小さな旅
文菜はフロントガラスの先に広がる景色に、思わず声を上げた。
「わあ、この道、海に繋がってるみたいだね」
「確かに、そう見える」
長く、緩やかな下り坂。
その先には、陽光をまとってきらめく海と空、点在する島々が広がっていた。
「こんな道があるなんて知らなかったよ」
「うん、私も」
「走っていて、気持ちいい」
諒は、こっちをチラッと見た。
楽しそうな顔に自然と頬が緩む。
やがて、右へ曲がるカーブで少しだけ体が外側に傾いた。
車は海沿いの道を、潮風を受けるように軽やかに走っていく。
空には、瀬戸内海を行き交う多くの船のように、雲達がふわふわと漂っていた。
防波堤の向こう、水面に反射する光が眩しくて、手を翳す。
目の前に広がる景色はどこまでも穏やかなのに、心の中では波のように嬉しさと切なさが交互に押し寄せていた。
隣をチラッと見る。
運転席の諒は視線をまっすぐ前に向け、静かにハンドルを操作していた。
学生時代、私が問いかければ、諒はいつも当たり障りのない答えをくれた。
それだけのやりとりでも、嬉しかったし、それで十分だった。
でも——
さっき、諒の口から初めて語られた“彼自身”のこと。
話してくれたという喜びと、驚き、心にほんわかとした温もりが灯った。
でも——
「小さい頃の記憶がない」という言葉が、その灯をやわらかな靄で包んでしまう。
もしかしたら、思い出したくない過去が眠っているのかもしれない。
そんな余計な詮索をしてしまう。
誰とでも一定の距離を置くような姿勢。
遠くを見ているような眼差し——
まるで、何かを探しているかのような。
それが、諒の抱えている過去に繋がっているのかもしれない。
でも——
どうして、いま話してくれたんだろう。
理由は分からない。
けれど、ノックし続けた扉がほんの少しだけ開いた気がして。
嬉しくて、心の中でガッツポーズをする。
「なに、思い出し笑い?」
「え?」
「にやけてた」
スッと頬に手を当てる。
「そう……かな」
「……何思い出してたの?」
「ん?島でさ、こうやって、諒くんと話すの、学校以外で初詣の日以来だなって」
「ああ……そうかもな」
諒が一瞬だけ、視線をフロントガラスの先から逸らした。
きっと思い出している――
そう思いたい。
今日とは真反対の、きんと冷えた冬の日。
母に朝から髪を結われ、袖を通された着物は、不慣れな重みで背筋をしゃんと伸ばさせた。
一人で向かった初詣。
行き先は、葦田八幡神社。
諒がそこでバイトをしていると聞いていたから。
境内は参拝客で賑わっていたけれど、諒を見つけるのは簡単だった。
白と浅縹の装束に身を包んだ姿を見て、キュンと、ときめいた。
初めてみる制服以外の格好。
冬の澄んだ空気の中で、それはひときわ凛と映えていた。
草履の裏をきゅっきゅっと鳴らしながら、慣れない足取りで近寄った。
「諒くん」
袖を気にしながら、そっと肩をチョンと叩く。
諒は、首をかしげてから振り向いた。
「あれ、文菜、何やってんの?」
不思議そうな顔。
「もう、初詣に決まってるじゃん」
「ああ、なるほど」
妙に納得して頷いている。
「明けましておめでとう、諒くん」
「ああ、あけましておめでとう」
穏やかな微笑みが返ってくる。
「今年もよろしくね」
「……ああ」
視線を落として、少しだけ曇った表情。
「ねえねえ、和服似合ってるね」
「そうか?……文菜もいいんじゃない」
ぶっきらぼうな言い方、照れたような、はにかみ。
「ありがと」
諒の顔が少し赤らんでいた気がして、心がくすぐったい。
「ねえ、ここの神様ってどんな神様?」
「ああ、それは……」
急に真剣な眼差し。
神社の歴史や、この土地の守り神のことを語ってくれた。
言葉を選ぶように、丁寧に、でもどこか誇らしげに。
諒に声がかかるまでの時間。
長かったのか、短かったのか。
諒の後ろ姿を、目に焼きつけるように見つめていた。
そのとき見上げた空模様は、季節は違えど、今日に似ていた。
「……文菜、似合ってたな……着物」
「え?」
驚いて顔を向けると、諒は視線を前に戻したまま、わざと話題を逸らすように言葉を重ねた。
「……この道は、ドライブに向いてるな、景色もいいし」
「……そうだね」
素直に頷くと、じわじわとあたたかくなっていくものが、体中に染み渡っていく。
時を超えて、同じ記憶を今、共有できたことが、何よりも嬉しかった。
車は、海まで迫り出した山の裾野を抜けるため、坂道を上っていく。
またカーブに差し掛かり、体がわずかに外側に持っていかれる。
諒の運転は優しい。
「諒くん、運転上手いね」
「そう?毎日、仕事で運転してるからじゃないか、それに、あんまり信号ないし、東京より走り易い」
「私、東京出てから全然運転してない」
「まあ、東京は便利だからね?運転してみる?」
「……遠慮しておきます」
おどけて言うと、諒は小さく笑った。
何気ない会話。
それが嬉しい。
とても嬉しい。
視界の隅に、水面を滑るフェリーの姿が映った。
ゆっくりと坂道を下り、細い路地を抜けて、集落の町並みを通り過ぎる。
その町並みを囲う山の一角へと続く細道に入れば、もうすぐ目的地だ。
今日の数時間だけでも、心の中のアルバムは、溢れそうになっている。さっき見た景色も、会話も、諒の仕草や表情も。
瞬きする度にシャッターが切れたらいいのに、学生時代に思っていた事を思い出し、一人でふっと笑ってしまった。
「急に、どうした?」
諒はビクッとして、チラッと視線をこっちに投げる。
こんな事でさえ楽しい。楽しい。
30分ほどの、小さな旅のようなドライブが終わろうとしていた。
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