第七話
ざか、ざか、ざか…。
ざか、ざか、ざか…。
ざか、ざか、ざか…ざざ、ざぁ…。
かき分けていた灰まじりの土が、崩れてきた。気にせず、かき分け続ける。手なんかでは、たいした量の土を掘れない。
灰は、まだ熱い。火傷になるかもしれないと、頭の隅の冷静な部分が、言う。
でもでもでも、そんなのどうでもいいの。見つけたいの、見つけないといけないの、私の…。
ざぁーっと幕が引かれたように、先程までと景色が変わった。曇天の雪模様だ。
(さっき?俺はさっきまで、何をしていたのだっけ?)
佐伯は、今までのものはなんだったろうかと少し考えたが、すぐにどうでもよくなった。
辺りを見渡してみる。自分は、ベンチに座っている。隣には、妻が座っていて、そして目の前にはバスが停まっていた。
(あぁ、夢だ。)と、すぐにわかった。妻が亡くなって二年ほど経った頃に見た夢だ。繰り返し繰り返し、思い出しているから、(これはあの時のあの夢だ。)と、すぐに気付けた。
佐伯の妻は、病で亡くなった。
亡くなる前の数日間は、苦しむ姿しか見ていない。枯れ木のように痩せて、時に大きく呻き、ほとんど動かせない体をよじらせて苦しむ姿は、妻が亡くなったあとも、なかなか佐伯の脳裏から離れてくれなかった。
たくさんあったはずの妻との思い出が、亡くなる前の数日間に塗りつぶされていくようだった。
そんな時に、見た夢だ。
佐伯は、妻の方を見た。
雪が、ハラハラと、こぼれるように降っている。妻は、手を口の前に持ってきて、「はぁ。」と、白い息を吐いた。
「寒いわねぇ。」
と言って、立ち上がった。
佐伯は、自身の膝の上に目を落とす。
(ほら、やっぱり、あった…。)
妻が、還暦祝いに友人たちからプレゼントされた、ワインレッドのマフラーだ。黙って妻に差し出すと、妻は「ありがとう。」と言って受け取り、首に巻いた。そして、開いたバスの入り口の、その昇降階段の一段目に足をかけた。
「もう、行くのか。」
(そんな言い方はないだろう…。)と、自分でも、この夢を振り返る時いつも思っていたけど、やはりそう思う。なんだか、妻を責めるような響きがある気がして。
妻は、階段を一段昇って、こちらを振り返り、「えぇ。行くわ。」と言った。それから、ふふ、といたずらっ子めいた笑みを浮かべる。
「私、あなたが、喪主のスピーチあんなに上手くできると思わなかったわ。部屋も全部片づけてくれたでしょう。すごく助かった。…あなた、やれば出来るのねぇ。こんな事なら、もっと早く色々やってもらえばよかったわ。」
妻は、ほうぅとひとつ、深く息をつく。 風が出て、雪が強くなってきた。
「ありがとうね、全部済ましてくれて。本当にありがとうね。」
そうして今度こそ階段をあがってバスの中に入っていってしまった。
動き出したバスは、吹きすさぶ雪と風に遮られて、すぐに見えなくなる。
「頼んだわ。あとの事は、頼むわね…。」
最後に、妻の声ではっきりとそれだけが聞こえた。
初夏の朝の陽光が、遮光カーテンの隙間から差し込んでいる。
(頼んだとは、前は言われなかった気がするな…。)
ベッドに横になったまま、佐伯は目を開けた。夢の話である。
昨日の出来事と、さっきまで見ていた夢が、頭の中でゆっくりと回っている。
(もう俺に出来ることなんてないよ。齢もとった。耄碌した年寄りだ。)
目元が湿っているのが気持ち悪く、枕元に置いてあるティッシュをとって、強く拭う。
起き上がって、昨日寝る前に外した腕時計を手に取る。目を眇めて針を確認すると、時刻は既に五時を過ぎている。
眠りが浅い最近は、朝の三時頃に目が覚めてしまうことも普通であったため、佐伯は驚いた。急ぐような時間でもないのに、思わず慌ててベッドから降りようとする。だが、急に立ち上がることは出来なくて、「よっ…しょっ。」と言いながらゆっくり尻を上げる。
いつものように、まずトイレに行き、それから新聞をとるために玄関へ向かう。
「…ナツ?」
「あ、じーさんもう起きたんだ。早いね。」
孫娘の夏草が、玄関で靴を履いているところだった。
「どうしたんだ、お前…こんなに早く…。」
「うん、昨日、ここに泊まったんだよ。」
そう言って下を向いて、履いたばかりの靴のつま先で三和土を叩く。
「それはわかるけどな、そうじゃなくて、随分早起きだな。」
佐伯も、玄関に降りてサンダルをひっかける。
