第一話
佐伯が目覚めたとき、カーテンの隙間から見える外は、もう薄っすらと明るかった。
時刻はわからない。明け方ーしかし、人々が目覚め行動するにはまだ早い時刻なのだろうーとは、予測できた。
最近は、いつも、こうだった。眠りが浅く、夜まだ明けやらぬ頃に目覚めてしまう。佐伯は眠ろうと、強く、目をつむる。
しかし、眠りが戻らぬまま寝返りを繰り返すうち、カーテンの隙間からはハッキリと陽光が感じられるようになってきた。
ベッドから起き上がると、まっすぐトイレに行き、そのまま玄関に向かう。
ポストに刺さる新聞を回収して居間のテーブルに置き、一度自室に戻って、寝巻からスラックスとシャツに着替えたあと、台所に立った。
ねぎと豆腐だけが具の味噌汁を作る。佐伯は、味噌汁を作るときには、必ず自身で、鰹節と昆布の出汁をとる。市販の顆粒だしなどは使わない。ほかのものは、なんでも、鍋の中で炒めて、醬油か塩で味付けすれば食えたが、味噌汁ばかりはそうならなかった。10年前に鬼籍に入った妻が、亡くなる前に教えてくれた料理の中で、今も唯一、その伝授どおりに作る。
出来た味噌汁と昨晩炊いた白米は、自分よりもまず妻の仏壇に供える。
もともと仏間などない家に、妻がなくなってから、物置としてつかっていた小部屋を仏間として仏壇を置いた。廊下を通った奥まった場所にあるため、一度台所から居間を横切って下まで出て進んでいかねばならず、今はそれが一苦労となっていた。
小さな仏壇に、漬物がのったご飯と味噌汁を、供える。
佐伯は立ったまま、電気蝋燭のスイッチを入れた。線香にはマッチを使うが、すぐに火を消す。消えたマッチのリンの匂いが、線香と漬物の香りに混じり、消える。
仏間には小さな窓がある。もともと物置きなので、換気のためだけの小さなものだ。摺りガラスを透かして、緑の葉のついた木の枝が揺れているのが見えた。隣家の庭木の枝が伸びて、こちらに迫ってきているのだ。
隣家が空き家となったのはいつだったろうと、ぼんやりと考える。
自分と妻より、一回りほど上の夫婦と子供たちが住んでいた。
子供たちが独立したのはもう随分前だが、夫婦がその長男と同居するために越していったのは、たった数年前のはずだ。
家を囲むように並ぶ庭木は、楕円に行儀よく刈り揃えられていて、佐伯は、庭先で隣人に会うたびに、「今日も庭木がきれいですね」と、声をかけていた。
「息子さん、定期的に草刈りとか整理はしてるみたいだけど、庭木にまでは手が回らんよなぁ」
呟いたところで、線香が灰に埋もれる長さになったのが見て取れた。佐伯は電気蝋燭のスイッチを切り、お供えを下げて部屋を出た。
国道の左折レーンに入ったところで、信号が赤に変わった。佐伯雅明は、車をゆっくりと減速させる。
助手席に座る同乗者に「じいちゃんにLINE送って」と伝えたが、返事はなかった。ポヒュッ、という気の抜けた送信音だけが、娘のスマホから聞こえる。
「送った?」と重ねたところで、やっと、「うん」と返事がある。スマホの画面を見つめたままで、あからさまに煩わしげな声だった。「送った音、聞こえなかったの?」という言葉にも、棘がある。
雅明は、あえて明るい声を腹からだす。
「聞こえなかったよ。だから聞いたんだって。」
「そうでしたか。スミマセンデシタ。」
「朝から不機嫌だなぁ。」
その言葉に、娘はすこし、たじろいだようだった。雅明は、運転席からまっすぐ前を見たままだが、それくらいの雰囲気の変化はわかる。
信号が青に変わり、車は左折して市道に入る。「そうかな。」という小さな声が聞こえた。
それから取り繕うように、「既読ついたからね」と、言う。
それから会話はなくなって、雅明が運転する車は、対向車がやっとすれ違えるような細い道へと入っていく。
さらに車は左に折れて、ちいさな交差点を直進すれば、ついに、車が1台、やっと通れるという道幅になる。せまい道の両側に立ち並ぶ家々は、一様に古い。小さな庭と、家と。それらがそれぞれ、人の背丈の半分くらいの塀で囲まれている。
