回帰
目が覚めると、蓮はアスファルトの上に倒れていた。
冷たい地面の感触。車の走る音。街灯の明かり。
「戻って……きた?」
蓮はゆっくりと起き上がった。見覚えのある景色。いつものコンビニからの帰り道。あの夜、転移させられた場所だ。
周囲を見渡す。深夜の住宅街。誰もいない。時計を見ると、午前二時十五分。転移した時刻から、わずか十五分しか経っていない。
「夢……だったのか?」
だが、体中の傷が痛む。服は泥だらけで、顔には引っかき傷がある。手には、まだあの水晶の欠片が握られていた。
夢ではない。本当に、あの館に行っていたのだ。
蓮はふらつきながら立ち上がり、自宅へと歩き始めた。足が重く、全身が疲労困憊していた。だが、生きて帰ってこれた。それだけで十分だった。
アパートに着き、部屋に入る。いつもの部屋。いつもの匂い。全てが、愛おしく感じられた。
シャワーを浴び、傷の手当てをする。鏡に映る自分の顔は、やつれていた。たった一日——いや、異世界では二日近く経っていたのかもしれない——の出来事で、これほど変わるものか。
ベッドに倒れ込む。
もう、大丈夫だ。元の世界に戻ってきた。あの狂った館とは、もう関係ない——。
そう思いながら、蓮は眠りに落ちた。
───
翌日、蓮は大学に行った。
普段通りの一日。講義を受け、友人と話し、昼食を食べる。全てが平和で、穏やかで、当たり前の日常だった。
だが、時折あの館のことがフラッシュバックする。腐った料理。狂気の家族。地下の囚人たち。そして、メイド少女の最後の微笑み。
彼女は、どうなっただろうか。
蓮を逃がした罪で、罰せられたのだろうか。
罪悪感が、蓮の胸を締め付ける。
「桐生、大丈夫? 顔色悪いぞ」
友人の一人、田村が心配そうに声をかけてきた。
「ああ、ちょっと寝不足で」
「そういえば、顔に傷あるけど、どうしたの?」
「転んで。大したことないよ」
嘘をつく自分が嫌だった。だが、本当のことを話しても、誰も信じないだろう。異世界転移なんて。
講義が終わり、帰宅する。
部屋に入ると、テーブルの上に何かが置かれていた。
白い封筒。
蓮は眉をひそめる。誰かが入ってきた形跡はない。ドアの鍵も閉まっていた。では、これは?
恐る恐る封筒を手に取る。表には何も書かれていない。中を開けると、一枚の便箋が入っていた。
古風な、羊皮紙のような質感。そして、そこには流麗な筆記体で文字が綴られていた。
『親愛なる客人殿へ
よくぞご無事で。あなたの脱出劇、見事でした。心よりお祝い申し上げます。
ですが、一つお伝えしなければならないことがあります。
あなたは、まだ自由ではありません。
館の核の破片をお持ちですね? それは、我々との繋がりの証です。破片を持つ限り、あなたと館は繋がり続けます。
そして、いずれまた、お迎えに上がります。
次は逃げられませんよ。
ヴェルナー家一同より』
蓮の手が震えた。
水晶の欠片を見る。ポケットの中に、まだ入っていた。
捨てるべきか? だが、この欠片がなければ門を開けられなかった。もしまた転移させられたら、これが必要になるかもしれない。
いや、待て。
「また転移させられる」?
蓮は便箋をもう一度読んだ。
『いずれまた、お迎えに上がります』
つまり、また異世界に連れ戻されるということか?
