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■番外編2「男子制服の俺を見るな」

ミナ・クロフォードが消滅してから、数日が経った。俺は朝比奈湊として、男子制服で学校に通っている。

つまり、何もおかしくない。白いシャツ、ネクタイ、ズボン、学校指定のブレザー。入学してからずっと着ている、普通の男子制服だ。


なのに、最近の三人はおかしい。いや、正確に言うと、前からおかしかった。

桐生朔は元から見すぎるし、瀬名陽斗は元から近すぎるし、神崎凪は元から怖い。でも、ミナ騒動が終わってから、そのおかしさの方向が少し変わった。


前は、俺をからかうみたいに見ていた。今は、何というか。

……見てはいけないものを見ているみたいに、見る。いや、俺は男子制服を着ているだけだ。


何も珍しくない。珍しくないはずなのに。


「湊」

「何」


朝の教室で、隣の朔が低い声で呼んだ。


「ネクタイ、曲がってる」

「別にいいだろ。どうせすぐ曲がる」


「よくない」

「何でお前が気にするんだよ」


「目に入る」

「だから見るな」


いつものやり取り。いつもならここで終わる。

でも今日は、朔の視線が俺の首元で止まったままだった。俺は少しだけ嫌な予感がした。


「……何」

「直していいか」


「は?」

「ネクタイ」


朔の手が、途中まで伸びて、止まった。触れていいか確認している。

それ自体は、ミナ騒動以降の約束通りだった。勝手に触らない。距離を詰める前に聞く。


そこは偉い。偉いのだが。

ネクタイを直すだけなのに、何でそんな真剣な顔をするんだ。


「自分で直す」

「そうか」


朔はあっさり手を引いた。その引き方があまりにも潔くて、逆にこっちが落ち着かない。

俺はネクタイを掴み、適当に引っ張った。


「これでいいだろ」

「逆に悪化した」


「うるさい」

「鏡見ろ」


「朝見た」

「今見ろ」


朔が机の横に置いていた小さな手鏡を出した。なぜ持っている。


「お前、何でそんなもの持ってるんだよ」

「昨日、朝比奈先生に押しつけられた。お前のネクタイがひどい時に使えって」


「澪ぉ……」


身内が一番油断ならない。俺は手鏡を受け取って、自分の首元を見た。

確かに、ネクタイはひどかった。曲がっているというより、少し反抗期みたいな角度になっている。


俺が無言で直そうとすると、朔がため息をついた。


「貸せ」

「だから自分で」


「触らない。教えるだけ」

「……ならいい」


朔は俺のネクタイに触れず、少し離れた位置から指で示した。


「こっちを少し下げて、結び目を押さえる。力を入れすぎると歪む」

「面倒くさい」


「毎日やってるだろ」

「毎日適当にやってる」


「だろうな」

「馬鹿にしたな」


「事実だ」


俺は言われた通りに直した。朔はそれを見て、少しだけ目を細めた。


「……それでいい」

「そんなに変わったか?」


「ああ」


朔の声が、少しだけ柔らかかった。俺は手鏡を返そうとして、気づいた。

朔が俺の顔ではなく、ネクタイを見ている。いや、ネクタイだけではない。


シャツの襟、ブレザーの肩、袖口。男子制服の俺を、改めて確認しているみたいに。


「何だよ」

「いや」


「いや、じゃない。言え」


朔は一瞬だけ迷った。それから、目をそらして言った。


「……そっちも、いいなと思っただけだ」


俺の顔が一気に熱くなった。


「そっちもって何だよ!」

「男子制服」


「当たり前だろ、俺の制服なんだから!」

「分かってる」


「分かってる顔じゃない!」


朔は口元を押さえた。笑っているのか、照れているのか、よく分からない。

ただ、耳が少し赤い。俺は勝ったような、負けたような気分になった。


「言い方を考えろ」

「考えた結果がこれだ」


「失敗してる」

「悪い」


素直に謝られると、それ以上言いにくい。俺はネクタイを押さえながら、ぼそっと言った。


「……まあ、直し方は覚えた」

「ならよかった」


「次から見るなよ」

「無理だな」


「努力しろ!」


朔は小さく笑った。その笑い方があまりに穏やかで、俺は顔をそらした。


****


昼休み。今度は陽斗だった。


「湊、今日一緒に食べていい?」

「昨日も聞いたろ」


「毎日確認制」

「真面目か」


「湊ルールだから」


陽斗はそう言って、前の席に座った。距離は近い。でも、前より少しだけ遠い。

机の上に焼きそばパンとメロンパン、それからなぜか野菜ジュースを置いている。


「野菜ジュース、まだ続いてるのか」

「湊に言われてから、ちょっと気にしてる」


「ミナに言われたんだろ」

「湊でしょ」


さらっと言われて、俺は黙った。こういう時、陽斗は変に強い。

ミナだったとか、湊だったとか、そういう境目を、本人より自然にまたいでくる。


「……まあ、そうだけど」

「うん」


陽斗は嬉しそうに笑った。それから、ふと俺を見た。

視線が、俺のブレザーで止まる。


「何だよ」