「お前も外に出るのか?散歩するのか?」
「あ、うん、そうしようかな。」
すこし、言い方にひっかかりを覚えたが「そうか」と答えて、一緒に玄関を出る。
佐伯より一歩先に玄関を出た夏草は、振り返り、ポストから新聞を抜く佐伯をじっと見ている。
いつものように新聞を手にした佐伯は、家の中に戻るために、玄関ドアに手をかける。
「…お前、行かないのか?」
「じーさんを見送ってから行こうと思って。」
「変な言い方だな。」
朝飯前に帰ってくるんだぞ、と声をかけて、佐伯は今度こそ家の中に入った。
それから着替えて台所へ入ると、今度は息子の雅明も起きてきた。
正直、昨日の出来事から気まずい思いが佐伯にはあった。
「…おう。」
「んーおはよう。」
しきりに目をこすりながら、大きな体をのそりと屈めて台所に入ってくる。そしてそのまま、テーブルにぶつかった。ドンと、小さくはない音が響く。
「あいたた…。」
「おい大丈夫か。…なんだかボーっとしているな。」
「いや、なんだろう…なんか変な夢をずっと見てたみたいで、あんまり…。」
眠れてない、と言いながら、雅明は欠伸をした。
「…悪かったな、昨日は。色々…つきあわせちまったから、疲れたのかもな…。」
息子は、目をパチパチさせて佐伯を見る。それから、「あぁ、いいよ別に。」と言った。
それが随分と軽い調子だったから、佐伯は安心より落胆を覚える。
(いつまでも考えてたってしょうがない…。)
佐伯は、普段通り、味噌汁を作ろうと鍋を取り出す。
「お前たちも味噌汁飲むか?」
「あぁ、どうしよう…いや、大丈夫かな。俺達の分はコンビニで適当に買ってくるよ。」
「コンビニ?おいお前、毎朝そんなんで済ませてるわけじゃないよな。」
「え?いやいや、まさか…こういう時とか忙しいときとかだけだよ。」
それまでぼうっと突っ立っていた雅明は、やおら動いて、冷蔵庫をのぞきだした。
「いやー、うちは朝はパンが多いし……ナツも、たまにコンビニとかで買うと喜ぶんだよね。あ、冷蔵庫にも食材入ってないかな。」
佐伯に聞かせるように大きな声でそう言って、「うん、やっぱりコンビニ行ってくるよ。」と、そそくさと玄関に向かう。
「あいたっ。」
大きな体をかがませるのが間にあわなかったらしく、鴨居に頭をぶつけている。
佐伯はその背中に声をかける。
「ナツはもう起きて散歩に出てったからな。朝飯前に戻れとは言ったが。」
雅明は振り向かず、右手で頭をおさえ、左手だけ佐伯に向かってヒラヒラと振った。廊下のきしむ音が数歩分聞こえて、玄関ドアが二度ガラガラ鳴ったあと、静かになった。
いつも通りの、佐伯の朝が来た。味噌汁を作り、炊飯器に残っている白米を仏壇用の赤い漆塗りの碗に盛る。その上に数切れ沢庵をのせ、味噌汁とともに茶碗と同じ色の膳にのせて、仏間へと向かう。
小さな仏壇に、漬物がのったご飯と味噌汁を、供える。立ったまま、電気蝋燭のスイッチを入れる。線香を立て、鈴をならす。
ひとつ息をついてから、摺りガラスの小さな窓を開けた。枝葉が刈られた庭木と、その向こうに隣の家が見えた。
そうして、またひとつ、佐伯は息をついた。
『誰もいなくて寂しい』と言っていた。
ーーそれは寂しいね、と思った。
『誰かに来てほしい、誰か側にいてほしい。』
ーーひとりも案外楽だよ。
『嫌だもん、もう一人は嫌だもん、ねぇ誰か来て。』
しくしくと泣きながら、その声は言った。なんの衒いもなく、いっそ無邪気に。
それが夏草は少し羨ましくて、そして好ましかった…だから…。
家の掃除が行き届かなくなっていることに気付いたのは、結婚して今は隣の県に住んでいる娘の洋子だった。娘の助言もあり、佐伯は一昨年に介護認定を受け、今は生活支援サービスを利用している。
今日は、その生活支援ヘルパーが家に来てくれる日だった。
朝、いつもの時間きっちりに、玄関の呼び鈴がなる。
「佐伯さんおはよーございます。訪問介護のストレートケアサービス、倉田です。」
「っはよーざいます!」
「今日もうちの若いの一緒です。色々勉強させてますんで、よろしくお願いします。」
「っす。よろしくお願いします。失礼しまーす!」
いつも来てくれていた中年の男性ヘルパーと、まだ若い男性ヘルパーだった。若いヘルパーは新入社員と紹介されている。
「あぁ、今日もよろしく。」と言いながら、佐伯はヘルパー達を家の中へ招き入れる。
