第三話
父親の後ろ姿が、どこかしょぼくれているように見えた。
「もう寝るよ」と言って、奥の部屋に引っ込んでいってしまった父を見送り、雅明は顔を手で覆ってため息をつく。
実家の居間である。
雅明が子供のころからある小さな柱時計は、長針が十を少し進んだところに、短針が六のすぐ手前ある。
しかし、この時計は十分近く早く針が進んでいるので、実際には十七時四十分頃なのだろうと目ぼしをつける。外はまだ、昼間のように明るい。
先程までのたった数時間のために、今日という一日が随分と長く感じられた。端的に言ってしまえば、
(疲れた…。)
口には出せず、小さく息を吐く。ソファの背に体を預けてしまうと、余計に疲労感が増した。
しばらくそうして、天井に顔を向けていた。
娘には、「悪いが晩御飯は適当なものを外で買ってきてくれ。できれば父さんの分も。」と頼んで、送り出した。近所のコンビニとはいえ、数分で戻ってこれる距離でもない。
「…。」
スマホをとりだし、ブラウザアプリを開く。
〈認知症〉と打つと、その後に続く検索語句の候補がズラリと並んだ。 〈認知症 症状〉〈認知症 病院〉〈認知症 検査〉〈認知症 薬〉・・・・。結局、どれもタップできずに、ブラウザを閉じる。そうしてまた、雅明は天井を仰いだ。
父親からの着信に気づいたのは、そろそろ夏草を迎えに行く時間だと、仕事部屋から出たところだった。雅明は、翻訳者兼編集者のようなことをやっている。先月からは、翻訳の仕事にかかりきりだった。
着信は、たった今。見ると、LINEの通知も来ている。雅明は、LINEを開くより先に、父に電話をかけた。
「おいっ、ゆ、ゆびが!落ちてる!」というのが、父の第一声だった。
「なに、どうしたの?」と目をこすりながら答える。ずっと、パソコンと資料を眺めていたので、少し視界がかすむような感覚があった。
父は、随分と切羽詰まった声をしていた。しかし雅明は呑気にしていた。「指が落ちている」という父の言葉に、現実感がなかったというのも、あるかもしれない。
「だから!大変だぞ!指が落ちていたんだ!隣の庭だよ!」
「ちょっと落ち着いてくれよ、父さん。えっと…まず、父さんは怪我とかしてないの?父さんの指は大丈夫なんだよね?」
電話口からは、「ふーっ、ふーっ」という荒い息遣いが数度、聞こえた。冷静になろうとしているのだろう。思いのほか興奮しているようだ、とも思った。
「…俺は大丈夫だ。俺の指じゃない。」
そこから父は、隣の家に足跡があったこと、不審者かもしれないと思いその庭の奥に入ったことを、やや早口で語った。
「それで、そこに、ゆ、ゆびが落ちてたんだよ。動いていたぞ、あれは!すぐに来てくれ、警察も呼んだ方がいいかもしれん!」
「…いや、本当に指だったのかい?それは。切れた指は動かないだろう。見間違いとか…」
「そんなわけあるか!動いていたんだよ!本当に!」
「…わかったよ。とりあえず、俺がそっち行くから警察はまだ呼ばないで。…こういうのは、ちゃんと確かめてからの方がいいはずだし、とにかく警察はまだ呼ばないでくれよ。」
そう言って雅明は電話を切って、そしてすぐに娘とフリースクールに連絡をした。
先に娘に「じいさんにちょっとトラブルがあったみたいだから、実家に寄って来る。少し迎えが遅れる」と電話すると、「はいは~い、オッケー」と随分かるい調子で返された。
フリースクールの方は、電話に出たスタッフがすぐに「わかりました。」と言ってくれた。実際の迎えが何時頃になりそうか、あと念のためにと、何かあった時には、今かかってきている番号に電話してよいかを確認された。
それから雅明はさり気なく、今日の娘の様子を尋ねた。
「ほかの女の子と一緒に、ずいぶん楽しそうにゲームをしていましたよ。」とのことだった。「もっと詳しい様子は、夏草さん担当のスタッフに代わってお話しできますが…。」と言われたが、それはやんわりと断った。今日はひとまず、大きなトラブルもなく、娘が途中で嫌になることもなく過ごせたということだけでよい。
(これをきっかけに馴染んでくれればいいなぁ。)
車を運転しながら、雅明は思う。電話越しの娘の声は、思ったより明るくて、それだけでもひとまず安心できた。
