「第4話 領域(一)」
クルテ・ロシュには総勢50人ほどの使用人がいる。彼らは地下の使用人区画を拠点として、それぞれの仕事を行っていた。多くは屋敷の住み込みで、3階と屋上の中間にある、天井の低い屋根裏階で生活する。
屋敷内の移動には使用人専用の裏階段が用いられ、上階の人間とは動線が分けられている。1階から3階は貴族の生活空間であり、家令ソマレ・ストゥルダのみが2階に自らの執務室を有していた。
ベルデ歴1218年3月中旬
クルテ・ロシュの周囲に広がる小麦畑では、今日も小作人たちによる麦踏みが行われていた。
麦踏みは50年ほど前に、海を越えた大陸から伝わったとされる農法だが、今ではアルマシュ公国にすっかり定着している。早春の時期になると、ザハリアの小麦畑ではどこでも、農民が家族総出で株を丈夫にするための麦踏みをする景色が見られた。
やがて陽が大きく東に傾き、はるか遠くの女子修道院から鐘の音が響いてきた。
「父さん、5時だ!」
寒さに震えながら麦を踏んでいた少年が嬉しそうに言った。
「いいや、まだ4時だ。鐘を数えてみろ」
父親は足を動かしながらぶっきらぼうに返した。
「ええ? 3つ、4つ……」
少年は薄曇りの空に鳴り響く鐘の音を数える。期待していた5つ目の鐘は鳴らなかった。
「なんだ、4時か」
「あと1時間だ。ほら、足を動かせ」
父親は笑いながら、残念がる息子の頭にぽんと手を置いた。
クルテ・ロシュにも鐘の音は響いていた。待望の合図に、ヘルミナは思わず机から視線を上げる。
「……それではお嬢様。今日はここまでとしましょう」
壮年の女性家庭教師がパタンと教本を閉じた。
「はい、先生」
「明日も引き続き、カルベ5世の改革について学びます。次は爵位の整理についてです。予習を怠らないように」
「はい。ありがとうございました」
家庭教師は教材を脇に抱え、学習室から先に出て行った。彼女の姿が扉の向こう側に消えると、ヘルミナは「終わった!」と言い、椅子から跳ね起きるように立ち上がった。
「……いけない」
すぐにはしたない振る舞いを恥じる。やっと授業から解放された喜びで、ついはしゃいでしまったのだ。
「失礼いたします……」
家庭教師と入れ替わりに女中のルミドラが入ってきた。ルミドラは40前後、いつも疲れた顔をしており、辛気臭い雰囲気の漂う女性だ。ヘルミナは彼女のことが若干苦手だった。
「お嬢様、お勉強はお済みになったのですよね?」
「ええ、済んだわ」
「お掃除をしてもよろしいですか?」
どこか急かすような口調だ。
「……構わないわ」
早く出ろと言わんばかりの態度が気に障り、ヘルミナは目を細め、高飛車な声で言い返した。学習用具をまとめ、さっさと部屋を出て行く。ルミドラは気にした様子もなく、掃除用具を運びこむと、黙々と学習室の掃除をはじめたのだった。
*
家庭教師の授業が終わり、この先は自由時間だ。ただし午後6時には夕食が運ばれるため、それまでに自室へ戻らなければならない。
父アレクセイ、母スィロム、そして兄デメトリウスの夕食は来客者を交えて、午後8時頃から大食堂で行われる。その場に参加したことが、ヘルミナはまだ一度もなかった。
(私も母様たちと一緒に夕食が食べたいわ。いくつになったら許されるのかしら……10歳? もっと先……?)