「いや」


「その“いや”は禁止。朔も今朝それ言った」

「桐生も?」


「ネクタイがどうとか」

「あー」


陽斗は納得したように頷いた。それから、なぜか少しむっとした。


「桐生、ネクタイ直したの?」

「直してない。直し方を口で言っただけ」


「そっか」

「何で安心してるんだよ」


「いや、別に」

「別にって顔じゃない」


陽斗は少しだけ目をそらした。分かりやすい。

嫉妬、という言葉が頭をよぎって、俺は慌ててメロンパンの袋を開けた。考えるな。調子に乗るな。


陽斗は俺の手元を見て、また何か言いかけた。


「食い方が子どもっぽい、は禁止」

「違う違う」


「じゃあ何だよ」

「男子制服でメロンパン食べてる湊、なんか」


「なんか?」


陽斗はそこで止まった。ものすごく言葉を選んでいる顔だった。

俺はじっと待った。勝手に「可愛い」と言わないようにしているのが分かる。


それは、少しだけありがたかった。でも、あまりに考え込むから、逆に恥ずかしくなる。


「もういい。言うな」

「待って、今ちゃんと考えてる」


「考えられると余計に嫌だ」

「えっと」


陽斗は真剣な顔で言った。


「湊が湊って感じで、いい」


雑。でも、変な言い方ではなかった。俺は一瞬黙った。


「……何だそれ」

「ごめん。語彙が負けた」


「負けるな」

「でも本当にそう思った。ミナちゃんの時も湊だったけど、今はもっと湊で、見てると安心する」


安心。その言葉が、胸に少し引っかかった。


「何でお前が安心するんだよ」

「湊がちゃんと湊の格好してるから」


「俺はずっと俺だったけど」

「うん。でも、今は湊が自分で湊って言ってる感じがする」


陽斗は笑った。いつもの明るい笑顔より、少しだけ静かだった。

俺はメロンパンを持つ手を止めた。


「……何か、今日のお前、変にまともだな」

「たまにはね」


「毎日そうしろ」

「努力する」


「努力じゃなくて」

「守る」


陽斗はすぐ言い直した。俺は少しだけ笑ってしまった。

すると陽斗の顔がぱっと明るくなる。


「今笑った」

「笑ってない」


「笑った」

「見間違いだ」


「湊の笑った顔、見間違えないよ」


その言い方が急にまっすぐすぎて、俺は固まった。

陽斗も自分で気づいたらしく、慌てて野菜ジュースを手に取った。


「ごめん、今の重かった?」

「……ちょっと」


「気をつける」

「でも」


俺はメロンパンを見ながら、小さく言った。


「嫌では、なかった」


陽斗が完全に止まった。


「湊」

「重いこと言うな」


「言わない。今は言わない」

「今以外も言うな」


「それは努力」

「守れ」


「守る」


陽斗は野菜ジュースを両手で持ったまま、幸せそうに笑っていた。

俺はその顔を見ないように、メロンパンをかじった。甘かった。


****


放課後。昇降口で凪が待っていた。

もう、待っていることを隠す気もないらしい。


「湊」

「何」


「帰る?」

「帰るけど」


「途中まで、いていい?」

「……毎回確認するようになったな」


「約束だから」


凪は静かに言った。俺は少しだけ目をそらした。


「途中までなら」

「うん」


二人で校門へ向かう。陽斗や朔と違って、凪はあまり話さない。

でも、沈黙が空っぽにならない。それが少し不思議だった。


廊下の窓に、俺たちの姿が映る。男子制服の俺と、隣を歩く凪。

その窓を、凪がじっと見ていた。


「……何」

「男子制服」


「見れば分かる」

「うん」


「だから何だよ」


凪は少し考えた。


「見慣れてたはずなのに、少し違う」

「どういう意味だよ」


「ミナを見た後だから」


俺は少し身構えた。その名前が出ると、まだ胸がざわつく。

凪はすぐに気づいたのか、足を少し止めた。


「言っていい?」

「……いい」


「ミナの時も湊だった」

「うん」


「でも、今日の湊は、隠れてない」


隠れてない。その言葉が、思ったより深いところに落ちた。

俺は窓に映る自分を見た。男子制服。少し曲がったネクタイ。いつもの顔。ミナではない俺。


「隠れてたつもりは、あった」

「うん」


「騙してたつもりも、あった」

「うん」


「全部バレてたけどな」

「うん」


「そこは否定しろよ」

「できない」


凪はいつも通りだった。それが少しだけおかしくて、俺は小さく息を吐いた。


「で、男子制服の俺を見て何を思ったんだよ」


聞いてから、後悔した。なぜ自分で踏みに行った。

凪は静かに俺を見た。


「安心した」

「陽斗も同じようなこと言ってた」


「そう」

「お前ら、何で俺の制服で安心するんだよ」


「湊が、自分で戻ってきたから」


胸が鳴った。凪の言葉は、いつも静かなのに逃げ場がない。


「戻ってきたって、俺はどこにも行ってない」

「うん。でも、遠かった」


俺は黙った。ミナとしていた時、俺はたしかに近くにいた。

同じ教室にいたし、三人とも近くにいた。でも、朝比奈湊としては、どこかに隠れていた。


