でも嫌な事でも覚えていてトラウマになったりすることもあるかも……」
「なるほど……」
「どうしたん?」
文菜がもう一度、小首をかしげて訊いてくる。
今度は声に出して。
その声も、表情も、やわらかく、やさしい。
「ん?いや、いい話だった」
それだけを口にしたとき、自分の声が少しだけかすれていたことに気づいた。
でも文菜は、それをとがめることなく、ただ静かに微笑んでくれていた。
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