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■第9話「なんかおかしい」

男子トイレ事件の翌日、俺は朝からミナ計画ノートを開いたまま、しばらく動けずにいた。ページの端には、昨日の最後に書いた文字が残っている。


でも……。


その三文字が、やけに目立っていた。

更衣室で助けられた。スカートを守られた。名前事故をフォローされた。似すぎ疑惑を止められた。


体調不良をさりげなく支えられた。男子トイレから、誰にも見られずに逃がされた。

普通なら、もう少し早く気づくべきだったのかもしれない。何かがおかしい。


いや、おかしいなんてものじゃない。明らかにおかしい。三人のタイミングも、距離の取り方も、俺が一番嫌がる形を避ける感じも、全部都合がよすぎる。

俺はペンを持ったまま、ノートの新しいページに書いた。


今日の目標。

これまでの出来事を整理する。


ただし、余計な結論は出さない。

復讐は続行。


最後の一行だけ、やけに強く書いた。復讐は続行。

そうだ。俺は復讐するためにミナ・クロフォードになった。女みたいだと笑われたことを、そのまま使い返すために。


なのに最近、ノートの内容が明らかにおかしい。最初は「陥落度」とか「勝敗」とか書いていたはずなのに、今はほとんど「今日の救助記録」になっている。

桐生朔がどう助けた。瀬名陽斗がどう気遣った。神崎凪がどう逃げ道を作った。


違うだろ。俺は、助けられるために女装しているわけじゃない。

落とすためだ。復讐するためだ。


俺はノートを閉じ、鏡の前に立った。ミナは、もうだいぶ見慣れた顔になっていた。

ウィッグの位置を直す手つきも、スカートの裾を整える動きも、初日よりずっと自然だ。それが少しだけ嫌だった。


「……慣れてんじゃねえよ」


小さく呟いたら、廊下から澪の声がした。


「湊、独り言が朝から荒れてる」

「聞くな」


ドアが開いて、澪が顔を出した。今日も教師らしい顔をしている。

中身は、ミナ計画の元凶なのに。


「昨日、男子トイレに入ったんだって?」

「なぜ知ってる」


「学校って、意外と情報が巡るの早いんだよね」

「その情報、巡ったら終わるやつだろ」


「安心して。三人がかなりきれいに止めたみたいだから、表には出てない」


また三人。俺は思わず眉を寄せた。

澪はその顔を見て、少しだけ目を細める。


「気づき始めた?」

「何に」


「三人が、思ってたより悪い子じゃないかもって」

「……知らない」


「知らない顔じゃないけど」

「うるさい。俺は復讐中なんだよ」


そう言うと、澪は笑わなかった。代わりに、少しだけ優しい声で言った。


「傷ついたことは、本当だからね」


胸の奥が、きゅっとした。俺は鏡から目をそらした。


「分かってる」

「それを忘れなくていいよ。あの子たちが今優しくても、湊が前に傷ついたことまで消えるわけじゃない」


「……うん」

「でも、今見えてきたものも、なかったことにしなくていい」


澪はそれだけ言うと、いつもの軽い顔に戻った。


「まあ、ミナちゃんが恋愛方面で自爆するのは時間の問題だと思ってるけど」

「台無しだよ。さっきまで少し良いこと言ってたのに」


「良いこと言いっぱなしだと、あたしが照れる」

「知るか」


俺は鞄を持った。玄関を出る前に、もう一度だけノートを見た。


復讐は続行。


その文字を、心の中で何度も繰り返した。


****


学校に着くと、いつも通り女子たちが声をかけてくれた。


「ミナちゃん、おはよう」

「おはようございます」


「昨日の移動教室、大変だったね。トイレの水漏れ騒ぎあったでしょ」

「……そうですね」


水漏れ騒ぎ。表向きはそういうことになっているらしい。

俺は笑顔を保ったまま、内心で陽斗に少しだけ感謝した。いや、感謝するな。復讐対象だ。あいつは復讐対象。


席に着くと、隣の朔がノートを開いていた。


「おはよう」

「おはようございます」


「今日は、道を間違えるなよ」


俺は固まった。昨日のことを言っている。

完全に言っている。


「……桐生くん」

「何」


「それ、優しさの形としてはだいぶ嫌です」

「遠回しに言うより分かりやすいだろ」


「分かりやすければいいと思っているところが、桐生くんの悪いところです」


言ってから、しまったと思った。でも朔は、少しだけ目を伏せて笑った。


「朝比奈も、たぶん同じこと言う」


また朝比奈。俺は反射的に言い返しそうになったが、今日は飲み込んだ。