そこへちょうど、出かける用意の整った息子達が来た。
「あ、どうも倉田さんと…えっと…。」
「ども!新しく入った筧っす。見習いですが、よろしくお願いします!」
「あぁそうだ、おはようございます。今日も父がお世話になります。」
倉田が軽く頭を下げる。
「おはようございます。これからお仕事ですか。」
「えぇ、娘を送ってからそのまま…いってきます、よろしくお願いします。」
いってらっしゃい、と倉田が言ったのに呼応して、若い方も「いってらっしゃいっす!」と元気よく声をかけ、夏草にも笑顔を向けた。
「娘さんも!学校頑張ってくださいね!」
夏草は、大きな声にビクッと肩を揺らす。
「あ、おはよぅございます…。いってきます…。」
ぎこちなく笑いながら小さな声で返し、そそくさと、父親の影に隠れるようにして玄関を出て行った。
先日、息子と孫が泊まった日からは2週間が経っていた。その間、息子からは頻繁に連絡が来た。なんでも、夏草がやたらと「じーさんどうしてるかな。じーさんの家に泊まりたい。」と言うらしい。そんなわけで、昨日から二人が来ていて、今日も泊まっていくとのことだった。
「今日もいつも通り、まずは風呂トイレ掃除して洗濯物干しますね。あと、買い物。それから料理と台所の掃除。」
「あぁ、洗濯機はもうまわしてあるから。あと、買い物のメモはそのテーブルの上だよ。」
ヘルパー二人はテキパキと作業をこなしていく。ヘルパーを家に入れるようになった初めの頃こそ、佐伯はひとり手持無沙汰でいるのが耐えられなくて、作業する倉田のあとをついてまわっていっていたのだが、今ではすっかり慣れた。
台所のテーブルに座ってコーヒーを飲む。夏草が家を出る前、「コーヒーくらいなら私が淹れてあげるよ。」と、自信ありげに言って湯を注いでくれたインスタントコーヒーだ。
ガタガタ、バタバタ、ザーザー。家事をこなす音が、小気味良く響く。
(贅沢な話だ…こんな風に何から何まで人にやってもらって…そうだよ、これ以上何か考えるなんてしなくていいはずだ。…不安になるような事なんて、ないはずだ。)
夢が、思い出された。死んだ妻も、「全部済ましてくれてありがとう。」と言っていた。
「あ、佐伯さんすんません。ちょっと足あげてもらって、いいっすか。」
掃除機をかけていた筧に声をかけられ、佐伯の思考が現実に戻る。
「あ、いやいや、ちょっと足上げてもらうだけで。もう、ここテーブルの下ちょっとやれば掃除機終わりなんで。」
立ち上がろうとする佐伯を制して、言った。
筧は、かけ終わった掃除機をしまいに行く。倉田の方は料理をしていて、出来た惣菜をタッパーにしまっていた。筧が戻ってくると、作った料理をどこにしまうかを教えている。「一品だけ冷蔵庫に、あと二品は冷凍庫だ。」
最後に、流し場の掃除をしだした。これは、筧がやって、倉田は監督役らしい。
「いやぁ、しかし、若いあんたも手際がいいなぁ。掃除とか、家でもやってるのかい。」
「あざーっす!いやぁ、家は全然す。仕事だからこそっすね!」
「へぇ、そうなのか。」
佐伯は少し意外に思った。それから、上手くは言えないが自分の考えは古いのだろうとは思った。
はじめ倉田が家事援助のヘルパーとして家に来たとき、「男がやるのか。」と言って、その場で雅明と洋子に叱られた、その時の事をなんとなく思い出した。
(気を悪くするようなことを聞いたかもしれないな。)
「佐伯さんは、若い頃なにやられてたんすか?」
水を流しながら、筧が尋ねる。
「俺かい?俺は工場で職人やってたよ。」
「へえ~、職人!かっこいいっすね!ひょっとして息子さんもっすか?デカいし、職人っぽいすよね。」
『デカい』というのはその通りで、雅明は180と少しの背丈がある。しかも40を過ぎてから、横にも逞しくなった。しかし、「デカいから職人ぽい」という筧の言葉には、佐伯はちょっと共感できなかった。背丈が高い者が職人になるわけではない、少なくとも佐伯の認識では。
「息子は俺とは全然違う仕事をしてるよ。よくわからんが、本を作ってるらしい。なんか夜遅くまで、家でも仕事してるとか孫も言ってたな。」
ふと、頭に浮かんだ人がいた。どうして今、思い浮かんだか、それは佐伯もよくわからない。
