「第2話 クルテ・ロシュ(二)」
ベルデ歴1215年4月
デメトリウスが12歳の春。
近隣の貴族たちが狩りをするためにクルテ・ロシュを訪れた。屋敷の正門付近には馬のいななきと馬蹄の音が響き、猟犬たちが吠え立て、クルテ・ロシュはいつになくにぎやかだった。
狩りはアルマシュ貴族の伝統的な遊興だが、同時に政治的な会合の場でもあった。またアレクセイにとっては森の状態を把握する視察の意味も兼ねていた。
父親たちが猟銃を肩に提げ、馬に跨って森に出かけると、残された子供たちはクルテ・ロシュの中庭にあるテラス席に集まった。
「デメトリウス。きみは寄宿学校へ行っていないのかい?」
少年の1人が椅子に腰かけ、コーヒーを飲みながら尋ねた。テラスでは数人の近侍──いわゆる従僕──が、コーヒーを注いだり菓子を出したりと貴族子弟らの給仕を行っている。
「父上の方針だ。必要なことは家庭教師から学んでいる」
「うらやましい話だな。寄宿学校は最低だよ」
「そうなのか?」
デメトリウスはコーヒーカップに口をつけながら興味深そうに首を傾げた。寄宿学校が閉鎖的で過酷な環境だという話は、以前にも耳にしたことがあった。
「まるで軍隊さ。何をやるにも規律、規律で雁字搦めだ。しかも俺たち下級生は、朝から晩まで上級生の身の回りの世話をやらされるんだ。靴磨きや洗濯までするんだぞ? 信じられるか?」
「下男や下女みたいな扱いだな」
「もっと酷いよ。少しでも逆らえば、殴る蹴るは当たり前だからな」
「へえ……」
「それ以外の時間は全部、授業だしな。自由に過ごす時間なんてまったくないんだ」
別の少年も不満そうに口を尖らせながら言った。
「なるほど、本当に軍隊だ。話に聞く士官学校とそう変わらないな」
彼らの言葉に同意しながらも、デメトリウスはつい笑みがこぼれた。彼自身、朝から晩まで勉強漬けの日々であり、父親からは直々に領地経営を仕込まれている。自分の時間などほとんど存在せず、また日常的な体罰も何ら珍しい話ではない。
「デメトリウスは寄宿学校を知らないから、そうやって笑えるのさ」
「いじめも酷いしな。服を脱がされて、屈辱的なことを強要されたり……とにかく理不尽なんだ」
「上級生というだけで、俺たち下級生を虫けらみたいに扱うんだよ」
少年たちは口々に不満を漏らした。
「たしかにひどい環境だな。先生たちは注意しないのか?」
デメトリウスは目を細めながら尋ねた。
「見て見ぬふりさ。指導だ、伝統だってね。本当に馬鹿げているだろう? 今はもう1215年だぞ?」
「まあ……一番最低なのは、女がいないことだけどさ」
他の少年が軽薄に笑いながら言った。
「それだよ。デメトリウスはいいよな? クルテ・ロシュには近隣のお嬢様が、しょっちゅう遊びにくるんじゃないのか?」
「そんなことはないよ」
デメトリウスは肩をすくめて首を振った。少年たちは冗談を交えて寄宿学校の話をするが、笑い声は乾いており、実際その生活には疲弊しているようだった。
彼らの話を聞くうちに、ふとデメトリウスの中で奇妙な感覚が湧いてきた。
父アレクセイの教育はたしかに苛烈だ。毎日が息苦しく、鞭で叩かれるのは痛い。怒鳴るより、淡々と詰めてくる父の叱責も恐ろしい。だが、人格を否定されるわけでも、理不尽な屈辱を与えられるわけでもない。
父が叱責するのは、父の求める水準に自分が達していないせいだ。叱られる原因は自分にあり、父の言葉は理に適っていた。
そう思い至ったとき、デメトリウスの胸には安堵ともあきらめともつかない、不思議な静けさが漂っていた。
*
幼いヘルミナはそんな兄を遠くから見つめて育った。
兄デメトリウスは父の期待に応えることこそが存在意義であるかのように、日々の修練に励んでいた。ヘルミナはそれが貴族の家に生まれた者のあるべき姿なのだと、自然に受け止めていた。