恐怖が蓮を襲う。
その時、部屋の電気が消えた。
───
暗闇の中、何かの気配がした。
蓮は咄嗟に壁際に背中をつけた。心臓が激しく鳴っている。
「誰だ!」
返事はない。だが、確かに部屋の中に誰かがいる。
微かに、呼吸音が聞こえた。
蓮はスマホを取り出し、ライトを点ける。
部屋の中央に、人影が立っていた。
メイド服を着た、あの少女だった。
「君……!」
少女は、無表情のまま立っている。だが、その体は半透明だった。まるで幽霊のように。
「幻覚……なのか?」
「いいえ」
少女が口を開いた。声は、現実のものだった。
「私は、館の力を使って、ここに投影されています。時間は僅かですが」
「なぜ」
「警告しに来ました」
少女は、蓮に一歩近づく。
「あなたが持っている水晶の欠片。それは、ただの鍵ではありません」
「どういう意味だ?」
「館の核の一部です。つまり、あなたはその欠片を通じて、館と繋がっている。そして、館はその繋がりを利用して、いつでもあなたを引き戻すことができる」
蓮は息を呑んだ。
「じゃあ、捨てれば——」
「捨てても無駄です。欠片は、あなたに同調しています。どこに捨てても、必ずあなたの元に戻ってきます」
絶望的な事実だった。
「どうすれば……」
「一つだけ、方法があります」
少女は、蓮の目をまっすぐ見た。
「館を破壊することです」
「破壊?」
「核を破壊すれば、館の力は失われます。そうすれば、欠片の呪縛も解ける」
「でも、どうやって? また異世界に行って、館に戻れってことか?」
「その通りです」
少女の姿が、揺らぎ始めた。
「時間がありません。聞いてください。満月の夜、門は双方向に開きます。あなたがこちらに来られるように、あちらからもこちらに来られる」
「まさか……」
「ええ。次の満月は、一ヶ月後。その時、ヴェルナー家はあなたを取り戻しに来ます。この世界に」
蓮の血の気が引いた。
「そんな……この世界にまで?」
「彼らは、あなたを諦めません。98%の適合率は、百年に一度の価値がある。必ず、取り戻しに来ます」
少女の体が、さらに薄くなる。
「私にできるのは、ここまでです。どうか、生き延びてください。そして、可能なら——館を、終わらせてください」
「待ってくれ! 君の名前は!?」
「エリカ」
少女——エリカは、最後にそう言って消えた。
部屋に、再び蓮一人が残された。
───
一ヶ月。
次の満月まで、一ヶ月しかない。
蓮は、その日から情報収集を始めた。
図書館で異世界や転移に関する文献を調べる。オカルト系のサイトを漁る。だが、有用な情報はほとんど見つからなかった。
そんな中、一つだけ気になる記述を見つけた。
『異界との接続は、特定の条件下で可能になる。満月、新月、日食、月食など、天体の特殊な配置が鍵となる。また、強い精神力を持つ者は、自らの意思で門を開くことができるという伝承もある』
自分の意思で門を開く?
もしそれが本当なら、ヴェルナー家が来る前に、こちらから異世界に行けるかもしれない。
だが、どうやって?
蓮は水晶の欠片を手に取った。あの時、この欠片が門を開いた。ということは、この欠片が鍵なのか?
試しに、欠片に意識を集中してみる。
「開け……門を開いてくれ」
だが、何も起こらない。欠片は、ただ手の中で光るだけだった。
やはり、満月の夜でなければ無理なのか。
その時、スマホが鳴った。
田村からの着信だった。
「もしもし」
『桐生、今どこ? ちょっと、相談したいことがあるんだけど』
「家だけど」
『そっか。実は、最近おかしなことが続いててさ……』
田村の声が、わずかに震えていた。
『誰かに見られてる気がするんだ。夜、家の周りに人影が見えたり、変な手紙が届いたり』
蓮の背筋が凍った。
「手紙? どんな?」
『よくわからない。古い紙に、読めない文字が書いてあって。でも、なんか不気味でさ』
ヴェルナー家だ。
彼らは、蓮の周辺を調べている。そして、蓮に繋がる人間を探している。
「田村、今から俺の家に来れるか?」
『え? まあ、いいけど』
「いいから、来てくれ。説明する」
電話を切り、蓮は頭を抱えた。