「まぁ、デカくて仕事をするというなら、隣の家の旦那さんなんかはそうだったよ。働き者でなぁ。休みの日でも、いつも庭の手入れをしてた。奥さんも、花壇の草むしりなんかよくしていて。」
「隣の家?あ、大きい杉の木のある?……っと、倉田さん、終わりました、確認お願いします。」
「俺でなく、佐伯さんに。」
「あっすんません…佐伯さん、台所の掃除、こんな感じで大丈夫っすか?」
「あぁ、大丈夫だ。ありがとうよ。」
「いえいえ!じゃあ、今日の作業はこれでオッケーってことで、今日の訪問簿にハンコ、お願いします!」
元気のよいヘルパーが帰ると、家は途端に静かになった。
佐伯は、飲み終わったコーヒーカップを流し場に置き、仏間へと向かう。
朝から開け放したままにしてあった窓からは、隣家とその庭に植わった枝葉のない木が、変わらず見えている。
窓を閉めるため、手をかける。外の空気は蒸していて、そろそろ本格的に暑さがはじまるなと、なんとなく佐伯は窓から顔を出した。そしてやはりなんとなく、路地の方を向いて、思わず目を疑った。孫の夏草が、歩いているのが見えたから。
「ナツ…?」
と思わず呟いてから、いやそんなはずがないと思いなおす。朝に、父親と一緒に出掛けて行ったのを見ている。今頃はフリースクールにいるはずだ。
(近頃の子供達なんて、みんなあんなものじゃないか。髪がつやつやしていて。)
路地を歩いていただろう少女の姿が、不自然に見えなくなる。ドッと心臓がはねて、汗がふきだしたような、嫌な感覚が襲う。
(隣の敷地に入った?)
佐伯は仏間を飛び出した。玄関におりるがサンダルが足にうまくひっかからない。外に出る。滑りの悪くなった引き戸は半開きでとまっていたが、佐伯は構わず路地へ向かった。
が、隣の家の門の前で立ち止まる。これで、確認しようと慌てて敷地へ立ち入ってしまえば、先日とまったく同じ顛末である。
誰か見た者はいないかと辺りをみまわすが、平日の日中、路地をうろついている者はいない。
どうしてこうなのかと、理不尽な怒りすら湧いたところで、尻ポケットから振動が響いた。スマホだ。
隣家の門に背を向けてポケットを触る。それだけで、スマホを取り出しはせず、後ろの隣家を振り返る。その動作を数度、無意味に繰り返した末に、ようやく佐伯は尻ポケットからスマホを取り出す。
電話の着信を知らせるアイコンとともに、『雅明ケータイ』という白抜き文字が画面中央で大きく主張していた。
『あ、もしもし、父さん。ごめん急に。なんかナツが、フリースクール途中で帰りたいって言ってさ。父さんところに行くって言ってたから、悪いけど頼むよ~。』
「ナ、ナツがそう言ったのか?!途中で帰ったのか?!」
『は?え、そうだけど…なになに、そんな驚いた…?』
それから、電話口の雅明は『あー…。』と何かに気付いたような声を出した。
『…まぁ、父さんの時代からしたら、学校とかそういうの、途中で帰るなんてよっぽどの事情?とかないとおかしかったかもしれないけど。病気とか身内の不幸とか?でもさ、ナツは今、毎日ミナミナ…フリースクールに行きたいって気持ちじゃないって事なんだと思うよ。今はそれを社会が許容できて…』
「まてまて、そうじゃない、それは今はいい。ナツは、もう帰ったのか?こっちに来るって、言ってたのか?」
『…父さん、これは大事なことでさ。ナツ、ずっと家の中にしかいられなかっただろ?今はインターネットとかあるから、家の中でも勉強したり友達つくったりできるし、まずはナツの気持ちが大事だと思う。ただ俺としては…。』
「それは本当にどうでもよ、…くないかもしれないが、悪い、あとで聞く。あのな、ナツが……。」
隣の庭に入っていったかもしれないぞ、と佐伯は続けようとしたが、すんでのところで吞み込んだ。
「…来るなら、甘い菓子がないな、買いに行かないとな。もう来るなら、急がないとな。だから、もう切るぞ。」
雅明の声は、電話口でなお何か言い募っていたが、佐伯は赤い円のアイコンを押して電話を切った。
佐伯は小さくため息をつく。…この電話の切り方は、いまだに慣れない。受話器を置かずに本当に電話が切れているのか、不安が残るのだ。
しかし今は、その不安を振り切った。そして、隣家の門のすぐ横にある石に腰掛ける。
雅明に、今、『隣家に夏草が入っていったかもしれない』と言うのは、違う気がした。
それなら、佐伯は待つしできない。




