旱天の慈雨 1
晒され、削られている。
風に表面を舐められる岩肌のように、川の流れに翻弄される小石のように。
じりじりと削られ、俺はいつかなくなってしまうのではないかと思う。
今の自分すら、一体どれだけ残っているのか。
ずっとそう、恐れていた。
布団から体を引きずり出し、少しだけ窓を開ける。夏の朝の匂いがした。まだ、蝉は泣かない。随分と上るのが早くなった日に目を細めた。
物心ついたときには一生分に近い記憶が、俺の中にあった。否、その記憶は高校で終わっていたから、一生分というのは正確ではない。だが燦然と輝くその日々は、その命は、俺が想像するこれからすべての時間に匹敵すると感じていた。
雑然とした部屋の中。床に脱ぎ捨てられた服。開いたまま忘れられた雑誌、申し訳程度に端に寄せ固められたペットボトル。
惨めだ。
口にすれば下の根から腐りそうな感覚に襲われる。
古く狭い団地の一室。無秩序に者が散乱するその様子はまるで動物の巣穴のようだ。
片付けても片付けても、彼女が帰ってくればたちまち元に戻る。
それが虚しくなったのだ。
いわく、最適な場所に最適なものを置いている。散らかしているわけではない、と。
玄関の扉が開く音。
ヒールがコンクリを叩く、カギについた鈴が小さな音を立てる。
「仁」
俺の名前を掠れた声が呼んだ。
喉の奥がひきつる。窓を閉めた。
「仁、アンタは本当に良い子ね」
動物の爪にはふさわしくない色と艶。それが付いた指が俺の頬を撫でた。
煙草の臭い。
「物分かりは良いし、頭も良い、聞き上手で落ち着いてる」
お手本のように引かれたルージュ。唇の間から白い歯が見える。隙間から生暖かいアルコールの臭いがした。
「スポーツ万能、スタイルも完璧。若いころの私にそっくりね」
嫌な、臭いだった。
けれど良い子の俺は顔を顰めたりしない。
「何よりこの顔、男の子なのか女の子なのか、一瞬わからない。それくらい中性的なのが一番、魅力的」
「そろそろ、」
もたれ掛かる身体を布団に誘導しながら、ゆっくりと立ち上がる。
拒絶していると思われないために。
この女を刺激しないように。
汗が背中を伝った。
手を振り払いたい、駆けだしたい、逃げ出したい。
どうして俺は、こうなのか。
ため息すら喉の奥で飲み下す。
どうして俺は、彼のように生きられないのか。
重たい扉を閉め、行儀の良いローファーが汚いコンクリを打つ。
みすぼらしい。
団地の敷地から出ると少しだけ息がしやすくなった。夜中の雨に濡れ、灰汁色に壁面を変えた建物は、まるで大きなドブネズミのように見えた。
ローファーは軽快な音を立ててアスファルトを進む。あの場所から離れれば離れるほど、俺は自由になれる気がした。
薄汚く惨めな自分はあの部屋に置いてきて、外に出た俺は、少しでもなりたい自分に成りすます。
天真爛漫な、青い髪の彼のように。
けれどいくら外面を取り繕っても、自分という存在から下品さが、卑しさが、醜さがにじみ出ている気がした。
自由にふるまう覚悟はなく、反発するだけの意志もない。
卑しくゾッとするような母を見捨てることもできなければ、愛し支えるだけの情もない。
何も決められない、半端者。
望むほどの勇気がない。
なりたい自分になれやしない。
それでも、望まれたロールを熟すことくらいはできてしまう。スペックの良いキャラクター。だがその中身は空っぽだ。
器用さは俺の長所だろう。
でも俺はその器用さを愛せない。
足を速く動かせばぐんぐんと体は前へと進んでいく。朝のまだ涼しい空気が、俺の頬を拭うように撫でていく。深く息を吸えば、淀んだ気持ちを入れ替えるように澄んだ空気が肺へと入ってくる。
俺も、彼も、器用ではあった。
だからきっと、俺たちは不器用な彼に目を奪われたのだろう。
双子のきょうだいから捨てられても、誰からも望まれなくても、飄々と、ただ己の道を行く彼はいつだって輝いていた。
息を整え、制服の襟を正す。人の少ない教室へと入っていけば、真面目な生徒が予習をしている。
「おはよう」
いくら望んでも、彼はここにはいないけれど。
完璧、というロールは俺にとって決して難しいものではなかった。
効率よく勉強すれば、短時間で成績は上がる。真面目な顔と態度を心がければ内心は上がる。丁寧に練習すればスポーツ技術も身につく。愛想よく人に親切にすれば人から好かれる。摂取カロリーが消費カロリーを上回らなければスタイルもキープできる。
