言うな
ギースの家まで、いつもは十分かからない。
その日は倍かかった。
道が変わっていたからだ。ミラーばあさんの家があったところは、黒い四角になっていた。柱が三本だけ残って、上のほうが炭になっている。
その前を通るとき、俺は道の反対側を歩く。
まだ人が中を片づけている。ばあさんは助かったらしい。誰が助けたのかは聞いていない。俺ではない。
教会の前も通った。
明日の支度が始まっている。長椅子が外に出してある。姉が中で何かしているのが見えた。声はかけなかった。
ギースの家には、まだ魔獣の牙が飾ってあった。
二日前と同じ場所に、同じ角度でかかっている。村が半分焼けたのに、この家だけ何も変わっていない。
「座れ」
「うん」
俺は板の上に座る。右手はまだ動かない。板と布で固めたまま、膝の上に置いておく。
ギースは杯を二つ出した。
「飲むか」
「飲んだことない」
「知っとる」
注がれる。においで鼻の奥が痛くなった。
一口だけ飲む。
「うぇ」
「そうだろうな」
「なんでこんなもん飲むんだ」
「うまくないと飲めん夜があるからだ」
ギースは自分の分を半分空けた。
「明日だな」
「うん」
「何時からだ」
「昼」
「そうか」
「行くのか」
「行く」
「そうか」
薪がはぜた。二日前と同じ音がした。
「じいさん」
「なんだ」
「聞きたいことがある」
「言え」
「あの日、なんで動かなかった」
ギースの手が止まった。杯を口に運ぶ途中だった。
止まってから、そのまま口へ運ぶ。
「見とったのか」
「見てた。井戸のところに立ってた」
「脚が悪い」
「剣に手をかけてた」
「手をかけただけだ」
「あんた、あの男の顔をずっと見てたぞ」
ギースは杯を置いた。
「ノア」
「うん」
「街へ行くんだったな」
「話をそらすなよ」
「そらしとらん。話を始めとる」
ギースは牙のほうを見た。
「街ではな」
「うん」
「あれのことを、言うな」
「あれって」
「魔法を消したことだ」
俺は口を開けて、また閉じる。
言われた意味は、わかる。わかるが、腹の底が熱い。
「なんでだよ」
「言うなと言っとる」
「理由は」
「言えん」
「はぁ?」
俺は立とうとして、右手をついた。
板ごと激痛が走った。
「ぐ、ぅ、ぁぁぁああもう!」
「座っとれ」
「座ってるよ!」
座っていなかった。座り直した。
「なあ、じいさん」
「なんだ」
「俺、生まれて初めてだったんだ」
「何がだ」
「みんなが俺の名前、呼んだの」
ギースは何も言わずに聞いていた。
「十で針が動かなくてさ。それから八年、誰も俺の名前なんか呼ばなかった。魔力なしって呼ばれてただけだ」
「トトもか」
「トトは……あいつは、別だ」
「そうだな」
「一昨日、広場でさ。みんなが俺の名前を呼んだ」
自分の杯を見る。まだ半分以上残っていた。
「一生に一回だと思うんだ、ああいうの」
「かもしれん」
「それを、言うなって言うのか」
「言うなと言っとる」
「なんでだよ!」
声が裏返った。
ギースは表情を変えなかった。
「呼ばれた名前は、消せん」
「は?」
「もう呼ばれた。それはお前のもんだ。誰にも取れん」
ギースは杯を持ち上げた。
「だが、これから先に呼ばれる名前は、選べる」
薪が二回はぜるあいだ、どちらも黙っていた。
「昔な」
ギースが口を開いた。
「わしが組んどった中に、一人おった」
「うん」
「妙なやつだった。何が妙かは言わん」
「言えよ」
「言わん」
「そこが大事だろ」
「大事だから言わん」
ギースが指で杯のふちをなぞる。
「そいつは、自分が妙だということを、隠さなかった。隠す理由がわからんかったんだろう。悪いやつじゃなかった」
「それで」
「町で、酒を飲んで、しゃべった」
「うん」
「三月後に、いなくなった」
顔が上がる。
「死んだのか」
「死んどらん」
「じゃあ」
「連れていかれた」
「誰に」
「知らん」
嘘だ。
この人が嘘をつくときは、話が短くなる。宝石の話は長い。橋の話も長い。今の話は、短かった。
「じいさん」
「なんだ」
「その人、どうなった」
「知らん」
「探さなかったのか」
「探した」
ギースは杯を空けた。
「見つからんかった。それだけだ」
しばらく、牙を見ていた。
この人は、四人で行って二人で帰ってきたと言った。帰ったのは自分ともう一人だと言った。
そのもう一人の話を、俺は一度も聞いたことがない。
八年、この家に通っている。魔獣の話も、宝石の話も、宿のおかみの話も、何十回と聞いた。
人の名前が出てきたことは、一度もなかった。
気づいたのは、たぶん今が初めてだ。
牙の根元に、うすく削れたところがある。ひもで縛った跡だと思っていた。持ち歩いていたのかもしれない。
聞かなかった。聞いても短い答えが返ってくるだけだ。
「わかった」
俺は言った。
「言わない」
「そうか」
「街では、言わない」
「そうしろ」
「でも、じいさん」
「なんだ」
「いつか教えろよ。その人の話も、脚の話も」
ギースは牙を見ていた。
「気が向いたらな」
「向かせろよ」
「うるさい小僧だ」
その言い方は、いつものやつだった。
帰り道は、暗かった。
村の魔導灯が、半分しか点いていない。柱が焼けたところは、まだ直っていなかった。
孤児院の前で、下の子が一人、外に座っていた。一番小さいやつだ。寝ないで待っていたらしい。
「ノアにいちゃん」
「まだ起きてんの」
「あのね」
その子は俺の左手を引っぱった。
「どうやって消したの」
俺は、その子の顔を見た。
二日前なら、そのまま答えていた。わからない、と。本当にわからなかったからだ。
「わかんない」
同じ言葉が、口から出た。
同じ言葉なのに、中身が違っていた。
「なんだ」
「なんだって言うな」
「つまんない」
「そうだな」
俺はその子を抱え上げて、家の中へ入れた。
右手は使えないので、片手で持った。前より重く感じた。
寝台に下ろすと、その子はすぐ寝る。子どもは寝るのが早い。
俺は板の間に座って、天井を見ていた。
言わない、と決める。
決めたのはいいが、決めた中身がよくわからない。八年のあいだ、俺には隠すものが何もなかった。針が動かないことは村中が知っている。隠しようがない。
初めて、自分だけが持っているものができた。
それを、明日から誰にも見せない。
得をした気も、損をした気もしない。体の内側に袋がひとつ増えた、という感じだけがある。
その袋の重さが、右手より重い。