ここで怒ると、また湊になる。


「そうなんですね」


丁寧に返すと、朔はなぜか少し不満そうな顔をした。何だよ。怒ればいいのか。怒らなければいいのか。

どっちなんだ、お前は。前の席に陽斗が来た。


「ミナちゃん、おはよ。昨日はちゃんと帰れた?」

「帰れました」


「よかった」


たったそれだけ。いつもなら「送ればよかった」とか「校門まで行けばよかった」とか言いそうなのに、今日は言わなかった。

たぶん、昨日俺が一人で帰りたい顔をしていたからだ。そういうところに気づくのをやめてほしい。


気づいてしまう俺も嫌だ。


「瀬名くん」

「ん?」


「昨日の水、わざとですか」


聞いた瞬間、朔が横で小さく息を止めた気がした。陽斗は一瞬だけ目を丸くした。

それから、少し困ったように笑う。


「何のこと?」

「……何でもありません」


「うん。何でもないってことにしとこ」


その返しが、答えみたいだった。俺は視線を落とした。

やっぱり、わざとだ。でも、本人はそれを認めない。俺が困るから。俺が気まずくなるから。


そういうことにしておく。またそれだ。

何なんだよ、本当に。後ろから凪の声がした。


「今日は、考え事しながら歩かない」

「神崎くんまで」


「大事だから」

「分かっています」


「分かってる顔じゃない」

「その言い方、澪先生みたいで嫌です」


凪は少しだけ首を傾げた。


「朝比奈先生も、そう言う?」

「……言います」


しまった。自然に答えてしまった。

ミナが澪先生をそこまで知っているのは、まあ転入手続きで関わっているから不自然ではない。けれど、俺の返事はあまりにも身内の距離だった。


凪は何も言わなかった。ただ、じっと俺を見た。

その沈黙が怖い。でも、不思議と責められている感じはしなかった。


****


一時間目、授業の内容は半分くらいしか入ってこなかった。俺はノートを取りながら、過去のことを思い出していた。


朔に「手、ちっさ」と言われた時。陽斗に「女子より可愛い時あるよな」と言われた時。

凪に「泣きそうな顔してた」と言われた時。そして、陽斗の「女だったら絶対モテるよな」。


あれは、まだ刺さっている。ミナになって、三人に優しくされても、あの言葉が消えたわけじゃない。

俺は笑った。笑って流した。


でも、本当はずっと残っていた。俺のままじゃだめみたいに聞こえた。

朝比奈湊ではなく、女の子だったら価値があるみたいに聞こえた。だから、俺はミナになった。


女みたいと言うなら、その“女みたい”で負かしてやるために。それなのに。

最近、負かすどころか、助けられてばかりいる。そして、その助け方が、妙に朝比奈湊に向いている気がする。


いや、違う。ミナだと思っているからだ。

女の子だと思っているから、優しいだけ。俺はそう思い込もうとした。


でも、その言い訳も、だんだん苦しくなっていた。


****


昼休み、俺はミナ計画ノートを持って中庭へ向かった。一人になりたかった。

最近の出来事を整理しないと、本当にまずい気がした。中庭の奥、校舎の影になっているベンチに座る。


そこは人通りが少なく、風もあまり来ない。スカート防衛には向いている場所だ。

俺はノートを開いた。


整理。


一、更衣室。


女子たちに連れていかれそうになったところ、朔が「先生が呼んでる」と止めた。陽斗が近道へ連れていき、凪が準備室前にいた。


二、スカート。


風で危なかったところ、陽斗が前に立ち、朔が上着を貸し、凪が周囲の視線を消した。


三、名前事故。


相沢先輩の名前を言ってしまった。朔が「有名だろ」と一般化し、陽斗が「昨日話した」と補強し、凪が動画を出した。


四、似すぎ疑惑。


クラスに朝比奈に似ていると言われた。朔が圧で止め、陽斗が話を流し、凪が空気を終わらせた。


五、体調不良。


陽斗が飲み物とゼリー。朔が席を変える。凪が小テストの負担を減らす。


六、男子トイレ。


陽斗が人を散らす。朔が入口を止める。凪がタイミングを出す。


書いてみると、ひどかった。俺のミスもひどいが、三人の連携がもっとひどい。


「何これ……」


思わず声が出た。偶然で済ませるには多すぎる。

優しいだけで済ませるには、俺の弱点に合いすぎている。俺が嫌がること。


俺が隠したいこと。俺が助けてと言えないこと。

それを、三人は知っているみたいに動く。でも、正体を知っているとは思いたくなかった。


もし知っているなら、俺は何をしていることになる? ミナになって、騙しているつもりで、全部見透かされている?

