進め
準備には三日かかった。
儀式に必要な材料——銀の粉末、特殊なハーブ、動物の血。オカルトショップを巡り、怪しまれながらも何とか揃えた。
そして四日目の夜、蓮は儀式を決行することにした。
部屋の床に、銀の粉末で複雑な魔法陣を描く。夢で見た通りの図形。六芒星の中に、無数の文字と記号。
魔法陣の六つの頂点に、ハーブを置く。そして中央に、動物の血を注いだ杯を置いた。
最後に、水晶の欠片を杯の中に落とす。
血が、不自然に輝き始めた。
蓮は魔法陣の前に座り、目を閉じた。そして、夢で教わった詠唱を始める。
「彼方なる門よ、開け放て。二つの世界を繋ぐ道を、今ここに——」
古い言語の言葉が、蓮の口から流れ出る。意味はわからない。だが、確かにこの言葉には力がある。
部屋の空気が震え始めた。
杯の中の血が沸騰し、水晶の欠片が激しく光る。
「境界を越え、虚空を渡り、我は往く——」
魔法陣が輝きを増す。床が、壁が、天井が、全てが光に包まれていく。
「今、門を開け!」
最後の言葉を叫んだ瞬間、蓮の視界が真っ白に染まった。
体が浮き上がり、重力を失う。
そして、世界が反転した。
────
気がつくと、蓮は森の中に立っていた。
あの森——ヴェルナー館の周囲の森だ。だが、前回辿り着いた門の前ではなかった。
周囲を見渡す。霧が立ち込め、視界は悪い。だが、遠くに館の屋根が見える。
儀式は成功した。異世界に戻ってきたのだ。
蓮は腰のベルトに差していたナイフを確認する。ホームセンターで買った、刃渡り二十センチほどのサバイバルナイフだ。護身用——いや、戦闘用と言った方が正しいかもしれない。
リュックの中には、懐中電灯、ロープ、予備の水晶の欠片(本物を削って作った)、そして爆弾の材料が入っていた。
爆弾——館の核を破壊するために、化学の知識を総動員して作った簡易爆弾だ。合法的に入手できる材料で作ったため威力は限定的だが、密閉空間なら十分な破壊力を持つはずだ。
「行くぞ」
蓮は館に向かって歩き始めた。
だが、数歩進んだところで、異変に気づいた。
森が、静かすぎる。
前回は、少なくとも風の音や、遠くの動物の鳴き声が聞こえていた。だが今は、何も聞こえない。完全な静寂。
まるで、世界が息を止めているかのような。
嫌な予感がした。
蓮は立ち止まり、周囲を警戒する。
その時、霧の中から人影が現れた。
「お帰りなさいませ」
メイド服を着た少女——エリカが、無表情で立っていた。
「エリカ……」
「予想通りでした。あなたは、必ず戻ってくると」
エリカの声には、感情がなかった。前回よりも、さらに機械的になっている。
「君、大丈夫なのか? 俺を逃がしたこと、バレて——」
「処罰されました」
エリカは淡々と答えた。
「三日間、地下の拷問部屋で。でも、殺されはしませんでした。まだ、使い道があるからと」
蓮は拳を握りしめた。
「すまない……」
「謝罪は不要です。私は、自分の意思で行動しました」
エリカは一歩近づく。
「ですが、警告します。館は、あなたを待っていました」
「待っていた?」
「ええ。あなたが戻ってくることを、当主様は予期していました。罠です、全てが」
蓮の背筋を悪寒が走る。
「青年を送ったのも、儀式の情報を流したのも、全てあなたを誘き寄せるため」
「地下の囚人……あの男も?」
「はい。彼は当主様に操られていました。あなたに儀式を教えるように」
蓮は愕然とした。
全て、罠だったのか。
「なぜ、そんなことを? 俺を捕まえたいなら、一ヶ月後に元の世界に来ればいいだけだろ?」
「それでは、リスクが高すぎます」
エリカは、館の方を見た。
「元の世界は、魔力が希薄です。ヴェルナー家の力も制限される。ですが、この世界でなら、当主様の力は絶対です」
「じゃあ、俺は——」