夏草に、同年代の子供たちとの繋がりがなくなってしまうのではないかというのが、雅明には気がかりだった。
もともと雅明は、ミナミナとは別の、もう少し小規模なスクールを推していた。そちらは小さな平屋建てで、大きく整った設備はない。生徒は少人数で、ほぼマンツーマンのような形でスクールスタッフがつく。
落ち着いた環境で、ゆっくりと人間関係を育めるのではと考えた。雅明としては、それが今の夏草に合うのではないかと思ったのだが、結局、夏草自身が今日行った方--ミナミナを選んだ。
(ミナミナは、十八時半までやっているし。施設内に図書室やプレイルームもある。こういう風に、定時で迎えに行けないことがあると考えると、こっちが良いよなぁ。)
そんな事を考えているうちに、車は実家の近くまで来ていた。見慣れた、実家へ至る道のりの景色-カエデ、ハナミズキ、山茶花、イヌツゲ…雅明の意識は自然と、娘の事から先程の父親の電話の内容へと移っていく。
人の指が隣の庭に落ちていて、動いていた。父は電話口でそう言っていた。
そんなことがあるわけがない、と雅明は思う。父は見間違うわけがないと言っていたが、どうせ大きなミミズか何かだったのだろう。
ただ、父のあの剣幕では、本当に警察に電話しかねないと思った。だから、ひとまず自分が行き、話を聞いて…必要であればこっそり父と一緒に隣家の奥を見て、何もないのを確認すれば、父も落ち着いてくれるだろう。…しかし…
(もし本当に人の指があったら?)
雅明はひとり、かぶりをふる。「ないない。」と口に出してから軽く笑い、ハンドルを握りなおした。
父親は、自身の家の前ではなく、隣家の門の横に置かれた石に座って待っていた。
雅明の車を認めるやいなや、立ち上がり、近づいてこようとする。雅明は運転席から、「後ろに下がって」とジェスチャーする。車は、父の話が長くなる可能性も考えて、実家の敷地内に停めた。
雅明が車から降りても、父は自分の家の敷地内に入ってこようとしない。隣家の門の前で待っている。
(一緒に中まで行ってみないと納得しないかもなぁ…これは…。)
そう思いながら、父親の方へ向かって歩く。
「父さん、ずっと外で待ってたのか。家の中にいてもよかったのに。」
とりあえず、指とは関係ないところから、話しかけてみた。
「なに、タクシーで家まで帰ってきたの?」
「タクシーじゃない、歩いてだよ。いや、それはいいんだ…。」
「歩いて?!図書館からここまで?ちょっと、やめてくれよ父さん…今の時期でも熱中症とかあるんだ。自分の齢を考えてくれよ。」
「うん、うん、あぁ、わかった。それより、こっちだ。庭の奥だ。」
「いやいや、待って。勝手に庭の奥に入るのは、よくないよ。」
父親は、既に隣家の敷地内に一歩、足を踏み入れているが、雅明にはやはり躊躇された。
「うぅ~ん、第一、足跡?があったって言ってただろう?どれ?」
そう聞くと、父親は、言葉に詰まった。雅明から目を逸らして、「いや…。」とか「うぅん。」などと呟いている。
「それは、ちょっと消えちまったみたいなんだが…。」
「…なるほど?」
「いや、さっきは、たしかにあったんだ。ほら、この辺からはじまって、土の上にもしっかり型が残ってたんだ。だが、さっき見たら、消えちまっていて…。いや、あったんだぞ、ここから、こっちに。」
父は、隣家の石畳の中ほどまで進む。それから、横に逸れて、土の上に降り、さらに家の奥を指さす。
「…まぁ、見間違いだと思うけどねぇ。」
言いながら、雅明も父の後に続くことにした。
かつては花壇であったのだろう一角に、雑草とともに咲く花菖蒲を横目に、雅明と父は奥へと進む。隣家の敷地の奥は、家の裏手にあるという意味では正しく「裏庭」なのだが、その言葉から想像できるものより、広い。庭の一番奥に杉の木があり、その向こうには川が流れている。
(これじゃ、まるっきりコソ泥だよ。)
雅明の脳裏には、細い月の夜にほっかむりをして抜き足差し足する男の絵が浮かんでいた。
父親と二人で、隣の家に不法侵入。まったく笑い話にもならない。むしろ、少しくらい何かあった方が言い訳が立ちそうだとまで思った。