努力とは報われるものだ。
だからこそ努力ではどうしようもないものを、憎んでいる。
「畔柳くん見たよ! また雑誌に載ってたね」
クラスの女子生徒数人が広げた雑誌をもって俺の机へと駆け寄った。
「これ、昨日発売だったのにもう買ってくれたの?」
「もちろん! だって畔柳くんが載ってるんだもん。ちゃんとチェックしてるよ」
「雑誌に載ってるような芸能人が、同じ教室にいるって本当何かのバグみたい」
胸の奥がざわついた。それでもおくびにも出さず微笑み返す。
「いつも応援してくれてありがとう。ちょっと恥ずかしいけどうれしいよ」
はにかみながら、それでも好意的に肯定する。
そう言って欲しいのだろう。
ならそのように言ってみせよう。
望まれたなら、望まれたままに。
何も難しいことではないのだから。
「てか畔柳くんてインスタとかSNSしないの? 畔柳くんのビジュなら絶対バズると思うんだけど」
「わかる! ショート動画でもいいよね。畔柳くんの笑顔は静止画より動画向き」
「いや、」
いつでも好意的に。なんだって肯定的にしておく。
そうすれば、否定するときアドバンテージになる。
「俺、SNSとか嫌いだから」
普段は使わない強い言葉。
彼女たちの笑顔を固まり、その空気が教室中に感染する。
疑念、嘲笑、嫉妬、好奇心。渦巻、揺れる。わかりやすさに鼻で笑いたくなってきた。
「さあ、そろそろ帰るね。このあと事務所で打ち合わせがあるんだ」
「ご、ごめんね、忙しいのに引き止めちゃって」
「ううん、雑誌見てくれてありがとう。また明日」
にっこりと満点の笑顔を浮かべてカバンを担いだ。
壁に掛けられた時計を見ようとしたとき、窓際に座る生徒の髪が夕日に染まっているのに気が付いた。
目を引かれるほどの、赤色。
それでも鮮烈な赤には足りなかった。
ここには完璧な優等生も、迷走する不調もいない。赤髪の双子はいないのだ。
幻を振り切るように教室を後にした。不自然に思われないように気を使いながら。
大丈夫。
大丈夫。
俺はちゃんとやれている。
俺は畔柳仁。
現実には青柳仁なんて人間も、赤霧兄妹もいない。
何も問題はない、はずだ。
最初からいやしないのだから。
「お疲れさま、仁くん」
「お疲れ様です、塚本さん」
カフェオレで良いよね、と言いながら彼は奥へと引っ込んだ。鞄を下ろしながら椅子に座る。初夏であるが、すでに室内は冷房が効いていた。うるさいくらいの稼働音と、カーテンがそよぐほどの風量に目を細めた。
駅前のビルの一角にある小さな芸能事務所。それが俺の所属している会社だった。
乳児のころから俺はモデルをやっているらしい。というのも粉ミルクのCMに出ていたのだと、母は自慢げによく言っていた。もちろん、記憶はないためどこか俺にとって他人事だった。
物心ついたことには、俺はこの事務所に所属し、モデルをしていた。
学校に通いながら、休日や夜に仕事をする。
それが俺にとってさして難しいことではなかった。
バランスの取れたボディメイクをして、言われるがままに服を着て、望まれる表情を浮かべる。難しいことではない。ただの日常だ。
「この前の雑誌、売れ行きも好調で評判もいいよ」
「それは良かった」
カフェオレを俺に渡す塚本は俺の数人目のマネージャーだった。
「今回着てもらったブランド、雑誌発売直後からかなり問い合わせが来てるみたいだ」
冷房の効きすぎた部屋では温かなカフェオレが沁みた。温かなそれがじんわりと俺の心を緩ませる。
「また、君に仕事を頼みたいって」
「光栄です」
「今度都内で新作のお披露目イベントをやるらしいんだ」
塚本の口のしたビル名はなるほど聞いたことのもので、かなり注目度が高いものであることは想像に難くなかった。
「そのイベントの時のアンバサダーを君にしてほしいんだって。……こんな大きな仕事ができるチャンスめったにない! 本当に今回はお手柄だよ」
「……アンバサダー? モデルじゃなく?」
「基本はモデルだよ。いつもと同じように、君は服を魅せる。堅苦しい感じじゃないから緊張しなくていい。ブランドのコンセプトも元気でポップって感じだし。仕事中の君のイメージはぴったりだ。当日は関係者やバイヤーばかりの服を売る場というよりもビルに来た一般の人たちにも自由に見てもらう感じで」
聞いてもいないのに、情報が増える。上ずったような早口。塚本は焦っていた。そして彼は、おそらく俺を騙そうとしている。