自分だけの問題ではなくなってきている。周囲の人間も、危険に晒されている。
このままでは——。
玄関のドアが、ノックされた。
「早いな、田村……」
蓮はドアを開けた。
そこに立っていたのは、田村ではなかった。
黒いスーツを着た、見知らぬ男だった。痩せ細った体に、青白い肌。そして、見覚えのある顔——。
ヴェルナー家の青年だった。
「やあ、客人殿」
青年は、にこやかに笑った。
「随分とお元気そうで。会いたかったですよ」
蓮は咄嗟にドアを閉めようとしたが、青年の手がドアを押さえた。信じられない力だった。
「まあまあ、そう邪険にしないでください。話し合いに来ただけですよ」
「話し合い? 冗談じゃない!」
「本当です。実は、提案があるんです」
青年は、ドアの隙間から蓮を見つめた。
「あなたを、儀式の対象から外します」
「……は?」
「条件付きですが。あなたが我々に協力してくれるなら、命は保証します」
「協力?」
「ええ。この世界で、新しい客人を集めるのを手伝ってほしいんです」
蓮は言葉を失った。
「つまり、他の人間を異世界に送れってことか?」
「そうです。あなたには適性がある。この世界で客人候補を見つけ、我々に引き渡す。それだけでいい。そうすれば、あなたは自由です」
青年の目には、狂気が宿っていた。
「断ったら?」
「一ヶ月後の満月の夜、我々はこの世界に来ます。そして、あなただけでなく、あなたの周りの人間全てを連れて行きます」
田村の顔が浮かぶ。家族の顔が浮かぶ。
「脅しか」
「いいえ、約束です。我々は、必要な数の客人を確保します。あなたが協力すれば、犠牲者は減ります。協力しなければ——」
青年は肩をすくめた。
「あなたの知り合い全員が、対象になるでしょうね」
───
蓮は、ドアを閉めた。
いや、閉めようとした。だが青年が隙間に足を入れ、阻止した。
「考える時間を差し上げます。一週間。それまでに、答えを」
そう言って、青年は去っていった。
蓮は床に座り込んだ。
最悪の選択を迫られている。
他人を犠牲にして自分が助かるか。拒否して、周りの人間全てを危険に晒すか。
どちらも、受け入れられない。
その時、再び部屋が暗くなった。
今度は、エリカではなかった。
現れたのは、ぼろぼろの服を着た中年男性——地下で会った、あの囚人だった。
「あんた……」
「少しだけ、時間をもらった」
男の姿も、半透明だった。
「あの青年の提案、受けるな」
「でも、断ったら——」
「どちらを選んでも、結果は同じだ。ヴェルナー家は約束を守らない。お前が協力しても、いずれは殺される」
「じゃあ、どうすれば」
「戦うんだ」
男は、蓮の目を見た。
「あいつらを、この世界に来させるな。もし来たら、この世界も終わりだ」
「終わり?」
「ヴェルナー家の力は、異世界では制限されている。だが、この世界に来れば、制限がない。好きなだけ人を集められる。そうなったら、止められない」
蓮は拳を握りしめた。
「だから、お前が行くんだ。満月の夜より前に」
「でも、どうやって? 欠片だけじゃ門は開かない」
「方法はある」
男は、懐から古びた本を取り出した。いや、本の幻影だった。
「これは、館の書庫にある禁書だ。門を開く儀式が書かれている。この儀式を使えば、満月でなくても門を開ける」
「それを、どうやって——」
「お前の夢に、投影する。今夜、眠れ。そうすれば、内容を記憶できる」
男の姿が薄れ始める。
「俺たちの分まで、あいつらを倒してくれ」
そう言って、男は消えた。
蓮は、震える手で水晶の欠片を握った。
行くしかない。
もう一度、あの館へ。
そして今度こそ、核を破壊する。
この悪夢を、終わらせるために。
その夜、蓮は眠りについた。
夢の中で、無数の文字が浮かび上がった。儀式の手順、必要な材料、詠唱する言葉。
それらを、蓮は必死に記憶した。
目覚めた時、全てを覚えていた。
準備を始めよう。
一週間後——青年に答えを出す期限の前に、蓮は自ら異世界へと向かう。
ヴェルナー館を破壊するために。
だが、蓮はまだ知らなかった。
館の核を破壊することが、どれほど困難か。
そして、そこに待ち受ける、真実を。




