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ザハリアの赤い薔薇  作者: 水咲邦明


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「第1話 クルテ・ロシュ(一)」

ベルデ歴1210年7月12日


 アルマシュ公国の東端に肥沃な平野の広がるザハリア郡はあった。

 真夏の日差しが一面の小麦畑を照らす。東のガスピル山脈から吹き下ろす強い風に、麦の穂は大きくうねり大地に黄金の波を描いていた。

 代々この地を治めるザハリア伯爵家は“クルテ・ロシュ”と呼ばれる、古い要塞を改築した屋敷に暮らしていた。季節とともに、色鮮やかにうつろう小麦畑の中にあって、クルテ・ロシュの無機質で無骨な外観は際立っている。灰色の外壁に余計な装飾は一切見当たらず、建物の四隅には高い監視塔がそびえていた。


 この日、その無骨な石壁の内側で1人の女児が産声をあげた。


「奥様、元気な女の子でございます」

「そう……よかった……」

 伯爵夫人スィロムはベッドに横たわり、荒い呼吸に胸を揺らしながら産婆の声に答えた。汗に濡れた黒髪が額にはりつき、緑の瞳は疲れの色を帯びつつも穏やかに細められている。

「顔を見せてちょうだい……」

「もちろんです。さあ」

 布にくるまれた小さな命が、母の腕に預けられた。

「柔らかなお顔立ちは、奥様によく似ておいでです」

「そう思う? 夫に似なければいいのだけれど」

 スィロムは冗談めかして言い、大声で泣き声をあげる我が子の顔を見つめ、大切に、優しく胸に抱いた。


 寝室の扉が開き、アレクセイ・ルスカがゆっくりと部屋に入ってきた。スィロムの夫でありこの屋敷の主人、第12代ザハリア伯爵その人だ。

 背は高く立派な体格だ。長く伸ばした赤い髪と、鷲のくちばしのように曲がって突き出した、大きな鼻が特徴的だ。猛禽類めいた彼の瞳はこんな時でさえ鋭い光を放っていた。


「あなた……」

「おめでとうございます、旦那様。お嬢様でいらっしゃいます。母子ともに健やかであらせられますよ」

 産婆がスィロムに代わって主人に伝えた。産婆は安堵と達成感で朗らかな笑みを浮かべているが、アレクセイを前にして、その顔にはかすかな緊張が漂っていた。

「そうか。ご苦労だった」

 アレクセイの返事は短かった。彼はベッドのとなりに足を運ぶと、妻の腕に抱かれる赤子をしばらくの間、黙って見下ろした。やがて口を開く。

「名はヘルミナとする」

「ヘルミナ……ええ、とても良い響きね。……ほら、あなたも抱いてあげて」

「いや……私はいい」

 アレクセイは素っ気なく言った。そして付け加える。

「……落とすといかんからな」

 夫の反応にスィロムは苦笑いをした。たしかに長い結婚生活を経て、穏やかな表情で我が子を抱く夫の姿が、スィロムには想像できなかったのだ。


*


 アルマシュ公国は公王カルベ8世を君主とし、5つの公爵家と23の伯爵家が地方総督として各地の郡を治めている。

 ザハリア伯爵家は200年の歴史を誇る名門貴族だ。第5代伯爵ドゥミトル・ルスカがこの地にあった要塞を改築し、本拠としてから150年あまりも経つ。

 クルテ・ロシュはザハリア郡の郡都ワラシュティから馬車で小一時間ほどの平野にあり、周囲には伯爵家の所有する農地が広がっている。

 3階建ての伯爵邸は要塞だった頃の面影がそのままだ。飾り気のない石造りの重厚な建物で、内部は広大だが殺伐としていた。


 アレクセイはベルデ歴1165年の生まれだ。ヘルミナの生まれた年、彼は45歳を迎えていた。


「貴族とは領地あっての貴族である。我々は常に領地と領民に対して重い責任を負っている。それが神々の定めた我らの義務である」


 アレクセイの口癖だった。上位貴族でありながら、彼は修道僧のように禁欲的な日々を送っていた。贅沢を憎み、華美さを嫌った。夜明け前には目を覚まし、早朝から夕刻まで領地のために働いた。

 寡黙な性格で感情は常に抑制され、家族だけでなく、使用人や領民にも声を荒げることはない。その必要もなかった。アレクセイの冷酷そうな風貌は、ただそこにいるだけで恐ろしいほどの威圧感を放っていた。

 使用人たちは主人の足音が聞こえるや、口をつぐみ、背筋をぴんと伸ばして気をつけの姿勢をとった。それがクルテ・ロシュにおける日常的な光景だった。

 領内の統治は厳格かつ公正であり、領民たちはアレクセイを“赤い鷲”と呼んで畏怖した。


 伯爵夫人のスィロムは夫とは対照的な人物だった。ベルデ歴1176年の生まれで、アレクセイより11年下だ。彼女は東の隣国ヴァーシャール王国の辺境伯の娘であり、17歳の時にザハリア伯爵家へ輿入れした。豊かな黒髪に緑の瞳、肌の色はヴァーシャール人らしくやや濃いめである。快活で人当たりが良く、日頃から使用人たちへも気さくに接していた。


