第六話
パチパチパチ、パチンッ。
音がする。
なんの音?
暗い、暗い中で…。
パチ、パチ、パチ…
やっぱり何か音がする。
暗い、暗い…あぁそうか、目を瞑っているから、だから暗い。目を開けないと。
ゆっくり持ち上げた瞼に、突き刺さるように赤い光が差し込んできた。
雅明は、部屋を見回す。窓から入り込んだ夕陽で、居間は、血で染め上げたように真っ赤だ。
音は消えている。逆に、とても静かだ。
耳が痛むような静寂。
赤い光と、汗ばむような西日の熱。
彼岸のような景色に、目が眩む。
茫洋とした意識のまま立ち上がり、足を前に出す。フラフラと、歩む。
(彼女のところへ行かなくちゃ…。)
リィン--!
突然、静寂が破られた。リン!リン!
と、同時に、赤い光も消えた。居間は、いつもの居間だった。開け放った窓からは、昼間のように明るい、初夏の光が差し込んでいる。
リン!リン!リィン--
居間の古い時計だ。雅明が子供のころからある小さな柱時計が、十八時を指したところだった。
(でもあの時計は、十分くらい進んでいるから、実際には十七時五十分頃で…)
意識がしっかりとしてきて、呆然とする。
東側にある窓から、西日が入り込むはずはないのだ。
乾いたアスファルトの道路を、夏草は歩く。
祖父の家に続く小さな路地だ。
道の両側から迫る塀と、はみ出した庭木。夏草は、なんだか自分だけの秘密基地の中を歩いているような気分だった。
大きく息を吸い込むと、自然と口角が上がって笑んだような顔になった。
初夏の濃い緑をした庭木が塀からのぞき、陽の光を浴びてキラキラ光る。
空を仰ぐ。青空だ。夕方六時にもなろうとするこの時間でも、日は高く明るい。
右手に下げたコンビニのビニール袋が、歩みにあわせてカサカサ鳴る。
ちょっと立ち止まって、袋の中からピザまんを取り出した。祖父の家から二番目に近いコンビニには、夏に迫るこの時期でも肉まんとピザまんとあんまんが売っていて、物珍しく感じて買ってしまったのだ。
小さい口でピザまんを食みながら、また歩きだす。食べながら歩く、という行為は、どうしてこうもワクワクとドキドキがあるのだろうと思う。
(選ばれてあることのコーコツと不安、ふたつ我にあり…)
父が以前教えてくれた言葉。今の状況とは全然違う。けれど、噛み合わない二つの感覚が自分の中にあるという意味では、ピッタリだった。
新しいスニーカーと、切ったばかりの髪も、夏草の体を軽くしているようだ。
しかし、祖父の家の前で、夏草はピタリと立ち止まった。
あと一歩進んで左を向けば、祖父の家の玄関と、父の車が見えるだろう。
尖らせそうになった口を、キュッと結んで、踵を返す。そして数歩、もと来た道を戻って、隣の家の門のところに置いてある石に腰掛けた。……さっき起こった出来事を思い返すと、どうにも父に対して胸がムカつく思いがする。
(じーさんに、あんな言い方、しなくたっていいじゃん。ケーサツも…父さんも。)
手に残っていたピザまんをすべて口に放り込み、ビニール袋からペットボトルのお茶を取り出す。口の中でもごもご咀嚼しても、ピザまんはなかなか喉の奥に落ちて行ってくれない。
(そりゃ、じーさんが言ってることは、ちょっとおかしいけど…。)
おかしい。それはそう。
だって、切れた指が動くはずがない。濡れた足跡が、土の上の足跡が、きれいさっぱり全て消えてなくなるはずなんてない。そもそも、切れた指が庭に落ちてたなんて…。
口の中を占領しているピザまんを無理やり飲み込み、お茶で流し込んだ。
少し首を動かせば、枝も葉も刈り取られて、「つんつるてん」の庭木たちが見える。
(おかしいけど……おかしすぎるじゃん……?全部が勘違いなら、おかしすぎるじゃん……?)
グーっと勢いをつけて、残っていたお茶をすべて飲み干す。
夏草は立ち上がって、隣の家の敷地へ踏み出した。
スマホの画面ごしに黒い翅に赤い丸紋のテントウムシを捉え、シャッターボタンを押す。
そして、しゃがみこんだ姿勢のまま、スマホのカメラを杉の木のてっぺんに向けた。
何度か、スマホを持つ手を上に下にと動かすが、なかなか撮りたい画角になってくれない。
夏草は立ち上がり、少し離れた場所から同じようにスマホをかざして、丁度よい画が写ったところで、またシャッターボタンを押した。
今しがた撮った数枚の写真を、スワイプしていく。隣家の庭の花壇に咲いた濃い紫の花、なにもない地面、杉の木の根元、何かの植物の茎を登っているテントウムシ、そして…。
夏草は、スマホの画面から顔をあげ、首を伸ばすように杉の木を見上げた。立派な大木だが、それだけだと思った。庭も、なんの変哲もない、ただの庭だ。
思わず「ふぅ。」とため息がでる。
(つんつるてんの木の方に行ってみようかな…。)
目線を地面に移すと、そこには、オレンジ色の液体が入ったペットボトルが落ちていた。
祖父がよく買って飲むジュースもあんな色をしていると、ふと思い出す。
(ひょっとして、じーさんがこの庭に入った時に忘れていったのかな?)
近付いてみても、傷んでいる様子も見えないが、祖父が落としていったのかどうか、確とわかるようなものも見えない。
夏草は、少し迷ったすえに、手に取ってみた。途端に、緩んでいたらしい蓋から中身がこぼれてきて夏草の手を濡らす。うえっ、と思わず声が出た。
(あーー…でも、この中途半端に飲んで残しておく感じ、じーさんっぽいかも…。)
濡れた手をペペッと振り、つまみあげるように持ち上げたペットボトルを、睨む。どうしようか?これ。
ふと思いついて、杉の木の根元に行く。そして、中途半端なペットボトルの蓋をしっかり開けて、逆さにした。オレンジ色の液体が、トポトポ音をたてて、地面に吸い込まれていく。
「おおきくなぁれ~…なんてね。」
「ありがとう。」
柔らかに笑みを含んだような声が、聞こえた。
「え?」と瞬きした目に小さな足が見えて、次に瞬きをした瞬間には消えていた。
ふわりと柔らかに、温ぬるい風が吹いた。しかし変に湿っていて、夏草は身震いする。
ごくり、と、自身が唾を飲み込む音が聞こえた。
ギュッとペットボトルを握りしめて顔をあげ、足早に杉の木から離れる。
走ってしまえば異変を認めてしまう気がして、ただなるべく早く足を動かす。
そうして隣家の庭を抜け、祖父の家の門をくぐったところで、夏草はようやくホッと息をついた。
なんだったのだろうかと、先程の出来事を思い返しながら、祖父の家の玄関前から隣の庭の方を向いた。
白く、ひょろ長い人影が、立ってこちらを見ていた。




