「第3話 クルテ・ロシュ(三)」
ベルデ歴1218年3月初旬
ザハリア伯爵令嬢ヘルミナの朝は早い。
習慣から夜明け前には自然と目が覚める。彼女が3階にある子供部屋のベッドで身を起こすと、それとほぼ同時に扉をノックする音が室内に響いた。
「お嬢様……」
「クリナ? ええ……入っていいわ」
「失礼いたします」
扉を開け、女中が入ってくる。女中は廊下で待機しており、室内の気配を探って、ヘルミナが起きるのに合わせて声をかけてくるのだ。
ヘルミナはまだ7歳なので侍女がつく年齢ではない。彼女の世話は日替わりで女中たちが担っていた。
この日ヘルミナの世話を受け持つのはクリナだ。彼女は22歳。昨年、下女から昇格したばかりの若い女中である。茶色の髪を頭の後ろできつく結い上げ、黒が基調の仕事着を身にまとっている。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、クリナ」
クリナはカーテンを開け、窓から外の空気を少しだけ室内に入れる。外はまだ真っ暗だ。3月の冷たい空気が、まだ眠いヘルミナの頭を引き締めた。
クリナは慣れた手つきで、ヘルミナの着替えを手伝う。夜着から薄いベージュ色の簡素なワンピースに、そして体を冷やさないよう厚手のガウンを羽織らせる。それが済むとヘルミナは鏡台の前の椅子に座る。
「髪がぼさぼさだわ。鳥の巣みたいね」
ヘルミナは鏡に映った自分の姿を見てぼやいた。
「すぐに整えます」
クリナは小さく笑うと、櫛を用いて綺麗に髪を整えていった。そうして身だしなみが整えば、ヘルミナは次に、部屋に設けられた小さな祭壇の前に跪く。
祭壇に向かって手を合わせ、ロタール教の神々に朝の短い祈りを捧げる。
「では……クリナ、掃除はよろしくね?」
「はい、お嬢様。良い1日を」
祈りが済んだヘルミナはクリナに見送られ、朝食をとるために1階のサロンへと向かった。
ザハリア伯爵家では朝食はサロンで、昼食は中庭のテラス、夕食は2階の大食堂でとるのが習慣だ。
ただし昼食と夕食は多くの場合、来客者を迎えるため、幼いヘルミナは同席できず、朝食以外は1人で食べるのがほとんどだった。
「おはようございます」
午前6時。サロンに入ると、すでにヘルミナ以外の家族がそろっていた。
「うむ」
父アレクセイはソファーに深く腰を沈め、コーヒーを飲みながら領地管理人の報告書に目を通していた。
「おはよう、ヘルミナ」
母スィロムはソファーから立ち上がってヘルミナを出迎え、そっと頭を撫で、頬にキスをする。
「おはようございます、母様」
「昨夜はよく眠れたかしら? 風がうるさかったでしょう?」
「大丈夫です、よく眠れました」
ヘルミナは笑顔で答え、兄のほうに目を向けた。
「ヘルミナ、おはよう」
兄デメトリウスは背筋を正してソファーに座っていた。人前で背もたれに背中をつけることを禁じられているからだ。それはヘルミナも同じだった。
「兄様、何を読んでいるの?」
ヘルミナは兄が手に持ったものに、興味深そうな視線を送る。兄は大きな紙を手にしていた。
「これは新聞だよ。公都ビレッティから父上が取り寄せたんだ」
「しんぶん? ……何ですか、それは?」
「世の中の動きを知らせてくれるものだ。ザハリア郡ではまだ普及していないけどね。ヘルミナには早いよ」
デメトリウスは優しく微笑みながら言った。すると、アレクセイが報告書をテーブルに置き、息子に声をかけた。
「早いことはなかろう。デメトリウス、ヘルミナにも新聞を見せてやりなさい」
「はい、父上」
父の言葉に少し驚きながらもデメトリウスはソファーから立ち、新聞をヘルミナの小さな手に渡した。
「ありがとう、兄様。しんぶん…………」
ヘルミナはざらざらとした質感の大きな紙を両手に持ち、そこに印刷された文字を目で追いかけていった。
「ヘルミナ。そこに何が書かれているかわかるか? 声に出して、読んでみなさい」
アレクセイが言った。