それを凪に言い当てられるのは、悔しい。悔しいけど、少しだけ分かる。


「……今は?」


小さく聞いてしまった。凪はすぐには答えなかった。

少しだけ俺を見て、それから言った。


「近い」

「物理的に?」


「それも」

「それもって何だよ」


「気持ちが」

「重い」


「うん」

「でも、今のは少しだけ分かるから腹立つ」


凪の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「ならよかった」

「よくない」


「嫌?」

「……嫌じゃない」


また言ってしまった。嫌じゃない。最近、この言葉を言いすぎている気がする。

でも、嘘ではない。


凪はそれ以上踏み込まなかった。ただ、少しだけ俺の歩幅に合わせた。

その距離が、今日の俺にはちょうどよかった。


****


校門には、なぜか朔と陽斗がいた。


「何でいるんだよ」


俺が言うと、陽斗が手を上げた。


「偶然」

「嘘」


「じゃあ、待ってた」

「正直」


朔は俺のネクタイをちらっと見た。


「朝よりはマシだな」

「見るな」


「見える」

「見ようとしてるだろ」


「少し」

「少しじゃない」


陽斗が横から言う。


「湊、今日なんか男子制服の存在感すごいよね」

「存在感って何だよ」


「湊が湊です、って感じ」

「お前、昼にも似たようなこと言った」


「語彙が増えない」

「増やせ」


凪が静かに付け足した。


「隠れてない」

「お前も同じこと言うな。恥ずかしくなるだろ」


三人が俺を見た。その視線が、ミナの時とは違う。

女子として見られている感じではない。朝比奈湊を、朝比奈湊のまま見ている感じ。


少し怖い。でも、嫌じゃない。

俺は鞄の紐を握り直した。


「……条件追加」


三人が同時に少し身構えた。


「男子制服を見て変な顔をするな」


陽斗が困った顔をする。


「変な顔ってどんな?」

「今日のお前ら全員」


「全員か」


朔が少し目をそらした。


「努力する」

「努力じゃなくて守れ」


「……守る」


凪が静かに言った。


「見ないのは無理」

「言い切るな」


「見る。でも、嫌な見方はしない」


俺は返事に詰まった。それは、少しだけずるい答えだった。

俺をずらす見方じゃない。俺を別の何かにする見方じゃない。


朝比奈湊として見る。たぶん、そういう意味だった。


「……じゃあ、変な顔しなければいい」

「分かった」


凪が頷く。陽斗も笑った。


「湊ルール、更新だね」

「勝手にルール化するな」


「でも守る」


朔も短く言った。


「了解」


俺は三人を見た。ツンデレで面倒な朔。距離が近くて明るい陽斗。静かで重い凪。

全員、俺の男子制服を見て、何か変な顔をした。でも、その変な顔は、俺を女扱いするものではなかった。


俺が俺としてそこにいることに、少し安心している顔だった。それなら。

まあ。少しくらいなら。


「帰る」

「一緒に?」


陽斗が聞く。


「途中まで」

「やった」


「喜びすぎるな」


四人で歩き出す。前に行きすぎる陽斗を俺が止め、横でネクタイを見ようとする朔を睨み、後ろで静かに観察する凪に「怖い」と言う。

三人はそれぞれ、少しずつ距離を直す。俺は男子制服のポケットに手を入れた。


スカートじゃない。ミナじゃない。朝比奈湊として、ここにいる。

それを三人が見ている。まだ少し恥ずかしい。


でも、もう逃げたいほどではない。


****


家に帰ってから、俺はミナ計画ノートを開いた。もうミナ計画は終わった。

でも、ノートにはまだ少しだけ空白がある。俺はそこに書いた。


番外記録。


男子制服で登校。

桐生朔:ネクタイを見すぎ。直したそう。耳が少し赤い。

瀬名陽斗:男子制服の俺を見て安心したらしい。語彙が弱い。

神崎凪:隠れてない、と言った。重い。でも少し分かる。


今日の結論。

三人は、ミナじゃない俺も見る。というか、たぶん最初から見ていた。


俺はペンを止めた。少し考えて、最後に書き足す。


男子制服の俺を見て変な顔をするのは禁止。

ただし、嫌な見方じゃないなら。


まあいいや。

書いた瞬間、スマホが鳴った。グループ名は、昨日からまた変わっている。


【湊ルール遵守委員会】


俺は即座に打った。『誰が変えた』


陽斗。『俺じゃない』


朔。『俺でもない』


凪。『俺』


俺は天井を見た。またお前か。『即戻せ』


凪。『湊ルールは大事』


陽斗。『今日の追加ルール:男子制服を見て変な顔をしない』


朔。『瀬名が一番危ない』


陽斗。『桐生もネクタイ見すぎ』


凪。『俺も気をつける』


俺は画面を見つめて、少しだけ笑ってしまった。最悪だ。

本当に最悪だ。でも、明日もこの制服で行く。


朝比奈湊として。

そう思えるくらいには、今日の俺は、昨日より少しだけ楽だった。


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