旱天の慈雨 2
よく晴れた日だった。
塚本の運転する車の中でブランドの情報と会場となるビルの確認をする。
ブランド自体は以前から撮影の際などに担当者と話はしている。改めてブランドイメージやデザイナーのコンセプト、客層から自分が演じるべきキャラクターを組みなおす。明朗快活で天真爛漫。年齢層は高校生から大学生あたり。いわゆる陽キャらしい感じだろう。
モデルの仕事は好きではない。それでもこのアパレルブランドのことは少し気に入っていた。自分の好みか、と問われるとよくわからない。ただ青柳仁は好きそうだと感じていた。ある意味、青柳仁を演じるように振舞えば、おそらくキャラクターとしては正解だろう。
どうせ演じるなら、せめて彼でありたい。
都内に数年前にできたばかりのビル「ロタス」は13階建ての商業ビルで、1階から階までがアパレル関連の店舗が入っている。中でも1階から3階にかけては吹き抜けとなっており、今回お披露目会の会場となるのは吹き抜けに面した3階のイベントステージである。と言っても簡易的なものであり、当日舞台を組み立てる形らしい。
一通り資料を確認して、身体をシートに預けた。しかし身体から力は抜けない。緊張しているわけでは、おそらくない。ただうんざりしているというのは間違いなかった。割り切ろうとしても割り切れない。しかし何となく予感している。いくら自分が心の中でうだうだと管を巻いていたとしても、いざロールを求められたなら、それが仕事であれば、俺をその気持ちをおくびにも出さず熟せてしまう。
それが、嫌だった。
時間が来れば、俺はまた自分の身体を、自分という存在を切り売りすることになる。大した抵抗もせず、まるで自分から望んでいるかのように。
金を稼げる手段とわかれば、俺の気持ちなど伺おうとしない母も。
俺の気持ちを知りながら、会社に都合の良いように取り図ろうとする塚本も。
「嫌だ」という感情に従うこともできない自分自身も。
何もかもが嫌だった。
その一方で、嫌だ嫌だと倦む俺の仕事に対し、朝からこのお披露目会のために準備をしている人が、ブランドの発表のために心血注いでいる関係者たちがいることが、申し訳なかった。
俺なんかじゃなくて、別の人間が、もっとやる気のある人間がやってくれればいいのに。
なんて、わがままであることも、十分にわかっていた。
わかってしまうことが、嫌だった。
早朝の商業ビルは、開店前の静けさに包まれていた。各店舗の裏からは人の気配が感じられる。通路には普段見ることのない荷台がいくつも並んでいた。
吹き抜けではスタッフたちが慌ただしく動き回っている。舞台の土台となるのであろう箱を並べる者、音響機材の確認をする者。舞台の側にはブランドロゴの入ったバックパネルが置かれていた。資料で確認した内容とタイムテーブルと合わせ、舞台のサイズや配置を目視で確認する。
塚本がブランドロゴの入ったジャケットを着た男や、首から関係者用の名札を下げたスーツの男たちに挨拶するのについて回る。こういう時、この場において自分が最も下っ端で、物を知らないというつもりで振る舞うのがもっと場を円滑にすると知っていた。
少なくとも、モデルである俺は着せ替え人形であり、アンバサダーとして最もらしいことを言う俺はアテレコされるパペットと相違ない。
控室へ案内され、用意されていた服を身に着け、メイクの担当者に言われるまま椅子に腰掛け、後はただおとなしくしている。ブランドイメージに合わせた姿に。俺はただ飾られるだけだ。
「これで終わりますね」
「ありがとうございました」
「それでは、リハが終わったらまた最終確認を裏手で行いますので。何か困ったこととか、あればすぐに言ってくださいね」
柔和な笑顔を浮かべた担当者に笑い返し、リハへと向かう。
開店前にリハを行うが、開店は10時、本番は12時の予定だ。時間が空くが、最も集客が望めるタイミングで行うのがベストだろう。
塚本に連れられ吹き抜けへと戻ってくると、すでに舞台は完成していて、いかにもと言った様相でバックパネルが用意されていた。そして今回発表されるブランドの商品ラインのサンプルがかけられたラックもすでに置かれている。
ピリピリとした緊張感のある現場に、いったん足を止める。
「仁くん?」
「……いえ、大丈夫です。少し緊張して」
「そうだよね、こういう仕事は初めてだし。でも君はいつも通りでいいよ。普段の現場の様子が一番、それらしいからね」
塚本の気休めのような言葉には、返事をしなかった。
ただ下腹部に力を入れて、深く息を吐く。
今ここで求められているのは、畔柳仁でも、青柳仁でもない。
仕事なのだ。切り替えろ。