「はい、ええと……フレヴォー王国と、ボロトスカヤ帝国との間で、新たな軍事条約が締結……パザエスト伯爵に、第1子が誕生……大雨でワラシボ川の、堤防が崩れ、農地に被害…………」
ヘルミナはたどたどしい口調で記事を読み上げていった。文字は読めるが、まだ習っていない言い回しや単語もあり、内容までは把握しきれない。
「ヘルミナは賢いな」
デメトリウスは微笑ましい表情で妹を見つめながらコーヒーを口にする。アレクセイはただじっと、新聞を読み上げる娘の姿を見つめていた。
「すごいわ、ヘルミナ。でも、あなた、もう朝食の時間よ」
スィロムがアレクセイに言い、彼女はヘルミナから受け取った新聞を棚の上に置いた。
やがて家令ソマレ・ストゥルダの統率のもとで、サロンに朝食が運ばれてくる。
朝食は豆スープとパンにチーズ、干し肉だ。ヘルミナとデメトリウスはコーヒーを飲み、アレクセイとスィロムは少量のワインを味わう。
これはヘルミナにとって、家族4人がそろって穏やかな時間を過ごす特別な時間だった。
(朝食が済んだら、すぐに家庭教師の授業ね……もっと父様、母様……兄様と一緒にいたいのに……でも、わがままを言ってはいけないわね……)
ヘルミナはそんなことを考えながら、ジャムをたっぷり塗ったパンを口に頬張った。
*
東のガスピル山脈から吹きつける強い風は、冬の冷たさを残したままだ。
雪解けで黒い泥濘と化した大地には、小麦の列が整然と緑の線を描くようになっていた。近隣の小作人が家族を連れて畑に繰り出し、小麦の株を丈夫にするための麦踏みを行っている。
ヘルミナは3階の外壁にせり出したテラスに立っていた。手すりに手をかけ、小さな体で背伸びをし、小麦畑とそこで働いている小作人たちの姿を眺める。
昼食が先ほど済んだばかりだ。今は午後の習い事がはじまるまでの、貴重な自由時間だった。
細められた緑の瞳は母スィロム似、父から受け継いだ豊かな赤い髪が風に揺れている。分厚いガウンを着ているものの、3月の東風はかなり肌寒い。
「あの歌……」
ヘルミナは灰色の空の下、小麦畑から聞こえてくる歌声に耳を傾けた。
「お嬢様。そろそろお戻りになりませんと、お体が冷えますよ」
後ろで控える女中のクリナが声をかけた。
「ねえクリナ。あの歌は何という歌なの?」
ヘルミナは小麦畑に目を向けたまま尋ねた。麦踏みをする小作人たちは繰り返し同じ歌を歌っている。
「あれは……“領主様の庭”という歌ですね」
「去年も歌っていたわよね。なんとなく覚えているわ」
「そうですね。毎年この季節になると……」
「……ひどい歌詞だわ。“寒空の下、夜明け前から畑に駆り出され、見張り番の男が子供にまで鞭を振るう。この麦は俺たちの血と涙を吸って育っている”……ですって」
ヘルミナは歌を口ずさみながら、幼い少女らしからぬ表情で眉をひそめた。
「大昔の歌ですから。今とは時代が違いますよ」
「大昔というのは、まだ農奴制が敷かれていた頃の話かしら?」
「そう……でしょうね? 申し訳ございません、いつ作られた歌なのかまでは、私は存じておりません」
クリナは自信なさそうに首を振った。彼女も子供の頃から、毎年この歌を聞いていたが、歌の意味や起源について真剣に考えたことなど一度もなかった。
「クリナ、農奴制がいつ廃止されたのか貴女は知っているかしら?」
くるりと振り返ってヘルミナが尋ねた。唐突な質問にクリナは面食らってしまう。
「えっ? さ、さあ……それは、大昔ですよね? 30年……50年くらい前でしょうか?」
「120年前よ。公王カルベ3世が西のフレヴォー王国にならって農地改革を行ったの。それで農民は土地から解放された自由農民となったわ。つまり農民が領主の所有物ではなくなったの」
ヘルミナは家庭教師から学んだことを思い出し、自分の知識を確認するように言った。7歳の少女が舌足らずな声で理路整然と語る姿に、クリナは改めて驚いた反応をする。
「よ、よくご存知ですね……」
