出発
成田空港は朝の八時でも人が多い。
俺はあまり空港が好きじゃない。人の密度が高い。音が多い。《構造透視》が無意識に建物の構造を拾い続けて、少し疲れる。
「師匠! 見てください、あの飛行機!」
ひなたが大きな声で言った。
「声が大きいです」
「広いからいいじゃないですか」
ひなたはリュックを背負って、目を輝かせていた。パスポートを三回確認していた。「初めての海外なので」と言っていた。
「師匠は何回目ですか」
「二回です」
「意外と少ない」
「ダンジョン関係で一回だけ行きました。それ以来です」
「どこですか」
「韓国です」
「近い!」
「近くても、海外は海外です」
ひなたがくすくす笑った。
出発まで一時間。チェックインを終えて、保安検査に並んでいた。
その前に——
凛花が来ていた。
左腕にサポーターをつけていた。黒いコートを着て、荷物は持っていなかった。見送りのためだけに来ていた。
「……わざわざ来なくて良かったんですが」
「来たかったので来ました」と凛花は言った。
ひなたに「気をつけてください」と言った。荷物に何か入れたか確認した。ひなたが「凛花さんが過保護」と言った。凛花は「当然です」と返した。
そして俺に向き直った。
「少しいいですか」
少し離れた。
「左腕の件です」と凛花は言った。声が低くなった。「古代の遺構に刺さった欠片のことです。医師には取り出せないと言われています。でも——向こうに手がかりがあるかもしれません」
「ドイツのダンジョンに?」
「欧州側の研究者に、周美鈴という人物がいます。言語学者です。古代文字の解析をしています。その人から三日前に連絡が来ました。左腕の欠片のことを調べているという話をしたら——何か知っているかもしれない、と言われました」
「会えますか」
「ドイツにいます。合同調査チームの一員です。あなたに会いたいとも言っていました」
俺は少し間を置いた。
「わかりました。探します」
凛花が頷いた。
「榊さん」
「はい」
凛花は一秒、言葉を探した。
「見てきてください。私が行けない場所を」
「行ってきます」
それだけだった。
凛花は見送りの人間が立つ場所まで下がった。
ひなたが「凛花さん、笑ってますよ」と小声で言った。
「そうですか」
「師匠は見なかったんですか」
「見ました」
「なんで確認するんですか」
「……」
ひなたがまた笑った。飛行機は定刻に離陸した。
フランクフルト直行便。十三時間のフライト。
離陸してしばらく経ったところで、俺はスマホを取り出した。
機内Wi-Fiに接続した。
「今から少しだけ配信します」
ライブを始めた。コメントが流れた。
「え、飛行機の中?」「どこ行くの」「師匠が移動中なの珍しい」
「海外に向かっています。ダンジョンの調査です」
「え!」「どこ?」「ドイツ?」「あのニュースの?」
「詳細は現地で配信します。今日はここまでにします」
「短い!」「もっと話して」「ひなたちゃんもいる?」
「います。本人に聞いてください」
ひなたにスマホを向けた。
「えっ、わたしですか!? えーと、師匠と一緒にドイツです! 初海外でテンション上がってます! 以上です!」
コメント欄が「かわいい」「ひなたちゃん好き」で埋まった。
俺は配信を切った。
「コメント荒れてたけど大丈夫ですか」
「慣れました」
「師匠はすごいですね」
窓の外を見た。雲の上。どこまでも続く白。
《構造透視》がゆっくり動いていた。
高度一万メートル。空の構造に読み取るべきものは何もない。
でも——方向を感じていた。
西。
飛行機が進む方向と同じ向きに、何かが引っ張っていた。
遠くて、でも確実に存在する、あの構造の共鳴。
チューニングフォークが近づくように、振動が大きくなっていく。
「師匠」
ひなたが俺の袖を引いた。
「何かありましたか」
「いや、何もない」
「《構造透視》が動いてましたよ。目が少し変わるので、わかります」
「……そんなにわかりますか」
「三ヶ月一緒に動いてたので」
俺は少し間を置いた。
「向こうのダンジョンが、近づいてきている感覚がします」
「近づくというか——呼んでるような?」
「……そうかもしれない」
ひなたは頷いた。
「師匠が感じるなら、あるんだと思います」
「根拠がないです」
「師匠の感覚に根拠がないことってありました?」
俺は何も言わなかった。
ひなたは窓の外を見た。
「大丈夫です。わたし、ちゃんと使えます」
「《加速》が?」
「はい。実は——内緒で続けてたんですけど」
「知っていました」
「えっ、ばれてたんですか!?」
「ひなたが三日に一度、右手の人差し指を庇う動作をしていました。《加速》の反動の出る箇所です」
ひなたが真っ赤になった。
「そんな細かいとこまで見てたんですか」
「目が悪くないので」
「……師匠、探偵になれますよ」
「ダンジョン探索の方が向いています」
「……」
しばらく沈黙が続いた。
「で、どれくらい使えるようになったんですか」
ひなたが照れくさそうに笑った。
「触れたものを三倍速まで動かせます。自分の体ごと。精度もかなり上がりました」
「三倍か」
「びっくりした? へへ」
俺はひなたを見た。
「よくやりました」
ひなたの表情が、一瞬固まった。
「……師匠が褒めた」
「事実を言っただけです」
「でも褒めました」
「次からはちゃんと相談してください。無理な訓練で怪我をしたら意味がない」
「はい!」
飛行機は西に向かって進んだ。
《構造透視》の感覚が、少しずつ強くなっていた。フランクフルト空港に着いたのは夜の二十時だった。現地時間で昼の十二時。
到着ロビーに出た。
ひなたが「ドイツ! ドイツに来た!」と言った。
「声が大きいです」
「でも興奮します」
「わかります」
「え、師匠も興奮してるんですか!?」
「内面的に」
ひなたが笑った。
出口に向かった。
迎えの人間がいるはずだった。国際調整委員会から事前に連絡が来ていた。
人混みをすり抜けながら出口に向かった。
出口の手前に、名前を書いたボードを持った人間が並んでいた。
そこではなかった。
出口の向こう。
一人の男が、腕を組んで立っていた。
身長が百九十センチを超えていた。白金色の髪。青い目。軍人のような体格と姿勢。
こちらを見ていた。
最初から、俺を見ていた。
男は一歩も動かなかった。
俺たちが近づくのを待っていた。
三メートルまで近づいたとき、男が口を開いた。
日本語だった。外国人のわずかなアクセント。
「榊誠二。来るのが遅い」




