届かない
五十歩。
俺は走りながら数えていた。落ち着かないときは数える。子どものころからの癖だ。
四十。
トトの指が動く。左手が下、右手が上。手首を返して、そこで止める。
あいつは基礎が丁寧だ。俺と違って、ちゃんと習ったからだ。
三十。
途中で誰かにぶつかった。よけない。よけ方を思いつかない。
背中で怒鳴り声がする。何を言われたのかはわからない。
空気が鳴った。
トトの手の先から、光が伸びた。
細い。まっすぐ。教本の絵とそっくり同じ形をしている。
あいつ、うまくなってる。
二十。
光が外套の男に届いた。
男は避けなかった。手も上げなかった。立ったまま、それを受けた。
外套の裾が、少し揺れた。
それで終わりだった。
「人並みだな」
男が言った。
「そうだと言っただろ」
トトが答えた。
声がひっくり返っていた。あいつが強がるときの声だ。
十。
男が、手を横に払った。
払う。それだけだ。振りかぶってもいない。虫を追うときみたいな動きだった。
トトの体が、地面から浮いた。
音がしなかった。
いや、していたのだと思う。俺の耳が拾わなかっただけだ。
トトは荷馬車の手前まで飛んで、そこで止まった。
俺は膝をつく。
あいつの頭を持ち上げようとして、やめた。持ち上げていいものか、わからなかった。
「トト」
目が開いている。
「おい」
開いているのに、俺を見ていなかった。
口が動く。
息が漏れる音がした。「ぁ」とも「ぉ」とも聞こえた。言葉の形にはなっていない。
もう一度動いた。
今度は音も出なかった。
耳を近づける。近づけてから、意味がないことに気づいた。
あいつが何を言おうとしたのか、俺は一生わからない。
顔を上げた。
広場から、音が減っていた。
火はまだ燃えている。鐘もまだ鳴っている。それなのに、人の声だけがなくなっていた。
くわを持った男たちが、こっちを見ている。倒れたまま、こっちを見ている者もいる。
「トト……?」
誰かが言った。パン屋のかみさんの声だった。
「トトだろ、あれ」
「見るな」
「なんで、あの子が」
「見るなって」
「そこの」
声が降ってきた。
顔を上げると、外套の男が立っていた。近い。いつのまに、と思うくらい近い。
「お前も村のもんか」
俺は返事をしなかった。返事の仕方がわからなかった。
「いくつだ」
この男は、また同じことを聞く。
人を一人こうしておいて、次の人間に同じことを聞く。順番に、帳面をつけるみたいに。
「……お前」
俺の口が、勝手に動いた。
「今、なんて言った」
「数だ」
「そうじゃなくて」
立ち上がった。膝が笑っている。それでも立った。
「その前だ。こいつに、なんて言った」
「人並みだと言った」
「……そうか」
「事実だ」
「事実?」
「十二の男も、八の男も、同じように寝とる。数のとおりだ」
「数のとおりって、なんだよ」
「数のとおりは、数のとおりだ」
男は俺の後ろを見た。トトのほうだ。
「その小僧も、人並みに死んだ」
頭の中が、白くなった。
白い、というのが正しいのかどうかも、いまはわからない。とにかく音が消えて、鐘も、悲鳴も、火の音も、全部聞こえなくなった。
残ったのは、目の前の外套だけだった。
視界の端で、何かが動いた。
井戸のそばだ。ギースが、壁から背中を離していた。剣の柄に手をかけている。
その場から、一歩も出てこない。
「うあああああああああッ」
俺は走った。
武器はない。魔法もない。石も落としてきた。
何も持たずに、まっすぐ走った。
「馬鹿が」
男が片手を上げた。
その手のひらの前に、赤いものが集まった。集まって、丸くなって、こっちを向いた。
俺は手を前に出した。
考えていない。癖だ。
十のときからやっている。指を開いて、院長に教わった順番どおりに、頭の中でなぞる。
十年間、一度も何も起きなかった、あの形だ。
赤いものが、消えた。
音もしない。
ろうそくを指でつまんだときの、あの消え方だった。
俺は走るのをやめた。
やめるつもりはなかった。足が勝手に止まった。
手のひらを見た。
焦げていない。熱くもない。むしろ、冷たい。指の先が、しびれたみたいに冷えている。
息を吸った。喉が痛い。さっきまで叫んでいたせいだ。
肩が上下している。心臓の音が耳の裏で鳴っている。
それだけだ。それ以外、体に何も起きていない。
「……あ?」
男の声だった。
顔を上げた。
外套の男が、自分の手のひらを見ていた。俺ではなく、自分の手を。
「なんだ、今の」
男は手を握って、開いた。もう一度握って、開いた。
「おい。今のは、なんだ」
俺に聞いている。
俺が知るわけがない。
「知らない」
「知らんことがあるか。お前がやったんだろうが」
「知らないって言ってる」
「……」
男の後ろで、別の声がした。
「か、頭ぁ」
家に火を入れていた二人が、こっちへ寄ってきていた。若い。ひとりは俺と変わらない年に見える。
「今の、消えましたよね」
「見りゃわかる」
「消えるもんなんスか、あれ」
「消えん」
「でも」
「消えんと言っとる」
頭と呼ばれた男は、後ろを見ずに言った。
声は落ち着いている。落ち着いているのに、手はまだ握ったり開いたりしていた。
男の顔から、表情が抜けた。
怒っているのでもない。驚いているのでもない。もっと別のものだった。
自分の家に帰ったら、家がなかった。そういう顔だった。
「もう一回だ」
男が言った。
「なに」
「もう一回、やる」
「やめろ」
「お前が知らんと言うなら、確かめるしかなかろう」
「やめろって言ってる」
「頭ぁ、村のもんはもう」
「黙っとれ」
若いほうが下がった。ずるずると、足の裏で砂を鳴らしながら下がった。
「小僧」
「なんだよ」
「さっきの、もう一遍やってみせろ」
「やり方なんか知らない」
「知らんでもいい。やれ」
両手が上がった。
さっきより赤い。さっきより大きい。丸くならずに、平たく広がった。俺の背より高い。
広場の砂が、その方向に引っ張られて浮いた。
村の誰かが、悲鳴を上げた。
俺は、手を前に出したまま立っていた。
下ろし方が、わからなかった。




