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三十九度

 目が覚めたとき、最初に思ったのは、寒い、だった。


 毛布が三枚のっていた。それでも寒い。


「起きた」


 姉の声だった。近い。


 顔を横に向けると、姉が寝台のわきに座っていた。座ったまま前に倒れていたらしく、髪が片側だけつぶれている。


「何日」


「一日半」


「そんなに」


「そんなに」


 姉は俺のひたいに手を当てて、それから自分のひたいに当てた。もう一往復した。


「先生ぇ」


「聞こえてます」


 院長が入ってきた。手に細いガラスの棒を持っている。


「口、開けて」


 言われたとおりにした。舌の下に入れられた。冷たい。


 しばらくして、院長がそれを光にかざした。


「三十九度」


「それ、なに」


「熱を測るやつ。帝国のころのだよ」


「読めるのか」


「線が引いてある。数を読むだけさ」


 院長はガラスの棒を布でくるんで、箱に戻した。箱のほうが立派だった。


「この村で、これを読めるのは私だけでね」


「ほかの人は」


「額をさわって、熱いか熱くないか言うだけ」


「それでいいんじゃないか」


「よくないよ。熱いか熱くないかで、薬の量が決められるかい」


  


 右手は、板と布で固められていた。


 動かそうとしたら、指の付け根からひじまで、一本の線みたいに痛みが走った。


「あ」


「動かさないの」


「動かしてない」


「動かしたでしょ」


 姉が俺の手を上から押さえた。押さえられると、余計に痛い。


「三本、折れてた」


「三本」


「人差し指と、中指と、薬指」


「そんなに殴ってないぞ」


「一発で三本折れるんだって、じいさんが言ってた」


 姉は俺の手を見ていた。見ながら、片手を布の上にかざした。


 指の形が整っている。トトと同じ形だ。ちゃんと習った人の形だった。


 あたたかい光が、手のひらから出た。


 布に触れる前に、消えた。


「……」


 姉はもう一度やった。


 消えた。


 もう一度やった。


 消えた。


「姉さん」


「もう一回」


「無理だって」


「もう一回」


 四回目も、五回目も同じだった。


 姉の光は、俺の手から指二本ぶんくらいのところで、毎回同じように消えた。ろうそくを指でつまんだときの、あの消え方だ。


「リン」


 院長が言った。


「休みなさい」


「あと一回」


「リン」


「……はい」


 姉は手を下ろした。ひざの上で、片手がもう片方の手を握っていた。強く握りすぎて、つめのところが白くなっている。


「私、治癒しかできないの」


 姉が言った。俺に言ったのか、自分に言ったのかは、わからない。


「教会で、それだけ習ったの。それだけは、人並みより上手だって言われたの」


「うん」


「あんたに、効かない」


  


 ドランじいさんが来たのは、昼過ぎだった。


 じいさんは俺の手を見て、布を全部ほどいた。ほどいてから、板を当て直しはじめた。


「治癒は効かんかったろう」


「効かなかった」


「だと思った」


「じいさん、こういうの、できるのか」


「昔は、みんなできた」


 じいさんは俺の指を一本つまんで、ぐ、と押した。


 声が出た。人間が出す声ではない気がした。


「動くな」


「動いてない!」


「動いとる」


 二本目のときは、歯を食いしばった。三本目は、意識が半分どこかへ行った。


「終わりだ」


 じいさんは布を巻き直した。巻き方が、姉のより固い。


「くっつくのか」


「くっつく。まっすぐにはならん」


「それ、困るのか」


「剣を握るなら困る」


「握るよ」


「握るのか」


「握る」


 じいさんは俺の顔を見た。それから、手を見た。


「まっすぐにならないのか」


「わしは医者じゃない。鍛冶屋だ」


 じいさんは箱を閉じた。


「昔はな、骨を戻す専門の人間がおった。この村にも一人おった」


「今は」


「おらん。治癒があるからな。誰も習わんようになった」


「効かない人間が来たら」


「来んと思っとったんだろう」


  


 じいさんが帰ったあと、俺は天井を見ていた。


「姉さん」


「なに」


「トトは」


 返事が来るまでに間があった。桶の水を替える音がする。替える必要のない水だった。


「家に帰ってる」


「そうか」


「明後日、教会で」


「そうか」


 それ以上、聞かなかった。聞き方を思いつかなかった。


「ノア」


 院長が戸口から言った。


「あんたが寝てる間にね、トトのお母さんが来たよ」


 俺は院長を見た。


「なんで」


「あんたの様子を見に」


「なんで」


「二回言うんじゃないよ」


 院長は毛布のはしを直した。直す必要のないところだった。


「一時間くらい、そこに座ってた」


「何か言ってたか」


「何も」


 俺は、天井を見た。


 しばらく見ていたら、目のはしから水が出た。止め方がわからなかったので、そのままにしておいた。


 姉が毛布を引き上げて、俺の顔を隠してくれた。


  


 夕方、外に出た。


 左の肩が引きつる。焼けたところは治癒が効かなかったので、そのままだ。しばらく赤いままだと院長は言った。しばらくがどのくらいなのかは言わなかった。


 広場の焦げ跡は、もうきれいにされていた。


 俺を見つけると、みんなが寄ってきた。


「ノア!」


「起きたか!」


「あんた、うちの人を助けてくれて」


 パン屋のかみさんが、俺の折れていないほうの手を両手で握った。ヨナスは生きているらしい。


 誰かが卵をくれた。誰かが干し肉をくれた。俺は片手しか使えないので、持ちきれずに落とした。落としたら、三人が拾ってくれた。


「なあ、ノア」


 鍛冶屋のせがれが聞いてきた。


「あれ、どうやったんだ」


「どうやったって」


「魔法、消したろ。どうやって消したんだ」


「わからない」


「わからんことないだろ」


「本当にわからないんだ」


 男は笑った。俺が謙遜していると思ったらしい。


「教えたくないならいいけどよ」


「そうじゃなくて」


「わかったわかった」


 その少し向こうで、若い母親が子どもの肩を押さえて、後ろに下がらせた。


 目は合わなかった。


 合わなかったが、見えた。


 俺が卵を落としたとき、その母親だけが拾いに来なかった。それだけの話だ。


 それだけの話が、頭に残った。


  


 村の東のはずれに、白いものが見えたのは、そのときだ。


 人だった。


 白い上着に、緑の帯。


 一人ではない。


 道いっぱいに広がって、こっちへ歩いてきていた。数えようとして、途中でやめた。


 村の誰かが、俺の名前を呼ぶのをやめた。


 隣で、姉が背筋を伸ばした。


 教会の人間の背筋の伸ばし方だった。俺の知らない姉の伸ばし方だ。


「姉さん」


「うん」


「あれ、なに」


「浄化官」


「聞いたことない」


「聞いたことないほうがいいの」


 鐘は、鳴らなかった。


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