カエデ、ハナミズキ、山茶花、イヌツゲ、ボケの木、レンギョウ、アジサイ・・・
木々はブロック塀の上からその姿をのぞかせ、低木は生垣。6月らしく、どれも瑞々しく緑が濃い。ところどころ、空き家だろう、伸び放題の枝もある。細い道を、ゆっくり、ゆっくり。雅明は車を進ませる。
しばらく進んだところで、ひときわ大きな家が目に入る。
いや、まずは家より《《木》》が目に入る。背の高い杉の木だ。
杉は、路地に面した側ではなく、塀の中の家のさらにその向こうにあるのだが、背が高く、屋根から飛び出すように見えている。
「お、じいちゃん、今出てきたとこみたいだな。」
そして雅明が目指していた実家は、その隣、雅明の進行方向からは、木の家のひとつ先だ。 家の前にぴったり車を横付けすると、助手席の窓のすぐそばに、父の顔がきた。そんな腰のまがった祖父の顔に向かって、娘-夏草は、ひらひらと手をふっている。
父の奥には雅明にとって懐かしき我が家と、隣家との境塀、そして庭木が見えた。
空き家になった隣家だが、息子さんが時折手入れに来ているらしい。先ほど通り過ぎてきた庭のように荒れた感じはない。実家との境に植えられている庭木は、往時のように茂った葉を揺らしはしていない。害虫予防だろう、しっかり刈り取られている。放ったらかしにしているわけではない。
管理しているからこそ、葉も枝もないのだが、雅明は、丸裸の庭木を少し寂しく思う。
雅明の父は、緩慢に後部座席のドアを開け、慎重に足をあげて車に乗り込んできた。「よいしょっ…」という声とともに、ボスんとかるく車が上下した。父がしっかり腰を下ろした合図だ。
「ねぇ、じいさん、『よっこいしょーいち』って言わないの?」と笑いを含んで夏草が言う。
「おぉ、ナツ知ってるのか。そうそう、流行ったなぁ。いやぁ、でもナツみたいな若もんが、なんで知ってるんだ。」
「テレビ。そのあと自分でも調べたし。スマホ。」
「そうか。今はなんでもスマホでわかるなぁ。ユーチューブだかチクチクだか。」
「TikTokのこと?」
「そうそう、何だ…チクチクした名前のやつだよ。いや、じいさんくらいになると、最近のものの名前は覚えられないんだよ。」
-なぁ、雅明。父が話を振ってくる。
雅明は苦笑した。父は、話が途切れそうになると、決まって誰かを巻き込む。
「俺ももうTikTokとかはわからないな。父さん、もう出すからシートベルト。」
「あぁ、そうだ。」
カチャカチャと、父がシートベルトを締める音が聞こえる。バックミラーで後部座席を確認しようとした、その前に、
「ちゃんとしめた?もう出すよ」
夏草がヒョイと後ろを振り返り、言う。車がゆっくり前進し、それから路地を抜けていく。
「夏草は今日どこ行くんだ。学校に行くのか。」
父が言った一言に、雅明の心臓は、ドクンと嫌な音をたてた。思わず口から出かけた非難の声を、ぐっと歯の奥で噛みしめる。
「ううん、ちがうよ、今日はミナミナに行く。」
「うん?なんだ、そりゃ?」
「フリースクールっていうのがあるんだよ、父さん。学校じゃないけど、学校みたいに勉強したりするところなんだ。」
「違うし。全然、学校みたいじゃないよ。それだったら行かない。」
娘の夏草の声が、一気に不機嫌なものへと変わる。(あぁ、くそ、しまった。)と心の中で後悔する。
娘の態度に気をとられ、赤信号に気づくのが一瞬、遅れた。雅明はあわててブレーキを踏む。対して、父は変わらず平坦な声で話を続ける。
「ふぅん?なんだかわからんが、勉強できるなら勉強した方がいいが…でもなぁ、人間、頭がよくてもやる気がなきゃいけないからな。やる気があれば、なんとかなるもんだ。だから、なんだって?フリー?その学校みたいなとこも、やる気がでないとこなら行かなきゃいいしな。じいさんを見てみろ、高校も出てないんだ。」
-それでも工場で働いて家も建てて定年まで勤め上げたんだ、まぁ勉強ができるにこしたこたないが、やる気があればなんとかなる。
ーとにかく稼がなきゃならなかったからなぁ。