「杉の木の手前に落ちてたんだ。この辺りだ。」
と、父は言った。
ところどころ雑草が伸びる庭を見て回る。
……なにもなかった。虫の一匹さえも、見当たらなかった。
(だよなぁ。)
少し緊張した気持ちもあったが、やはりこんなものだ、と雅明は思った。
父は、なおも地面にかがみこむようにして探している。もういいだろう、と雅明は顔をあげる。
杉の木があった。
さわさわと軽やかに枝ががゆれ、川の流れる音が響く。無音ではないのに、静謐さがあった。
静かな住宅街の中の、さらに奥まったこの場所は、ほかから隔絶した小世界のように感じられた。
(空き家なのが勿体ない。小さい子供がいる家族なら、こういう庭付きの家なんて喜ぶだろうに。)
ちょっとした森林浴の気分で深呼吸をして、父の方を向いて声をかける。
「きっと虫かなんかを見間違えたんだよ。まぁ、よくあるって。もう帰ろう。」
父は、雅明の声に一度、顔をあげた。しかし、すぐにまた下を向いて、庭を歩き回る。家に帰るのを嫌がる小さな子供のようで、多少、苛立ちを覚える。なにしろ幼い子供ではない。父は分別を身につけた大人…どころか、すでに老境にある。
(まったく年をとると頑固になるっていうけど…ただの見間違いだったって認められないものなのかね。)
しようがないので、父に近寄り、「父さん。」と強めに声を出す。それでも顔を上げない父に、さらに声をかけるために息を吸い込んだところで、気づいた。
「あれ…なんだかいい匂いがするね…線香みたいな…?」
父に向けるはずだった言葉は、独り言のようになった。しかし、なぜか父はその言葉にギョッとするように顔を上げた。
雅明は、かすかな香りを探し、辺りを見回す。少し離れた位置に、オレンジ色の飲み物が入ったペットボトルが落ちている。それは、風に押されて、ひとつコトリと転がった。
「ペットボトル?…ジュースの匂いじゃないよなぁ」
近付いて拾い上げようとしたところを、思いの外強い力で止められた。父が、雅明の上着を強く引いている。
「そ、それは、俺がさっき入った時に落とした。出るぞ。」
「は?あぁ、うん。」
先程とはうって変わって、父は、自ら先導して雅明を門の方向へ引っ張っていく。
父に引きずられるように歩きながら、ペットボトルが右に、左に、揺れるのを目で追った。
……線香のような香りは、もうしなかった。
隣家の門を越えたところで、父は歩みを止めた。そして、「なにかいるぞ。」と言った。
「どこに?」と言って、雅明は路地を見渡す。父が、路地で何かを見つけたのかと思ったのだ。
「ここじゃないよ。隣の庭だ。」
まだ言っているのか、と思った。隣家に不法侵入(強く言うとそうなるだろう)までして確認して、そして何もなかった。だから隣家をあとにした。それで、もう雅明にとっては終わった話で、正直なところ頭の中は次の行動のことを考えていた。夏草をフリースクールに迎えに行かなくては。
「父さん、隣の庭には何もなかっただろ。今、見てきたばかりじゃないか。で、何もないのを確認できたから戻ってきたんだ。何がまだ気になるんだよ。」
「においだよ。」
と、父は真剣な顔をして雅明を見つめ、言う。
「お前も言ってただろ。線香のにおいがしたって。」
「あぁ…。」
「俺もさっき、同じ匂いがしたから、隣の家の庭に入っていったんだよ。なにか、いるんだよ。そうじゃなきゃ、おかしい。」
父は、切羽詰まったような、切実な顔をしていた。どうやら真剣にそう考えているらしい。雅明は腕時計を見た。すでに十六時半を過ぎている。
「ごめん、父さん。夏草を迎えに行かなくちゃ。本当は、もう一時間くらい前に約束してたのに、フリースクールにも待ってもらってるんだよ。…あ~…、あとで、またあとで来るからさ。うん、悪いけど。」
そう言って、父を促して、自身の実家の敷地に入る。車が道路に出てからも、まだ父は家の中に入らない。雅明は運転席から窓を開けて、声をかける。
「夏草を迎えに行ったら、また来るから。父さんも歩いて疲れただろ。もう家に入って。」
父が、車に背をむけた。それを見て、雅明はブレーキから足を離す。車はゆっくりと動き出した。




