第二話
雨が、音もなく降っている。
白く煙る雨に濡れる窓ガラスの外を眺めながら、(炊飯器のタイマーを押していなかったかもしれない。)と、佐伯は思った。
いちど気にかかってしまうともう駄目で、佐伯は、早く家に帰りたいと落ち着かなくなってしまった。
図書館の開架室を出て、ロビーに出る。吹き抜けのロビーには煌々と明かりがともり、外の雨模様を吹き飛ばすかのように、明るい。2年前に建ったばかりの市立図書館は、佐伯には、どこもかしこもピカピカと光っているように見える。
ソファとテーブルが置かれたラウンジの片隅に腰掛け、掛け時計に目をやる。シンプルな掛け時計の針は、午後3時を指そうかというところだ。
どうしようか、と佐伯は思う。息子の雅明が迎えに来るのは5時過ぎだ。
(早く帰って確かめなけりゃあ。タイマーになっていなくても、今帰ってスイッチを入れれば夕飯時には間に合う…)もう、そればかりが頭を支配するようになってしまって、焦燥感で無闇矢鱈と歩き回りたいような気分だった。迎えに来た息子に頼んでスーパーに寄ってもらい、電子レンジで温めるだけのパックご飯や弁当を買えば済む…とは、まったく頭に浮かばなかった。
年をとって俊敏な動きができなくなって厄介なのは、「ただ動けない」というだけではない、と佐伯は感じている。気持ちが焦っているからと、むやみに動き回ることさえも、《《ガタ》》がきた老体は許してくれない。緩慢な自身の動きが、余計に焦りを募らせる。実際、気持ちだけは、立ったり座ったりロビーを何度も横切ったりしているのだが、しかし端から見れば、佐伯はゆったりソファに腰掛けているだけの老人だ。
佐伯は、やおら腰をあげる。はたから見れば、緩慢で、頼りなげな覚束なさだが、佐伯としては決然と立ち上がった。
迎えを待ってはいられない。家に帰るのだ。
図書館の自動ドアをくぐれば、途端に蒸した空気に包まれる。雨は、涼しさをもたらしてはくれなかったらしい。佐伯は、思わず「ふぅ」と、息を吐いた。
上着のポケットからスマートフォンを取り出し、LINEのアプリをタップする。佐伯のスマートフォンは、いわゆるシニア向けのものではない。昨年、県外に嫁いだ娘と会った折に「すごいじゃない。うちのお義父さんはらくらくスマホだよ。」と言われたのが、ひそかな自慢になっている。
『迎えに来れないか?』
『無理か』
『炊飯器のタイマーを押していない気がする』
画面に映ったメッセージは、自身が先ほど送ったものから変化がなかった。既読もついていない。
『帰る』と、追加で送り、雨の中を歩きだした。
細い糸のような雨が、服を湿らしていく。
(なに、これくらい、昔はどこへ行くでも歩いたものだ。)と思いながら、ひたすら歩を進める。
前を見つめる佐伯の双眸が、疲労から、睨むようなものに変わってきたところで、雨は止んだ。ちょうど、国道の大きな交差点を通り過ぎたところだった。
コンビニ前の縁石に腰掛けた。どうにもなにか飲みたい。しかし自動販売機が見当たらない。しぶしぶと、佐伯はコンビニの店内に入った。
店内は空調が効いていて、冷涼な空気に満ちていた。思わずホッと息をつくとともに、小さなイートインスペースも見つけた。ペットボトルに入ったジュースを買い、これ幸いと椅子に座る。そうしてジュースを半分ほど飲むと、さっきまでのどうしようもないダルさも、ほんの少し取り払われた。今なら、また歩けそうだった。
年若い男性客がひとり、店内に入ってきた。背広を着ていたので、会社員なのだろうと目星をつける。営業の外回りか、社外で会議でもあったのか。見るともなしに見ていると、男性客はまっすぐに飲料コーナーへ向かい、水を一本とって会計を済ませそのまま出ていった。
佐伯は手元のペットボトルを見つめる。よく熟れたみかんの皮の、いちばん濃い部分を切り取ったような、キレイなオレンジ色をしたジュースだ。なに味ともわからない、よくある人工的な甘さだった。
(こういうのがジュースだよなぁ。)と、思う。息子や孫も、ペットボトルで水を買って飲んでいるが、佐伯にはその感覚がよくわからないのだ。たくさんの華やかな色合いの飲み物が並ぶ中で、なぜわざわざ水を選んで買うのだろうと、いつも思う。
店内の空調に、心地よさより肌寒さを感じてきたのを頃合いと、佐伯は立ち上がった。
よく見慣れた狭い路地と家々の並びに、佐伯はホッとした。
もう、ここをまっすぐ進めば、その左手に我が家がある。
少し気持ちに余裕がでてくると、周囲の景色も目に入ってくるようになった。
ーあぁ、アジサイがきれいだ
ーあの家の、あの塀からはみ出た木は、春には黄色い花が咲いていた
佐伯はふぅふぅ息をしながらも、気持ちばかりは軽快に歩を進め、大きな杉の木のある家の前で立ち止まり、大きく息を吐く。このひとつ奥が、佐伯の家だ。しかしここまで来て、そのほんの数メートルがいやに遠い。