「逃げられません。既に、館の結界があなたを捉えています」
エリカがそう言った瞬間、蓮の体が動かなくなった。
見えない力が、全身を縛り付けている。
「なん、だと……」
「申し訳ございません」
エリカが、初めて悲しげな表情を浮かべた。
「私は、あなたを助けたかった。でも、私にはもう自由意思がありません。拷問の後、当主様に精神を支配されました」
「エリカ……」
「さあ、参りましょう。当主様が、お待ちです」
───
体が勝手に動き出す。
蓮は必死に抵抗したが、無駄だった。足が、意思とは無関係に館へ向かって歩いていく。
エリカが先導し、蓮は操り人形のように後をついていく。
やがて、館の正面玄関に辿り着いた。
重厚な扉が、音もなく開く。
中は、前回と同じように薄暗く、腐臭が漂っていた。だが、今回は入り口に人が並んでいた。
ヴェルナー家の四人全員——当主、中年女性、青年、娘——が、整列して蓮を待っていた。
「ようこそ、客人殿」
当主が両手を広げ、歓迎の仕草をする。
「よくぞお戻りくださいました。心からお待ちしておりました」
「……罠だったんだな、全部」
「罠などとは人聞きが悪い。これは、招待ですよ」
当主は優雅に笑った。
「あなたは聡明な方だ。きっと、戻ってくると確信していました。館を破壊しようとして」
「なら、なぜわざわざそんな手の込んだことを?」
「簡単です。あなたに『選択』をさせたかったのです」
当主は、蓮の目を見つめた。
「自らの意思で、この館に来ることを選ばせる。それが重要なのです」
「どういう意味だ?」
「儀式には、客人の同意が必要なのです。強制的に連れてこられた者では、適合率が下がってしまう」
青年が補足する。
「あなたは自分の意思で儀式を行い、自分の足でここに来た。それこそが、完璧な儀式の条件なのです」
蓮は歯噛みした。
完全に、してやられた。
「さあ、時間を無駄にはできません。すぐに儀式の準備を」
当主が手を叩くと、使用人たちが現れた。彼らは蓮を取り囲み、階段を下りていく。
地下へ。
前回は途中までしか見なかった、地下の最深部へ。
───
螺旋階段を延々と下り続ける。
どれほど降りただろうか。やがて、巨大な扉の前に辿り着いた。
前回見た、鉄の扉——その向こうに核があると、エリカが言っていた扉だ。
当主が扉に手をかざすと、複雑な紋様が光り、扉がゆっくりと開いた。
中は、広大な空間だった。
天井は見えないほど高く、壁は全て黒い石で作られている。そして部屋の中央に、巨大な水晶が浮かんでいた。
直径三メートルはある、完璧な球体の水晶。
その中に、無数の光が蠢いていた。いや、光ではない——魂だ。
人の形をした、半透明の影が、水晶の中で苦しみ悶えている。その数は、数百——いや、千を超えるかもしれない。
「これが……核」
「ええ」
当主が誇らしげに答える。
「過去二百年、我が一族が集めた客人たちの魂です。彼らの力が、この館を、そして我が一族を支えています」
水晶の中から、微かな叫び声が聞こえる。助けを求める声、呪いの言葉、絶望の慟哭。
蓮は吐き気を覚えた。
「よくも……こんなことを」
「生き残るためです」
当主の表情が、真剣なものに変わる。
「この世界は、弱者に容赦がない。力なき者は、踏みにじられ、消されていく。私は、一族を守るために、これを作った」
「でも、それは——」
「正義か悪か、ですか?」
当主は首を振った。
「そんなものは、勝者が決めることです。我々が生き残り、繁栄すれば、それが正義になる」
「狂ってる」
「狂気と正気の境界など、曖昧なものですよ、客人殿」
当主は、使用人たちに指示を出す。
「彼を、祭壇へ」
使用人たちが蓮を引きずり、水晶の前にある石の台に寝かせた。体は相変わらず動かない。