ヘルミナはそんなことを考えながら、広大なクルテ・ロシュの廊下を歩いていく。普段ならこのまま部屋に戻って、今日の復習と明日の予習に取り掛かる。だが今日はもう少しだけ、のんびりと過ごしたい気分だった。
ヘルミナには以前から気になっていることがあった。それはクルテ・ロシュの使用人たちが、どうやって屋敷の中を移動しているのかだ。彼ら、彼女らはいつも神出鬼没で、どこから現れるかわからない。
ヘルミナが通ったことがない、いわば秘密の扉、秘密の通路を使ってどこにでも、突然、姿を現すのだ。そして自分の仕事を終えると、またいつの間にかどこかへ消えてしまっている。
ヘルミナはある下男に目を留め、後ろをつけることにした。彼は1階通路の奥まった場所にある、古びた木製の扉の向こうに消えていった。
ヘルミナは少し間を置いてからそこまで歩いていき、扉に備えられた丸い金具を引っ張った。キィっと軋んだ音を立て、扉がゆっくりと開く。
「わ……」
はじめて見た光景に声が出た。扉の奥には驚くほど急な角度の階段があった。階段は2階と地下へ伸びている。その空間に窓はなく、壁掛け燭台の灯はあるものの、かなり薄暗い。
階段は大人が2人すれ違うのがやっとという幅だ。いつもヘルミナが使っている屋敷の主階段とはまるで違う。同じ建物の中なのに、階段は異世界への入り口かのようだった。
*
「お相手はヴァーシャール貴族のお嬢様か」
下男のランスが熱いコーン茶をコップで飲みながら言った。デメトリウスの縁談は数日のうちに屋敷中の噂となっていた。
「奥様の祖国のお相手よね。マルギット様……どんなお方だったかしら? よく思い出せないわ」
女中のクリナが編み物をしながら言った。
地下食堂は広々としており、食事用の長テーブルがふたつ平行に並んでいる。午後の仕事が一段落し、使用人たちは夜に備え、束の間の休息に浸っていた。天井から吊るされたランプの光が彼らの疲れた顔を照らす。クリナのように趣味に時間を費やす者、雑談に興じる者、椅子で仮眠をとる者と過ごし方は様々だ。
まもなく上階の人間たちの夕食がはじまるため、地下はさながら戦場のような忙しなさとなるのだ。
「クリナは覚えていないのか? 黒髪の可愛らしいお方さ。どことなく奥様に雰囲気が似ていたな。デメトリウス様より2つか3つ年下さ」
「ランスは記憶力がいいわね。全然思い出せないわ」
クルテ・ロシュにはほぼ毎日、領内や遠方から客が訪れていた。そのまま泊まる客も多い。ザハリア伯爵家は当主と夫人、嫡男、娘の4人のみだが、使用人たちは主人一家のお世話をするだけではない。
それに数人か時には10人以上、世話をする人数が増えることさえ珍しくない。その人数をもてなすためにも、屋敷には50人からの使用人が必要なのだ。
「外国から来た人の顔まで、いちいち覚えていられないわ」
クリナが編み物をする手を止めて言った。
「覚えておかなきゃ損だぜ? 貴族の誰が太っ腹で誰がしみったれなのか、ちゃんと把握しておくのさ。相手を選んで顔を売れば、心付けの額だって変わってくるからな」
ランスは得意げな笑みを浮かべて言った。
「新入りのくせに、偉そうにしないで。私はもう7年もお屋敷に勤めているのよ?」
「だったら客の顔くらい覚えろって」
「大きなお世話よ」
クリナは鼻を鳴らし、編み物を再開する。
下男のランスは20歳。クルテ・ロシュに勤めてまだ2年足らずだが、要領が良いため上級使用人からの覚えもめでたかった。背が高く伊達男風の外見で、濃い青色をした詰襟の仕事服を着ている。人を小ばかにするような、皮肉な笑みが特徴的だ。
「それにしても、つらいわね。あのお美しいデメトリウス様も、ついにご結婚なさるのか……」
クリナはため息を漏らしながら天井を見上げた。
「おいクリナ、何か自分に機会があるとでも思ったのか?」
ランスはからかうように言った。
「思うわけないでしょ? でも、誰に憧れようと私の自由だわ。それに、残念に思っているのは私だけではないわよ」
「まっ、デメトリウス様は良いお方だからな」
「ですよね」
と、下女のポーラが話に割って入った。ポーラは15歳、屋敷に勤めて半年の新入りも新入りだ。髪は他の女性使用人と同じく、きっちり後ろで結い上げているが、顔には年相応のあどけなさが漂う。黒が基調で白のフリルがついたクリナの女中服と違い、飾り気がまったくない薄い茶色の仕事服を着ていた。
「デメトリウス様のあの端正なお顔立ち、凛としたお振る舞い、私たちに対してのそれとないお気遣い……女なら誰でも憧れますよ」
ポーラはうっとりと瞳を輝かせた。
「そいつは残念だったな。デメトリウス様はもう、ポーラたちの手が届かないところに行かれちまったよ」