隣家の門の脇には、腰掛けるのにちょうどよい大きさの石が置いてある。それに腰掛けた。昔は、この辺りも立派な塀や門を持つ家は少なくて、ただこうした石でもってのみ敷地の境界を示していたものだった。
座りながら周囲を眺める。隣家の生垣は、枝が短く刈られていた。葉も、ほとんどついていない。
(おや…?)心の中で首を傾げる。朝、仏間から見た伸びた枝は、この生垣から伸びたものだったはずだ。
見間違いであったのだろうか、と思った。別の場所から伸びてきた枝葉が、たまたま目に入り、それをよく知る隣家の庭木と思い込んでしまったのだろうか。しかし、それらしき草木もない。
佐伯は、なんだか胸がぞわぞわするような気持になった。溜息を大きくつき、腰をあげる。
(ゆったり庭を眺めてなんていられないんだ、炊飯器を確かめて、ダメなら、すぐにコメをとがなきゃならないんだから。)
腕を前に上げて一伸びをし、隣家に背を向けたところで。
後ろから不意に、ざざぁと木々のざわめきが聞こえた。佐伯は驚いて後ろを振り向く。杉の木が、大きく揺れ、ぬるい風がふいた。
体にまとわりつくような、ぬめり気のある風だった。しかし、不快には感じなかった。良い匂いがしたからだ。
それは、佐伯も毎日嗅いでいる。
白檀の、線香の香り。
思わず、香りの出所を探して首を巡らす。
そうして見つけたのは、門から家へと続く石畳、その上についた濡れた足跡だった。
なんだ、隣家の息子さんでも来て仏壇に手でも合わせているのかーと、思ったが、しかし足跡は途中で家の方向からそれて、庭の黒土の上へ降りている。
奇妙な光景だった。石畳の途中から、不意に足跡がはじまり、家の横を通って庭の奥へと進んでいるのだから。足跡が途中からはじまっていることはひとまず置いても、家の中に入って行かないことが、おかしく感じられた。
(不審者…まさか泥棒とか…。まさか、いやしかし…。)
佐伯は、辺りを見回した。だれか、近所の人間がちょっと外に出てきていないだろうかと探した。
向かいの奥さんでも、はす向かいのじいさんでも、よかった。だれかに足跡の事を話して、だれか入っていくのを見ませんでしたか?と尋ねる。
そうすれば、あぁさっき息子さんが来ていましたよ彼もこまめで。あぁ、そうでしたか、いや誰の足跡かと思って、最近は物騒だから。はは、そうだったの、たしかに最近は嫌な事件も多くて、佐伯さんも気をつけてね、ひとりなんだし。えぇ、いや、ありがとうございます。
そういう会話をして、終わらせることが出来ると思った。しかし、あいにく路地は静まり返っている。
家の敷地の奥へまで入っていくのは、さすがに躊躇された。気にしすぎかとも、思う。
ざわざわと、再び杉の木が揺れた。なまあたたかい風が、まとわりついてくる。白檀の香りが、また…。
「……。」
佐伯は、もういちど路地を見回す。やはり人影はなかった。
意を決して、そろりと、敷地の中へ踏み入る。
(誰もいなけりゃそれでいいんだ。少し奥を覗くだけだ。俺は飯を炊かなきゃならんのだから。)
そろり、そろりと、足跡を踏まないように歩く。しかし、佐伯の予想に反して、自身の靴痕がつくことはなかった。雨はとっくに上がっていて、地面も乾き始めている。
(じゃあ、この足跡はいつ、ついたものなんだ。)
花菖蒲と雑草が入り混じる花壇を通り過ぎて、家の裏手まできたところで、足跡は不意に途切れた。
佐伯は顔をあげる。いつの間にか、杉の木のすぐ手前まで来ていた。
…特に異変は見当たらなかった。黒ずくめの怪しい男が、梯子を家の窓にかけようとしていた、なんてこともない。見る限り、家の窓はどこも閉まっている。線香の香りも、消えていた。
やはり気のせいだったのだとホッとすると共に、気が抜けた。きっと、いつも嗅いでいる香りをふと思い出してしまっただけなのだろう。足跡はよくわからないが、以前に息子さんが来たときのものが残っていて、今たまたま目に入ってしまったのかもしれない。隣家の様子をまじまじ見ることなど、自分の今までの日常ではなかったのだから。
今度こそ家に帰ろうと、佐伯はまた地面に目を落とした。そこに、肌色のものが蠢いているのが目についた。
はじめは、虫のように見えた。ミミズにしては太くて短い。頭のような先端の部分がつやつやしていて、杉の木の方に向いて、もぞもぞと動いている。
それが、人の指なのだと気づいたのは、頭だと思っていた部分が爪であったことがわかった時だった。
ひぃっ、という悲鳴は声にならず、佐伯の喉奥にだけ響いた。
指は関節をまげて土をひっかきながら、少しずつ前に進んでいく。その先に杉の木がある。
ザザァ、ザザァ、と一際大きく杉の木が揺れ、ざわめいた。