「具体的に、端的に言ってください。そのイベントにおける俺の業務内容は?」
目が逸らされ、無駄に饒舌だった言葉はしどろもどろになる。いい大人がみっともない、という言葉が喉元までせりあがった。
「塚本さん」
「……いつも通りの撮影と、ちょっとしたトークだよ」
「ちょっとしたトークとは?」
なおも誤魔化そうと足掻く彼を急かすように指で机の天板を叩いた。
「言えないようなこと、俺にさせるんですか?」
「いや……仁くんさすがに人聞きが悪すぎるよ。すこししゃべるだけだよ。インタビュアーがいるから、そのブランドのこととか、君自身のこととか、アンバサダーへの心意気とかそういうの。もちろん君が主役ではなくあくまでもブランドが主役だから気負わなくて、」
「俺、写真以外の仕事はしないって言ってありますよね」
じろりと睨み上げるとあからさまに気まずそうな顔をする。
物心つく前からモデルの仕事はさせられていた。しかし自分である程度判断ができるようになってからは、動画をはじめとした「自分」が声を出すような仕事はすべて断っていた。
今のトレンドが雑誌などの紙媒体でないことは承知している。どのメディアでも最も支持されるのは動画だろう。SNSでも単なる写真よりもショート動画の方が求心性が高い。
雑誌やテレビが最も力を持っていた時代から、誰でも発信配信のできるフリーな時代に変わってきている。今までのやり方ではオールドメディアはあっという間に市民に捨てられてしまう。
それならそれでいい。
「畔柳仁」という人間を、俺は売るつもりはなかった。
ガワだけなら売ろう。求められるままに演じよう。見た目だけもてはやし、消費されることも許容しよう。
だが「俺」自身を身売りするつもりはなかった。
俺の人格も言葉も、売り物ではない。
「でもお母さんからの了承は得ているんだ」
少しだけ申し訳なさそうな顔をした塚本に、カフェオレを投げつけようとして、やめた。
それをして何になるのか、と。
腹が立つ。
勝手に俺を売ることを決める、決められると思っているあの女に。
彼女とうまくいっていないことを知りながら、金をちらつかせれば簡単に了承するとわかっている彼女に話を持っていた塚本に。
俺はまた、選択肢を与えられていない。
事務所を出てすぐ雨が降り出した。道行く人はぽつぽつと傘を差し始める。車のヘッドライトが目に痛い。煌々と白々しく光るコンビニにも今は虫も寄らない。重たい体を引き摺るように歩きながら、塚本の言葉を思い出した。
「仁くんももう高校3年生だろう。進路はどう考えてるんだい? もしこのまま仕事を続けていくならステップアップは考えていかないと」
わかっているだろう。
うちに進学するような金がないことくらい。
ステップアップってなんだ。ガワだけでなく、人格やプライベートまで切り売りすることがステップアップだとでも言うのか。
ローファーが水たまりを踏みつける。制服は雨水を吸い重たくなる。
どうしろというのか。
どうすればいいのか。
答えなど持ち合わせていない。
なりたい自分は遠ざかる。
自分を切り売りすればするほど、青柳仁から遠ざかる。
逃げ出したい。ここではないどこかへ。
畔柳仁ではない何者かになりたい。
光が欲しい。
希望が欲しい。
気が付けば俺の目の前には大きなドブネズミがいた。
暗闇の中、雨に打たれ息づく巨大なドブネズミ。家庭の明かりがその身体からぽつぽつと漏れ出でる。
濡れた体のまま立ち尽くした。
結局俺は逃げられない。どこにも行けずこの場所へと帰ってきてしまう。
重たく冷たい扉を開ける。人の生活する匂いがした。
足元に空になったビールの缶があたり、軽い音を立てて転がっていく。
部屋には誰もいなかった。
濡れたカバンを下ろし、制服を脱ぎ捨てる。
あと半年で俺は高校生でもなくなる。
青柳仁は、高校を卒業した後、どのように過ごしたのだろうか。
大学でも赤霧翡翠について行ったのだろうか。あるいは自分の夢のために進学でもしたのだろうか。それともあの調子でフラフラしてすぐに就職でもしたのだろうか。
俺は、彼の眩い子供時代を知っている。しかし彼がどんな大人になったのか、それを知らない。
ずっと青柳仁になりたかった俺は、いったいこれから何になれば良いんだろうか。
洗面台の前に立つ。濡れた髪の、陰鬱な面持ちをした青年が俺を見返した。




