第7話:地上から見えないラブレター
第7話:地上から見えないラブレター
ペルー、イカ州。
セスナ機のエンジン音が、乾いた空気を暴力的に震わせている。眼下に広がるのは、見渡す限りの赤茶けた大地――パンパ・コロラダ。そこは、生命の気配を拒絶するような、静止した茶褐色の世界だった。
「――羽院先生、録音準備いいですか? 現地の風がかなり入るから、少し声を張ってください」
江花亜沙美が、機内の騒音に負けない声で指示を出す。彼女は手慣れた動作で指向性マイクを羽院朱理に向け、レコーダーのレベルを調整した。朱理は、手元のフィールドノートを膝に叩きつけ、気合を入れ直すように深く頷く。
「ええ、準備はできているわ。どこからでも聞いてちょうだい」
「いいですね。……では、ナスカ・セッション、スタート。まずは基本から。この広大な砂漠に描かれた『地上絵』、一体いつ、誰が、何のために描いたのか。アカデミズムの最前線にいる先生の『定説』を聞かせてください」
朱理は窓の外、点のように見える「ハチドリ」を見つめたまま、淀みなく語り始めた。
「ナスカ文化。紀元前二世紀から紀元後六世紀にかけて、この不毛の地で栄えた文明よ。彼らは雨がほとんど降らないこの環境で、驚くべき灌漑システムを構築し、そしてこの地上絵を残した。ハチドリ、サル、クモ、植物。最大のもので三百メートルを超えるこれらの図形は、単なる絵じゃないわ」
「ほう。じゃあ、何なんです? この砂漠のキャンバスは」
「――天文学、というのがかつての有力な説だった。ドイツのポール・コソックやマリア・ライヒェが提唱した、いわゆる『ナスカの暦説』ね。特定の線が夏至や冬至の日の出の方向を指しているというもの。でも、現在はそれだけでは説明がつかないことが分かっているわ」
朱理の声に熱がこもる。セスナが急旋回し、今度は「クモ」がその姿を現した。
「現在の主流は『雨乞いの儀式』説。この極度に乾燥した土地において、水は神そのものだった。彼らは地表の黒い岩を取り除き、下にある白い砂を露出させることで線を描いた。そしてその線の上を、土器を割り、祈りを捧げながら行列を作って歩いた。……つまり、この絵は神の目に留まるための、壮大な『舞台』なのよ」
「……雨乞い、ね。でも先生、セスナから見てもこれだけ巨大なものを、地上にいる彼らがどうやって正確に描いたんです? 宇宙人説が出るのも無理ないくらいの精度ですけど」
「……宇宙人なんて不勉強な妄想、私の前で口にしないで」
朱理がピシャリと言い放つ。
「彼らは『拡大法』を用いたのよ。小さな原画を描き、それを紐と杭を使って比例配分で拡大していく。実験考古学でも証明されているわ。ナスカの人々は、驚異的な数学的思考と、組織的な労働力を有していた。……そこに『明確な意図』がなければ、これほどまでに執拗で、正確な仕事が維持されるはずがないの」
江花がマイクを握ったまま、ちらりと後ろの席の僕を見た。
僕は窓の外、どこまでも続く「意味のなさそうな線」を眺めていた。耳の奥では、朱理の論理的な解説と重なるように、別の、もっと雑な振動が響き始めている。
『――なあ、あっちのハチドリ、羽が少し短くないか?』
『いいんだよ、誰も上から見ねえんだから』
『でもよ、隣の連中のクモ、足が十本あったぞ。あいつら数も数えらんねえのかよ』
『わはは! 傑作だな、そりゃ化け物だ』
僕は小さく息を吐いた。
江花さんが、僕の微かな反応を見逃さずに問いを投げる。
「羽院先生。この地上絵、ナスカ文化が滅びた後も、千年以上この場所に残り続けたわけですよね。それって、ある意味で『呪い』に近いと思いませんか? 描いた人間がいなくなっても、意味だけが砂漠に放置されている」
「……呪いじゃない。それは『遺志』よ」
朱理が唇を噛み、言葉を絞り出す。
「意味があるからこそ、残ったの。彼らが信じた神、彼らが渇望した水、彼らが費やした膨大な時間。……それがこの過酷な環境に焼き付けられている。千年の孤独に耐えうるだけの『理由』が、この砂の上にはあったはずなのよ」
「――なるほど。意図、数学、組織、そして祈り。……完璧な解説です、先生」
江花がレコーダーの停止ボタンを押した。機内に、エンジンの重低音だけが戻ってくる。彼女は万年筆を口元に運び、僕を射抜くような視線を向けた。
「……でも、不思議よね。これほど完璧な解説を聞けば聞くほど、なんだか『嘘』っぽく聞こえてくるのは。ねえ、河田君。君の耳には、先生の綺麗な理論の裏側に、どんなノイズが聞こえてる?」
「……いや、別にいいんですけど」
僕は、遠ざかっていく「サル」の絵を見つめた。
「たぶんですけど。……ナスカの人たち、雨を降らせようとしてたときより、隣の部族よりデカい絵を描こうとしてるときの方が、いい顔してた気がします」
「……はぁ? 何言ってるのよ、あなた」
朱理が即座に食ってかかる。しかし、その声はセスナの振動に紛れて、どこか頼りなく響いた。
「意味とか、祈りとか。……そういう重いものじゃなくて、ただの『自慢』とか『悪ふざけ』が、たまたま世界遺産になっちゃったんだとしたら。……それって、ちょっとだけ、救われませんか」
「……救われないわよ! 私たちが積み上げてきた歴史が、ただの『悪ふざけ』だなんて、そんなの、絶対――」
「――朱理さん。あそこの線の端っこ、少し曲がってますよね」
僕が指差した先。壮大な幾何学模様の終端が、まるで誰かが躓いたかのように、わずかによれていた。
「……あれ、たぶん、途中で誰かが飽きたんだと思いますよ。……どうでもいい話なんですけど」
朱理は言葉を失い、窓に顔を押し付けるようにして、その「よれ」を見つめた。
江花が、消していたはずのレコーダーのスイッチを、音もなく入れ直した。
地上からは決して見えない、巨大な無駄遣い。
千年の時を超えて僕らに突きつけられているのは、高潔な祈りか、あるいは――。
セスナは、沈黙という重たい荷物を乗せたまま、西陽に照らされた砂漠を旋回し続けた。