周囲に、魔法陣が描かれていく。蓮が部屋で描いたものとは比べ物にならない、複雑で巨大な陣だ。
ヴェルナー家の四人が、陣の四隅に立つ。
「それでは、儀式を始めます」
当主が、古い言語で詠唱を始めた。
他の三人も、同じように詠唱する。四つの声が重なり合い、不協和音を奏でる。
魔法陣が輝き始めた。
蓮の体から、何かが引き出されていく感覚がある。魂が、体から剥がされていくような——。
痛みはなかった。だが、恐怖があった。
このままでは、あの水晶の中に閉じ込められる。永遠に、苦しみ続ける。
「やめろ……」
蓮は必死に抵抗しようとするが、体は微動だにしない。
詠唱の声が、クライマックスに達する。
水晶が激しく輝き、中の魂たちが蠢く。
そして——。
────
爆発が起きた。
いや、爆発ではない。何かが、弾けたのだ。
蓮のリュックが、突然破裂した。中に入れていた爆弾の材料が、魔法陣のエネルギーに反応して暴発したのだ。
炎と煙が部屋を満たす。
詠唱が中断され、魔法陣の光が消える。
蓮の体を縛っていた力も、同時に消えた。
「今だ!」
蓮は咄嗟に転がり、祭壇から離れた。煙の中、手探りでナイフを抜く。
「客人が!」
使用人の一人が叫ぶ。だが煙で視界が悪く、蓮の姿を捉えられない。
蓮は煙を利用して、水晶に近づいた。
これを破壊すれば——。
だが、水晶に触れた瞬間、強烈な衝撃が走った。
電撃のような痛みが全身を駆け巡り、蓮は吹き飛ばされた。
「無駄です」
煙の中から、当主の声が響く。
「核は、簡単には壊せません。強力な魔法的保護がかけられています」
煙が晴れ始める。
蓮は壁際に追い詰められていた。
ヴェルナー家の四人と、使用人たちが、蓮を囲んでいる。
「残念ですね。せっかくの儀式が、中断してしまいました」
当主が溜息をつく。
「ですが、問題ありません。もう一度やり直せばいい」
「させるか!」
蓮はナイフを構える。だが、多勢に無勢だ。
その時、部屋の入り口で物音がした。
全員が振り返る。
そこに立っていたのは、エリカだった。
だが、その手には——松明が握られていた。いや、松明ではない。火のついた布だ。
「エリカ、何をしている」
当主が咎める声を出す。
エリカは答えず、布を床に投げた。
床には、油が撒かれていた。いつの間に——。
火が油に引火し、瞬く間に広がる。
「貴様!」
青年が叫ぶ。
エリカは、蓮の方を向いた。その目には、わずかな光が宿っていた。
「走って」
「え?」
「核は、火では壊せません。でも、この部屋を焼けば、当主様たちは儀式ができなくなる。その隙に、逃げて」
「君は!?」
「私は、もういい」
エリカは微笑んだ。
「ずっと、死にたかった。でも、許されなかった。今、やっと——」
炎がエリカの服に燃え移る。
だが彼女は、そのまま動かなかった。
「エリカ!!」
蓮が叫ぶ。
エリカは、最後にこう言った。
「生きて。そして、いつか——この館を、終わらせて」
炎が、エリカを呑み込んだ。
部屋中が火に包まれる。
使用人たちが逃げ惑い、ヴェルナー家の四人は水晶を守ろうと必死になっている。
蓮は歯を食いしばり、走った。
入り口に向かって、全力で。
背後から当主の怒号が聞こえたが、振り返らなかった。
螺旋階段を駆け上がる。
肺が破裂しそうになりながら、ただ走り続けた。
やがて、地上に出た。
館の外——霧の森。
蓮は森の中へと逃げ込んだ。
背後で、館が燃えているのが見えた。
だが、核は無事だろう。あれを破壊する方法は、まだ見つかっていない。
「エリカ……」
蓮は立ち止まり、燃える館を見つめた。
彼女は、自分を犠牲にして蓮を逃がしてくれた。
「無駄にはしない……絶対に」
蓮は拳を握りしめ、森の奥へと走った。
まだ、戦いは終わっていない。