またヘルミナ自身も父から厳しく躾を受け、幼くして家庭教師に習い事を学んでいた。お辞儀の仕方、歩き方、食事の作法、言葉遣い。将来は他家に嫁ぐ者として、恥ずかしくない淑女として育て上げられていた。
「お嬢様、お辞儀の角度が深すぎます。さあもう一度」
「お嬢様、そんなに早く歩いてはいけません。淑女は急いではなりません」
「お嬢様、ナイフとフォークを置く順番が逆です。最初からやり直してください」
「はい、先生」
毎日それが繰り返された。だが、ヘルミナは不満を口にしなかった。彼女にとっては当たり前の日常であり、兄デメトリウスも同じ環境を受け入れていたからだ。
*
ある晩、寝室のベッドでスィロムが夫に寄り添いながら言った。
「ねえ、あなた……ここ最近、デメトリウスに厳し過ぎないかしら?」
「そう思うか?」
アレクセイは天井を見上げながら妻に尋ね返した。
「ええ……少し、ね」
「私は他の貴族のように、血が出るまで息子を折檻したことは一度もない。私自身は父からそのように扱われたが」
「鞭の話はしていないわ。あまりにもあの子の時間がないように思えて……」
「自分の時間か」
「私の実家、ラコツィ家もそれは厳しかったわ。兄弟は毎日のように父から怒鳴られ、鞭で叩かれていた。それでも、自分の時間はあったし、私は兄や弟と一緒によく遊んだわ」
スィロムが気にしているのはデメトリウスのことだけではない。デメトリウスとヘルミナの、兄妹の時間がほとんどないことも、彼女にとっては気がかりなのだ。
「お前の言いたいことはわかる」
「じゃあ、考えてくれるのね?」
「……そうだな」
アレクセイは短く答え、妻に背を向けるように寝返りを打った。
「生返事ね」
スィロムはため息を漏らすと、夫の赤い髪をくるくると人差し指に巻きつけた。
「私は昔、寄宿学校へ通ったが、息子はあそこへ行かせなかった。だが、寄宿学校で学ぶことは多い」
「でも、あなたはデメトリウスを行かせたくなかったのでしょう?」
「ろくな場所ではないからな。非合理な慣習が多い。それでも、私はその代わりに、私自身の手で息子を一人前の貴族に育て上げねばならん」
「気負い過ぎじゃない? あなたは十分あの子に尽くしているわ。家庭教師の数だって呆れるほど多いわよ?」
「スィロム……私は軍人だ」
アレクセイはまた寝返りを打ち、スィロムのほうを振り返った。そして妻の頬に手を添え、その目を見つめながら言う。
「仮にまた戦争がはじまれば、私は1年、2年と屋敷を空けることになる。息子には今が一番大切な時期なのだ。わかってくれるな?」
アレクセイはアルマシュ公国軍の歩兵大佐であり、戦争になれば連隊長を務める立場にあった。過去にも南方の大国クズル・ウルマク帝国との国境紛争に出征し、長く屋敷を留守にしたことがある。
「……ええ、わかったわ。それでも、ヘルミナの教育はいき過ぎに思えるわ。私が子供の頃は、屋敷の中を走りまわって悪戯ばかりしていたわよ?」
「ヴァーシャールとアルマシュでは、貴族の娘に求められるものが違うのだ」
「そうかもしれないけれど……ヴァーシャール貴族の娘である、私に何か問題でも?」
スィロムは夫の目を見つめ返して言った。
「いや、お前は…………素晴らしい女性だ。私ごとき男にはもったいない」
アレクセイは言いよどんだ後、やや視線を逸らし気味にそうつぶやいた。
「よしてよ」
夫の不器用ながらも率直なもの言いに、スィロムは苦笑するしかない。
「……よかろう。ヘルミナの家庭教師は減らす。その分、お前があの子に教育をしてやってくれ」
「ありがとう、あなた」
スィロムは夫に抱きつくと、その頬へそっと口づけをした。