腹の立つほどに明るい照明に、不機嫌な顔など照らされぬよう、笑みを浮かべた。
「お疲れ様、本番もそんな感じで頼むよ」
「ありがとうございます! 頑張りますね!」
今回の商品のデザイナーだという男と広報担当者に肩を叩かれる。
おそらく、これでいいのだろう。彼らはとても機嫌がいい。ならば本番は全く同じように振る舞い、しゃべるだけだ。何も難しいことはない。
深く深く息を吐いた。
塚本の言うことではないが、緊張はしていたのだと気が付いた。
この仕事が嫌だとか、不快だとか、自分を切り売りするだとか、そんな風な不満も、時間と共に切り取ってしまえば、あとは単純な緊張感や責任感が残る。切り替えが早いのは美徳だとは思っているが、損な性格だとも思ってしまう。
気ままにふるまえる人間は、きっと得だ。
「仁くん、お疲れ様。リハは完ぺきだったね。この調子なら本番も心配なさそうだ」
「ええ、まあ」
「それじゃあもうすぐ開店時間になる。本番の直前まで裏の控室で待っててくれるかい? 時間になったら呼びに行くよ」
塚本の言葉を聞き流しながら、吹き抜けに面した手すりにもたれ掛かる。明るく採光が良い。この吹き抜けで用意された音響を使えば、きっと1階にいる客にもよく聞こえるだろう。本来なら1階を会場とするのが最も適しているのだろうが、店舗が3階に入っているため、今回は3階で行うのだろう。
ふと、閑散とした開店前の1階に人の姿が見えた。スーツを着た3人の男。
目立ちはする。けれど別にこの状況であれば別に珍しくもない。どこかのショップの社員か、ビルの職員か、そういった類だろう。
注目する理由などない。ただの背景で、3階から見下ろした彼らなど、判別などできない。
なのになぜか、目が離せなかった。
吹き抜けの視界などさして広くない、フロアの通路へ入ってしまえばすぐに見失う。
ああ、となぜ気づかなかったのかと思い当たる。
「白髪……?」
スーツの男のうち一人、比較的小柄な男がいた。その髪は白く、吹き抜けから入る光をキラキラと反射させていた。
白髪の知人などいない。
もし一人挙げるなら、彼の夢の中で会ったやたらと気の合わない少年くらいだ。でも彼がいたとしても、それは注目する理由にはならない。
「本番の時にステージまで来るルートは決まってるから、担当者が来るまではそこで待ってて」
胸が高鳴る。皮膚が泡立つ。
誰でもなかった俺が、畔柳仁に戻ってくる。
俺は、青柳仁にはなれない。この育ちじゃ、この性格じゃ、本当の青柳仁にはなれない。
どうあがいても、今ここにいる俺は、畔柳仁だ。
あの青春に俺の姿はなく、あの友人たちは俺の友人ではない。
それでも、ゆるしてくれるだろうか。
「……仁くん?」
手すりから身を乗り出して叫ぶ。
「翡翠!!」
もう何も考えられなかった。人違いかもしれない。俺のことなんて知らないかもしれない。
それでも。
「俺……!」
その顔が、こちらを見た。
焦がれた童顔は間抜けな表情を浮かべ、俺を見上げた。赤い目が見開かれ、口が小さく動く。
答えはそれで十分だった。
身を乗り出し、手すりに足をかけた。背後から塚本の慌てた声が聞こえたが、そんなことはどうでも良かった。
すべての希望を諦めてきた。
心の中で、希うだけで、少しだって叶うだなんて夢は抱かなかった。
失望するくらいなら、最初から叶うなどと期待しない方が良いと。
もしこの世に神様というのがいるのならば、この一瞬はこれまで生きてきた俺へのご褒美なんだと思う。
もしこの世に神様というのがいるのならば、二度もこんなチャンスをくれてやるとはとても思えなかった。
俺の持っているものなど、片腕で抱えられる程度のもの。それでもそのすべてを投げ捨ててでも、たった一つの希望を、可能性を逃したくなかった。
ピカピカに磨かれたローファーは、手すりを蹴る。
あ、と気が付いた。
今この瞬間、最大の幸福を手に入れた。
ドブネズミのような生活の現実から逃れ、自分を切り売りする仕事から逃れ、身体は宙に投げ出される。重たい足枷なんてなかったように、身体は軽々と自由になった。
希望に胸を満たし、焦がれた彼の驚愕した顔を視界に収める。
こんなにも、自由で、幸福で満たされる瞬間、きっと他にない。
俺は笑った、晴れやかに。
今この瞬間、青柳仁すら、羨ましいと思わなかった。
「この、馬鹿! 何やってるんだ!」
「……なにって、」
「死んだかと思った!」
「君に会いたくて、」
一瞬、虚を突かれた顔をして、それから翡翠は呆れたように笑った。
読了ありがとうございました。
これにて「胡蝶の夢」完全完結です。
12年間本当にありがとうございました。