「家庭教師に教わったからよ。教わらなければ、私も知らない話だわ。けれど、ひどい時代の歌が、今でも農民の間では歌われているのよね。何か気になるわ」
「お嬢様……こう言ってはなんですが、農民たちは歌の意味など、いちいち考えて歌っていませんよ?」
「そうなの? なぜ?」
ヘルミナは意外そうに言った。
「なぜ……ふふ、なぜでしょうね? 労働歌とはそんなものなのでは? 私たち使用人の間でもいろいろな歌がありますけど、誰も歌詞の意味なんて深く考えませんから」
クリナは肩をすくめながら笑った。クリナからすると、歌の背景を深く知ろうとする、ヘルミナの姿勢のほうがよっぽど奇異に感じられたのだ。
「ふぅん……そういうものかしら」
ヘルミナはクリナの話にあまり納得できない様子だ。彼女は再び小麦畑に目を向けると、小作人たちの歌声に合わせて小さく唇を動かした。
*
遠くの女子修道院から午後5時を告げる鐘の音が響く。それを合図に小作人たちは作業を切り上げ、彼らの村へと戻っていった。
クルテ・ロシュでは下男たちが、夜に向けて明かりの準備に追われていた。長大な廊下に等間隔で設けられた壁掛け燭台に、下男たちは手分けをして蝋燭の火を移していく。
1階の廊下で、下男のランスが前から歩いてくるデメトリウスと顔を合わせた。ランスは軽くお辞儀をする。
「デメトリウス様」
「ランス、ご苦労」
デメトリウスはランスに一声かけた。背筋を伸ばして廊下を進み、階段をのぼると、2階にある父アレクセイの書斎へと向かった。午後の授業が終わった後、書斎に来るようにとの言伝があったのだ。
扉をノックし、声をかけて入室する。父は机に向き合って、紙にペンを走らせていた。この時間、父は決まって書斎にこもり、各方面に出す手紙を書いていた。
「父上。お呼びと聞きましたが」
「座れ」
アレクセイは息子に、正面のソファーへ座るよう命じた。デメトリウスは革張りのソファーに姿勢正しく腰を据えた。背もたれに背中はつけない。
やがてアレクセイはペンを止め、息子の顔を見ながら机の上で両手を組んだ。
「デメトリウス、お前に縁談の話がきている。相手はヴァーシャール王国のネーメト城塞伯ゾルターン・ナジの娘だ。ゾルターンのことはお前もよく知っているな?」
「もちろんです」
ゾルターン・ナジは東の隣国ヴァーシャール王国の貴族だ。アレクセイとは親交が深く、過去、クルテ・ロシュにも何度か訪ねてきている。
「何番目の娘でしょうか?」
デメトリウスは表情を変えず、父親に尋ね返した。
「次女のマルギットだ。覚えているか?」
「はい。マルギット嬢とは子供の頃、この屋敷で会っています」
デメトリウスは家の方針をよくわかっていた。ザハリア伯爵家は代々、領地と国境を接するヴァーシャール王国との繋がりを重視してきた。
父のアレクセイ自身もヴァーシャール貴族、サポリャイ辺境伯アチャド・ラコツィの娘――つまりデメトリウスの母スィロムを妻に娶っていた。これはザハリア伯爵家における典型的な政略結婚であり、デメトリウスは自分の番が巡ってきたのだと理解した。
「ナジ家はヴァーシャール王室に連なる有力氏族だ。お前の母スィロムのラコツィ家とも深い関係がある」
アレクセイは椅子に背を預けると、体を反らし気味にして、やや尊大な調子で言葉を続けた。
「この縁談が意味することは当然、理解できるな? よもや異存はあるまいな?」
「はい、異存などあるはずがございません。謹んでお受けいたします」
デメトリウスは微かな笑みを浮かべてそう答えた。15歳の彼は婚約という人生の一大事を告げられても、ほとんど感情の揺れを見せなかった。
アレクセイはその返答を受け、しばし無言のままで息子の顔を見つめる。父の青い瞳と、息子の緑の瞳が交差した。
やがてアレクセイはまた机に視線を落とし、淡々と手紙の続きを書きはじめた。
「話は以上だ。下がってよいぞ」
「はい」
デメトリウスはソファーから立ち上がると、父に一礼をして、静かに部屋を出て行った。