それは困る。あまりにも、困る。


俺はノートの下に、大きく書いた。


結論。

あいつらは、ミナを女の子だと思っている。

だから優しい。


朝比奈湊だと知っているわけではない。

……たぶん。


最後に「たぶん」と書いてしまった自分に腹が立った。

その時、後ろから声がした。


「ミナちゃん?」


陽斗だった。俺は慌ててノートを閉じた。


「またノート?」

「日本語の勉強です」


「ミナちゃんの日本語の勉強、いつも真剣だよね」

「真剣です。人生がかかっているので」


「日本語に?」

「……はい」


危ない。口が滑った。

陽斗は笑ったが、踏み込んでこなかった。代わりに、少し離れた位置に座る。


「隣、座らないんですか」


聞いてから、自分で驚いた。何を聞いているんだ、俺は。

いつもなら、近いと文句を言うところだろ。陽斗も少し驚いた顔をした。


「座っていいの?」

「駄目です」


「ええ、今の流れで?」

「確認しただけです」


「ミナちゃん、たまにすごく理不尽」

「知っています」


陽斗は笑った。でも、結局隣には来なかった。

少し離れたところで、パンを開ける。


「昨日からさ」

「はい」


「ちょっと考え込んでるよね」


俺は目をそらした。


「そんなことはありません」

「ある。顔に出てる」


「皆さん、そればっかりですね」

「ミナちゃんも湊も、顔に出るから」


また並べた。でも、今日は怒る前に、別の感情が来た。


「……そんなに似ていますか」


小さく聞いてしまった。陽斗は少し黙った。


それから、真面目な顔で言った。


「似てるところもある。でも、同じとか違うとか、そういう話じゃない気もする」

「どういう意味ですか」


「うまく言えない」

「瀬名くんは、だいたいうまく言えませんね」


「ひどい。でも当たってる」


陽斗は困ったように笑った。


「ただ、嫌なことを嫌って言えない時の顔は、似てる」


胸が詰まった。それは、ミナの話だ。

いや、湊の話でもある。両方の話に聞こえた。


「……嫌って言ってます」

「うん。最近はね」


「最近?」

「前は、笑ってたから」


前。いつの前だ。

ミナになってからの前か。それとも、朝比奈湊だった頃の前か。


聞けなかった。聞いたら、答えが出てしまいそうだった。

陽斗はパンを食べ終えると、立ち上がった。


「戻るね。午後、移動教室あるから道間違えないでね」

「しつこいです」


「ごめん。でも心配」

「心配しなくていいです」


「それは無理かも」


陽斗はそう言って、軽く手を振った。後ろ姿が遠ざかる。

俺はノートを開き直した。


陽斗。

嫌なことを嫌って言えない顔に気づく。


前は笑ってた、と言った。

前って何。


俺はペンを止めた。これ以上書くと危険だ。


****


午後の授業中、今度は朔が妙だった。いや、朔はいつも妙だが、今日は特に見てくる。

俺が教科書のページをめくり損ねた瞬間、隣から小さくページ番号を示された。消しゴムを落としかけた時には、机の端で止められた。


先生に当てられそうになると、さりげなく別の生徒へ視線を誘導した。全部、ささやかだ。

だから余計に気になる。授業後、俺は思わず聞いた。


「桐生くん」

「何」


「どうして、そんなに気づくんですか」


朔は俺を見た。


「何に」

「私が困る前に、いろいろ」


「隣だから」

「それだけですか」


「それだけ」


即答だった。嘘ではないのかもしれない。

でも、全部ではない気がした。


「朝比奈くんにも、そうだったんですか」


自分で聞いて、自分で後悔した。ミナがそんなことを聞く必要はない。

朔は少しだけ目を伏せた。


「そうしたかったけど、できてなかった」


思ってもみない返事だった。俺は言葉を失った。

朔は、静かに続けた。


「あいつ、平気そうな顔するから」


胸の奥が熱くなった。違う。

これはミナが聞いている話だ。朝比奈湊のことを、転入生として聞いているだけ。


なのに、まるで俺に謝られているみたいで、息が苦しい。


「……そうなんですね」

「そう」


朔はそれ以上言わなかった。でも、その短い会話は、俺の中に残った。


****


放課後、凪とは昇降口で会った。凪は靴箱の前で、俺が靴を履き替えるのを待っていたように見えた。


「帰る?」

「はい」


「今日は、一人?」

「そのつもりです」


「分かった」


凪は引いた。陽斗なら校門までと言い、朔なら気をつけろと言うところだ。

凪は、ただ分かったと言う。でも、俺が一歩踏み出した時、凪がぽつりと言った。


「嫌いなのに、気になる?」


靴音が止まった。


「……何の話ですか」

「三人のこと」


直球すぎる。俺は振り返った。

凪はいつも通り静かな顔をしていた。