 嫡男デメトリウスは1202年生まれ。妹のヘルミナとは8つ歳が離れている。髪は黒々として、顔立ちは父親より母スィロムに似ており、肌の色は中間的だった。


 そしてヘルミナは父から燃えるような赤髪を、母からは深い緑の瞳を受け継いだ。肌は遠く北西の国にルーツを持つという、父の家系の透き通るような白さをしていた。


*


 ヘルミナには物心ついた頃から、目にしていた光景がある。兄デメトリウスが父に叱られ、鞭を振るわれる姿だ。


「デメトリウス、何度同じことを言わせる? 帳簿の数字すら、まともに読み取ることができんのか?」

 アレクセイの声は平坦だが、息子にはそれがかえって恐ろしくもあった。帳簿をめくるデメトリウスの手に、ピシャリと音を立てて短い鞭が放たれた。

「も、申し訳ございません。父上……」

「謝罪の言葉など私は求めていない。さあ、もう一度。正確に帳簿を読み取れ」

「はい」

 唇を噛みながら痛みに耐える兄の姿を、ヘルミナは書斎の扉の隙間からじっと見つめていた。


 デメトリウスには伯爵家の嫡男として、完璧であることが求められた。客人や使用人の前で、笑うこと、怒ること、泣くことを禁じられた。将来、人の上に立つ者として、感情を抑制する術を幼い頃から叩き込まれていたのだ。

 デメトリウスの毎日は分刻みだった。夜明け前から父と礼拝堂に向かい、神々に祈りを捧げた。

 毎朝6時のサロンでの朝食は、両親とデメトリウス、幼い妹ヘルミナの4人が顔をそろえる短くも貴重な時間だった。昼食や夕食は客を迎えることが多く、まだ幼児のヘルミナは同席できないからだ。


 朝食が済むと、家庭教師の授業が始まった。算術、語学、文学、歴史、地理……入れ替わり立ち替わり現れる家庭教師が、昼食の時間を挟んで日が暮れるまで休む間もなく授業を行った。父アレクセイの目は常に光っており、彼は息子の失敗や怠慢には容赦なく鞭を振るった。


 ヘルミナには幼い頃に、兄と遊んだ記憶がほとんどなかった。兄は家のどこにいても、どの時間も緊張していた。父親が不在の時でさえ、兄はその視線を背中に感じているようだった。


*


 アルマシュ公国では、貴族子弟は10歳頃には寄宿学校へ入学するのが一般的だ。彼らはそこで教養と礼儀作法を身につけ、公王に対する忠誠心を学ぶのだ。

 だがアレクセイは寄宿学校の教育を信用していなかった。彼は息子を自分の手元で育てることにこだわった。息子に領地経営を肌で学ばせたかったのだ。

 家庭教師の授業がないときは、デメトリウスは父親についてまわり領地経営の基本を学んだ。領地管理人や農民代表から日々の報告を受け、馬車に乗って領内を視察し、郡都ワラシュティでは有力者たちの会合に、父とともに出席した。


ベルデ歴1214年10月


 デメトリウスが12歳の秋。郡都ワラシュティにある伯爵家の公邸で大きな会合が開かれた。貴族、議員や役人、宗教関係者、地主、商人などザハリアの要人たちが一堂に会した。


 休憩の時間になり、参加者たちは議場から隣接するサロンへと移動した。皆はそこでコーヒーや酒を飲み、食事をしながら談笑する。

 テーブルには季節の野菜と豆を煮込んだスープ、焼いた羊の肉、果物の盛り合わせと地元のワインが並んでいた。

「デメトリウス。人とは会議の席でそう簡単に本音をさらすものではない。会合では、むしろこうした場のほうが、話が前に進むこともある。身分や立場に違いはあれど、結局のところ人と人としての対話が重要なのだ」

「はい」

 アレクセイはテーブルの端でコーヒーを飲みながら、この場の人間模様をよく観察しておくよう息子に命じた。

「あの者たちの笑顔の裏には何があるか、何を望んでいるのか、常に相手の腹の内を探るくせを身につけろ。だが、己の心の内は決して気取られてはならん。言っている意味はわかるな?」

「はい、父上」

 デメトリウスは果物を口に運びながら、サロンで談笑する男たちの会話に耳を傾ける。その中に一際、羽振りの良さそうな中年の男がいた。豪奢な衣裳をまとい、宝飾品をこれ見よがしに身につけている。

「父上、あの男は銀行家ですね?」

「そうだ。近頃、力をつけてきている者たちだ」

「土地や屋敷を担保に、貴族に金を貸している。彼らの上手い話に乗せられ、借金まみれになった貴族もいると聞いています」

 デメトリウスは不快そうに言い捨てた。銀行家は満面の媚びた笑みを浮かべ、貴族たちに声をかけてまわっている。

「デメトリウス、昔は商いとは、下賤なもののすることとされていた。金貸しなど、さらにその下だ。だが、今はもうそういう時代ではない」

「小麦を育てるだけでは、貴族も食べていけませんか」

 デメトリウスは銀行家の男を見据え、葡萄をひとつ口に入れると、どこか皮肉めいた口調で言った。

「お前も言うようになった」

 アレクセイは少しだけ口元を緩め、息子の肩に手を置いた。


 郡都に行った帰りは、馬車の中で必ずその日の総括が行われた。デメトリウスに心休まる瞬間などなかったが、アレクセイもまた息子と2人のときには、その教育にすべての時間を注ぎ込んでいた。


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