Izonit(後編)
「お母さん!」
燕が物凄い勢いで病室に入ってくる。マルガレーテの意識は、依然ない。
「お母さん!嗚呼!やっぱり側にいれば良かった!お母さん!目を開けて、お母さん!」
医者達に酸素マスクやら何やらを着けられた状態でも、マルガレーテはピクリとも動かない。
「メフィスト。彼女は‥マルガレーテは。もういけないのか」
タケルが深刻な顔で質問してくる。
「ええ。もういけないでしょうね。長くない。うっすらですが、死神の気配を感じます」
「そうか‥」
何かを思いつめた表情をするタケルだが、お前がそんな顔してもどうにもならんだろとあたしは思っている。
「なあメフィスト。もう一度だけ。最後に彼女の意識を目覚めさせてやることは出来ないか?ほんの数分でいいんだ。一分でもいい。燕さんと話させてくれないか」
「なるほど。いつかこの時のことを語って、スワローちゃんに恩を着せようって腹ですね」
「まあ。そんなとこだ」
「ようがす。最後にちょろっとだけ。ね」
あたしは小声で呪文を詠唱する。そして、マルガレーテが人生最後の瞬間に目覚める。
「‥燕ちゃん」
「お母さん!!」
燕は両目に一杯の涙を浮かべて酷い顔をしている。端正な顔が台無しだ。
「お母さん、お母さん、お母さん」
燕は、言いたいことがあり過ぎて逆に言葉になっていない。感情が洪水を起こしている。
「燕ちゃん。落ち着いて。お母さんの言うこと、よく聞いて」
「いやだよ!お母さん、いやだよ!そんな言い方しないで!お母さん、お母さん」
マルガレーテは燕の袖を掴む。彼女の顔は必死そのものだ。
「時間がないの。お願い。聞いて燕ちゃん」
その言葉と表情に気圧され、燕は黙って頷く。
「ありがとう。良い子ね燕ちゃん」
マルガレーテは一度大きく深呼吸をした。
「お母さん、あなたに大切なことを二つ言うわね。ひとつは、どんなことがあっても、誠実な人間であり続けてね」
「うん‥」
燕の目に再び涙が溜まる。
「もうひとつ。いつもお母さん言ってることだけどね。ありがとうとごめんなさいを、ちゃんと言える人間でいてね」
この言葉に、ついに涙が溢れ出す。
「‥うん。分かった。分かった」
燕がマルガレーテの手を強く握り返す。
「良かった」
マルガレーテは微笑む。とても美しく。そして、直後にマルガレーテの目から一筋の涙が溢れ落ちる。
「燕ちゃん。ありがとう。私の所に生まれてきてくれて。あなたのおかげで本当に楽しかった。ありがとう。ありがとう」
「お母さん!」
いよいよ時がやってきた。死神がマルガレーテの足元に現れ、頭上では天使のラッパが響き渡る。
「燕ちゃん。‥ごめんね。もっと一緒にいてあげたかった。ごめんね。独りにしてしまって。ごめんね。ごめんね」
「お母さん!お母さん!」
力なく、マルガレーテの腕が地面に垂れ下がる。
その言葉が、彼女の最後の言葉だった。
「おかあさん!おかあさん!おかあさん‥」
燕はいつまでも泣き崩れ、お母さんという言葉を呟き続けた。
タケルは天を仰ぎ、黙って立ち尽くしていた。その時の顔は今まであたしが見たことのない表情だった。
何故だかその場の空気が息苦しくてあたしは病室の外にでた。
これだから人間は詰まらない。余りにも脆すぎるんだ。詰まらない。
あたしはポケットをまさぐって一枚のビスケットを取り出す。さっきマルガレーテにもらった物だ。
あたしはそれを一口かじってみる。
甘くて、美味しかった。
続く