「嫌いではありません」


言ってから、また自分で驚いた。違う。

そこは「嫌いです」と言うべきだった。復讐対象なのだから。


でも、口から出たのは「嫌いではありません」だった。

凪は頷いた。


「じゃあ、気になるだけ」

「それも違います」


「違う?」

「……分かりません」


認めてしまった。分からない。

それが、一番正直だった。凪は少しだけ目を細めた。


「分からないなら、急がなくていい」

「神崎くんは、どうしてそんな言い方をするんですか」


「逃げ道は、あった方がいいから」


まただ。逃げ道。

凪はいつも、俺を追い詰めるようでいて、最後の一歩だけ残す。それが怖くて、少しだけありがたい。


「……ありがとうございます」

「うん」


俺は校門まで一人で歩いた。今日は本当に一人だった。

でも、なぜか完全に一人という感じはしなかった。それが一番困った。


****


家に帰って、ミナ計画ノートを開く。


今日のまとめ。

更衣室、スカート、名前、似すぎ、体調、男子トイレ。


助けられた回数が多すぎる。

でも、正体がバレているとは思わない。


たぶん。

あいつらは、ミナを女だと思っている。


だから優しい。

ただ、朝比奈湊のことも少し気にしていたのかもしれない。


俺はその一行を見つめた。少し気にしていたのかもしれない。

それだけで、胸が変なふうに鳴る。俺は続けて書いた。


でも、傷ついたのは本当。

女だったらモテそう、はまだ腹が立つ。


だから復讐はやめない。

ただし、復讐の内容を少し変更。


仕返しではなく、本当にミナに落ちるのか試す。

落ちたら、最後に朝比奈湊だと明かす。


それで、ちゃんと勝つ。


俺はペンを止めた。仕返しから、試すへ。

それは自分でも分かるくらい、大きな変更だった。でも、今の俺は、ただ「ざまぁ」と言いたいだけではなくなっていた。


知りたくなっている。あいつらは本当に、ミナなら優しいのか。

ミナなら、好きになるのか。朝比奈湊ではなく、女の子みたいなミナなら。


それを確かめたい。たぶん、それも復讐だ。

たぶん。


俺はノートに三人の名前を書いた。


桐生朔。

嫌な奴。でも助ける。

隣だからと言うけど、それだけじゃない気がする。


瀬名陽斗。

距離が近い。けど優しい。

嫌がったら引く。前は笑ってた、と言った。


神崎凪。

怖い。けど一番見てる。

逃げ道を残す。分かりすぎる。


結論。

分からない。


俺はその「分からない」を丸で囲んだ。ミナ計画ノートなのに、計画らしい結論が何も出ない。

でも、それが今の正直な答えだった。


復讐は続行。

ただし、次からは本格的に落としに行く。


俺がミナとして、三人を試す。

そう書いた瞬間、胸が少しだけ鳴った。怖い。


でも、少しだけ楽しみでもある。それが一番まずい。


****


その頃、学校近くの帰り道で、三人は立ち止まっていた。


「今日、湊ちょっと変だったね」


陽斗が言った。朔は鞄を肩にかけ直し、低く答える。


「考え始めたんだろ」

「バレてるって?」


「そこまでは行ってない。あいつは都合の悪い結論から逃げる」


凪が静かに頷いた。


「でも、見直してる」

「俺たちを?」


「うん」


陽斗は少しだけ困ったように笑った。


「それ、喜んでいいのかな」


朔は窓の方を見た。


「喜ぶ前に、ちゃんと謝ること考えろ」

「分かってる」


陽斗の声は軽くなかった。凪も短く言った。


「傷つけたのは本当」


三人は黙った。それぞれが、過去に自分が言った言葉を思い出していた。


手、ちっさ。

女子より可愛い。


泣きそうな顔。

女だったら絶対モテる。


その言葉が、どんなふうに湊に残っていたのか。今なら、少しだけ分かる。

陽斗がぽつりと言った。


「次、湊が何か仕掛けてきそう」


朔はため息をついた。


「やっぱりか」


凪は静かに言った。


「来ると思う」


「どうする?」


陽斗が聞くと、朔は少しだけ目を伏せた。


「逃げない」


凪が頷いた。


「受ける」


陽斗も小さく笑った。


「うん。ちゃんと受ける」


もちろん俺は、そんな会話を知らない。


****


俺はただ、ノートに書いた「本格的に落としに行く」という文字を見ながら、自分に言い聞かせていた。


これは復讐だ。仕返しじゃなくなっても、復讐だ。

あいつらがミナに落ちるか試して、最後に朝比奈湊だと明かす。


それで勝つ。絶対に勝つ。


そう思っているのに、なぜかミナ計画ノートの最後には、こんな一行が増えていた。


でも、もし本当に落ちたら、俺は嬉しいんだろうか。


俺はその一行を見つめて、しばらく消せなかった。


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