「ランスはいちいちうるさいのよ。ご結婚自体はもっと先でしょう? デメトリウス様は来年、士官学校へご入学なさるわよね……だとしたら、ご結婚は卒業後になるんじゃない?」
クリナは指を唇に当てながら言った。軍人家系の貴族では、成人に達した男子は士官学校へ進むのが一般的だ。デメトリウスは今年の9月で16歳、成人を迎える。
「士官学校に入ったら……それはそれでやっぱり、このお屋敷から出て行ってしまわれるんですよね?」
ポーラがランスに尋ねた。
「全寮制だからな。士官学校のある公都ビレッティは伯爵領から遠いし、屋敷へはほとんどお戻りにならなくなるだろう」
「ランスも兵学校には行ってたんですよね? どんな所なんですか?」
ポーラが重ねて尋ねた。
「兵学校か? まあ……ひでえ所さ。士官学校は2年だが、兵学校はたったの4か月なんだ。それでも長かったが……とにかく、その4か月で何から何まで徹底的に仕込まれる」
平民男子のランスは16歳で徴兵された。兵学校に通った後は、国境警備隊として2年間の兵役を経験している。
「教官からは毎日、怒鳴られるし殴られるし……食いっぱぐれはないから、それだけは良かったけどな」
「でも、兵学校では読み書きを教えてくれるんでしょう? うらやましいわ。私は今でもまともに字が書けないもの」
クリナが情けなさそうに首を振りながら言った。
「私なんて書けないし読めませんよ? 男だけずるくないですか? 女にも読み書きを覚える機会が与えられるべきです!」
ポーラはそうまくしたてると、不満げに頬を膨らませた。
「俺に怒っても知るかよ。読み書きを覚えたきゃ、今からでも教会に通えばいいだろ? 教会ならタダで教えてくれるぜ?」
「忙しくて無理ですよ。朝から晩まで働いて、休みだってほとんどないのに」
「ポーラの言う通りよ。休みは日曜日の午後だけ。それも2週間に一度でしょ? 仕事以外のことをする時間なんてありっこないわ」
クリナがポーラに同意して言った。これはザハリア伯爵家に限った話ではない。貴族屋敷の使用人には休みがほぼないのだ。
伯爵家の使用人は、基本的に隔週の午後半休しかなかった。全休や長期休暇には特別な許可が必要だ。
「それでも、やる気がある人は教会に通ってるぜ? 結局2人とも勉強するのが嫌なんだろ?」
「そ、そんなことはないですよ!」
ポーラは憮然とした表情で返した。
「まあ、実際いくら勉強してもね……ヘルミナお嬢様を見ていると、人間は生まれつき頭の出来が違うんだなって思い知らされるのよ。お嬢様が7歳だなんて、とても信じられないわ」
クリナは頬杖をつきながら言った。ヘルミナの世話をするたびに、彼女の頭脳の明晰さや教養の深さには驚かされている。
「そりゃそうさ。俺たち平民と貴族の頭を比べてどうするんだよ?」
ランスは愉快そうにげらげら笑って、コップに残っていたコーン茶を飲み干した。
そのとき突然、クリナが目を丸くして椅子から立ち上がった。
「お……お嬢様!?」
「え……?」
ランスは首を傾げながらクリナの視線を追う。地下食堂の入り口に、1人の少女が立っていた。豊かな赤い髪に真っ白な肌、薄い黄色のワンピースを着て、緑の瞳には好奇の光が宿っている。
「ヘルミナお嬢様……!」
ランスは慌てて立ち上がった。他の使用人たちもヘルミナに気づく。弛緩していた地下食堂の空気は一変し、その場の全員が椅子を鳴らして腰を浮かせ、前を向いて気をつけの姿勢をとった。
当のヘルミナは使用人たちの慌てぶりに目を丸くして戸惑っていた。
「あ……驚かせるつもりは……」
「お嬢様……どうなされたのですか?」
クリナは姿勢を正したままヘルミナに尋ねた。
「別に、何も…………あの、ごめんなさいっ」
ヘルミナはただならぬ使用人たちの様子に、自分が何か大きな過ちを犯したような気になる。彼女は逃げるように食堂を飛び出した。そのまま来た道を引き返し、急角度の裏階段を駆け上って行った。
「……お、驚いたぜ」
ランスは額に冷や汗を浮かべていた。好き放題に話をしていたが、いったい主家の娘がいつからあそこにいたのか考えてしまう。
「本当にびっくりしましたよね」
ポーラは思わず笑ってしまっていた。
「まさか地下に来られるなんて……誰かに注意していただかないと。やっぱり奥様かしら?」
引いた椅子に腰かけながら、クリナが思案げな顔で言った。
「まあ、旦那様か奥様だろうな。これじゃあ気が休まらないぜ」
「ランスはヘルミナお嬢様がお越しになるのが嫌なんですか?」
ポーラが不思議そうに言った。
「そういう問題じゃない。お嬢様に対して悪い感情なんてないさ。だが、ここまで来られちゃ、俺たちだって迷惑だ……クリナ、そうだろ?」
「まあ、ね」
ランスの言葉に、クリナは唇を横に引きつらせるような、微妙な苦笑を浮かべながら曖昧にうなずいたのだった。