ーじいさんの親父が脳卒中で死んだとき、まだじいさんの妹も弟も小学生だったんだ。じいさんがなんとかしなきゃならんだろ?お袋は反対したけど、高校行くより働くって言ったよ。まぁなんだ、正直、勉強は好きじゃなかったしな。
ー時代も良かったよ、ちょうど高度経済成長期で・・・
「知ってる。神武以来とか鍋底不景気とかって言うんでしょ。」
「神武以来ってのは、もっと前だな、じいさんがずっと小さい頃のだろ。じいさんが若いころは、もっと後だよ。オリンピックがあって、万博やって、明日には、来年には、もっと生活は良くなってるんだろうって思えたんだ。」
「ふ~ん。」
娘の返事は、気のないものだったが、不機嫌のそれではない。雅明はホッとした。やっと外に出てくれる気になったのに、ここで出鼻をくじかれたくはなかった。
「いやぁ、正確には神武以来から、日本の高度経済成長期がはじまったと言われているね。って、俺も実はYouTubeの歴史チャンネルで見て知ったんだけど。ほら、ナツも見てるんだよ。父さんも見てみたら結構おもしろいかもよ。自分の時代とか、思い出すんじゃないか?」
「歴史?歴史じゃないだろ、オリンピックなんて。つい最近のことじゃないか。」
「じいさん、東京オリンピックは50年以上前だよ。歴史じゃん。」
そう言われると、父は、う~んと唸ったあとに少し、黙った。
そして、「そうか。」とポツリと言った。
「でもなぁ、歴史なんてのは、江戸時代とか戦国時代とかのことだろ。」
それから国道を超えてもまだ、父と夏草は話し続けていた。父も、なんだかんだいって、話好きなのだ。
いつもの調子の二人に、時折適当な相槌を打ちながら、車を運転する。黄色に点滅している信号を見てとり、前の車にあわせてスピードを落とす。この交差点を曲がった住宅街の中に図書館があり、そこで父は、ほぼ1日を過ごす。
信号が青に変わる。図書館は目の前だ。気が早いもので、父はもうシートベルトに手をかけている。
「父さん、まだシートベルト外さないでくれよ。」
「わかってる。齢をとると早く動けないんだよ。準備だ。」
住宅街の中の駐車場のない図書館は、生家同様、車の駐車に気を使う。対向車がすれ違えるだけの幅を確保しながら、歩道側から父が車を降りられるように車を停めた。
「オッケー。降りても大丈夫だよ。」
シートベルトを外す、カチャリという音。
「そういえばなぁ、お隣さん、今空き家だろう。庭木が伸びっぱなしだったなぁ。」
「うん?」
「あそこの親父さんは、見事に庭木を手入れしてたもんだったけどなぁ。」
「じいさん、危ないから降りるときちゃんと足元見て。」
「わかってるって。じゃあ、いってくるよ。悪いが帰り、また迎えを頼むな。」
「いってらっしゃい。」
バタン、とドアが閉められる。父が、ゆったりとした足取りで図書館に入るまでを、ぼんやりと眺めてしまう。
「じいさん、ボケちゃったかな?」
夏草の声で我に返り、慌てて車を動かす。このあと、夏草をフリースクールに送り、自分も仕事場へ向かわなくてはならない。ぼうっとしている時間はないのだ。
「隣の庭木?もう、奥の杉の木以外は、つんつるてんじゃん。」
「つんつるてんとは言わないだろ…」
そう言いながら、雅明は、隣家の庭を思い浮かべる。
隣家は数年前に、空き家になった。子供はみな独立して、最後まで住んでいた夫婦も、数年前に別の場所に住む長男を頼って出て行っていた。雅明は、昨年、たまたまその長男と行き会っている。
「虫にやられちゃってねぇ。広がって近隣に迷惑かけちゃうわけにもいかないし。」
葉も枝も刈り取られ、ほとんど幹だけになった庭木を前に、そう言った。
「ちょっと!!」
夏草の声と、けたたましいクラクション。雅明はハッとする。ウィンカーを出したままだったらしい。交差点で、反対方向から右折してきた車とぶつかりそうになった。
また一つ、クラクションを鳴らして、右折してきた車は去っていく。雅明も、そのまま車を前進させる。
過ぎてゆく景色と、何事かを言い立てている夏草の声を聞きながら、思った。
ー父は一体、何を、見たのだろう。




