鷹峰の崩壊
《ヴァンガード》本部の廊下に人が少なかった。
受付の島に座っている事務スタッフは一人だけだ。先週まで三人いたはずだった。会議室の前を通ったとき、中から声がしなかった。会議が開かれなくなった証拠だ。
エレベーターで最上階に上がる。
廊下の奥、団長室のドアには「面会予約制」の札が貼られていた。こんな札はなかった。いつから貼られたのかは聞いていない。
弁護士の三上は書類の束を抱えていた。顔が疲れていた。
「入れますか」
「……今日で三回目ですが、いつも通り話を聞いてもらえるかどうか」
「話すべきことがあります」
ドアをノックする。返事は少し遅かった。
「どうぞ」
団長室に入った。
鷹峰涼介は窓を背にして立っていた。スーツは着ていたが、ネクタイが緩んでいた。目の下が暗い。ここ数日、ちゃんと眠れていないのが見てわかった。
「三上弁護士、また来てもらって申し訳ない」
「いえ」
「話というのは」
三上が書類を広げた。
「ギルドからの正式通知です。《ヴァンガード》の過去十八ヶ月分の活動記録と、探索実績の申告内容に対する審査が開始されます。回答期限は二週間後」
鷹峰が目を閉じた。一秒だけ。
「……ついに来たか」
「はい。同時に、報道各社への情報提供者がいるようです。今朝の時点で五社が取材申し込みをしています」
「全部断ってください」
「わかりました。ただ——」
三上が一枚の書類を取り出した。
「現時点で確認できているだけで、正団員が三名、準団員が七名、退団届を提出しています。このまま審査が進むと、さらに増える可能性があります」
鷹峰は返事をしなかった。
窓の外を見ていた。
三上がもう一枚を出した。
「ギルドの審査は、特に——榊誠二氏の実績報告の流用に関する部分に焦点が当たっています。過去のC級格下げ処分の根拠となった報告書の、作成経緯と署名者の追跡が行われています」
「署名したのは俺だ」
「はい。その点は——」
「俺が署名した」
声は静かだった。怒っているわけでも、言い訳をしているわけでもなかった。ただ確認していた。自分でやったことを。
三上が話を続けた。対応策の説明。弁護の方針。時系列の整理。鷹峰はそれを聞きながら、半分以上は窓の外を見ていた。
三十分後、三上が帰った。
一人になった団長室で、鷹峰は机の前の椅子に座った。
スマホに着信が入っていた。副団長の名前。画面が光ったまま、やがて消えた。
折り返す気になれなかった。
しばらくぼんやりしていた。
机の引き出しを引いた。
意識してやったわけではなかった。手が勝手に動いた。引き出しの一番奥に、封筒があった。
封筒の中に一枚の写真。
古い。プリント写真だから、端が少し黄ばんでいる。七年前のものだ。
ダンジョン探索者登録から一年目の、新人歓迎イベントで撮った写真だった。
向かって左に自分。二十五歳。笑っている。
右に、榊誠二。同じく笑っている。
当時のランクはどちらもD級。同期で、同じギルドに所属して、同じダンジョンに入って、同じように失敗して、同じように笑っていた。
「あの頃は」
鷹峰が声に出した。誰もいない部屋で。
「俺の方が上だったんだよ」
実際、最初の一年はそうだった。鷹峰の方が戦闘センスがあった。判断が速かった。危機回避の勘が良かった。誠二はどちらかというと慎重で、地味で、地道なタイプだった。
二年目から、差が縮まった。
三年目に、逆転した。
誠二の《構造透視》が安定し始めたのがその頃だ。ダンジョンの構造が見えるスキル。最初は「ちょっと便利な索敵系」くらいの評価だった。誰も、それがどこまで伸びるか、わかっていなかった。
わかっていなかったのに、俺だけが早い段階から、予感していた。
これは抜かれる、と。
なぜそう思ったのか、今でもうまく説明できない。誠二が何かをするたびに、焦りが積み重なった。悔しさではなく、焦り。もっと正確に言えば、恐怖だったかもしれない。
才能が本物だと確信したとき、それを認めることが怖かった。
「認めればよかったんだよな」
また声に出していた。
最初の実績の付け替えは小さかった。報告書の数字を少し修正しただけだ。誰も気づかないと思っていた。実際、気づかれなかった。
気づかれなかったから、次があった。
次があったから、また次があった。
「俺が悪かった」
写真を見つめた。
笑っている二人。どちらが良くてどちらが悪いか、あの頃の写真には何も書いていない。ただ二人の人間が、同じ方向を向いて笑っているだけだ。
鷹峰はゆっくりと息をついた。
「あの頃に——戻れるわけないか」
写真を封筒に戻した。
引き出しを閉めた。
スマホを手に取った。副団長への折り返しは、まだする気になれなかった。
代わりに、今日の配信のアーカイブを開いた。
五百万人が見た配信。自分が追い出した男の配信。
榊誠二のチャンネル。タイムスタンプを四十七分に合わせて再生した。
《コロッサス・ウォーデン》が崩れ落ちる瞬間。
誠二がカメラを向いて、「クリア、です」と言う。
声に震えを隠している。でも立っている。倒れない。
「……相変わらず、強情な奴だ」
思わず笑った。
すぐに消えた。
机の上で、スマホが通知を鳴らした。
ギルドからのメールだった。件名は「審査開始通知および事情聴取日程について」。
鷹峰は画面を見た。
ゆっくりと、端末を伏せた。
窓の外では、夜が始まろうとしていた。
遠く、ダンジョンの方向から、低い音が聞こえた気がした。気のせいかもしれなかった。だが、その夜に限っては——気のせいでないことを、翌朝知ることになる。




