火
煙は三本から増えていた。
数えようとして、やめた。
鐘が鳴りはじめる。村の鐘は年に二回しか鳴らない。祭りと、火事だ。
「ノア」
姉が俺の腕をつかんでいた。いつ台所から出てきたのか、わからない。
「子どもたち」
「わかってる」
井戸のほうへ走った。下の子が四人、おけのそばで固まっている。
「立て」
「やだ」
「立てって」
「靴」
「いいから」
一番小さいのが泣き出す前に、抱え上げた。
「マーサ先生、裏だ」
「裏のどこ」
「沢まで下りて」
「あんたは」
「あとで行く」
院長は言い返さない。この人は言い返すべきときと、そうでないときを知っている。
「先生、この子」
「持てるよ」
「持てないだろ」
「持てるって言ってるでしょう」
姉が二人抱えた。俺が一人。院長が一人の手を引いた。
さくを越えて、畑を突っ切る。麦がまだ低い。隠れるところがない。
背中のほうで、何かが割れる音がした。
振り返らなかった。
沢まで下りると、水の音で村の音が少し遠くなった。
子どもたちを岩の陰に座らせた。四人とも声を出さない。この子たちは、大人が本気で急いでいるときの顔を知っている。
「ノア」
姉が俺のそでを引いた。
「一緒に来て」
「トトがいない」
姉の手が止まった。
「見てないの」
「朝から見てない」
姉は俺の顔を見た。それから、井戸のほうを見た。もう見えないのに、見た。
「先生と、この子たちをお願い」
「ノア」
「すぐ戻る」
「そういうこと言う子じゃなかったでしょ」
「すぐ戻る」
姉が何か言いかけて、やめた。かわりに俺の頭をたたいた。朝と同じやり方で、朝より強く。
沢をかけ上がった。
途中で、ミラーばあさんの家の前を通った。
屋根が落ちていた。戸が内側に倒れている。
中から音がした。
「誰か」
声を出したのは俺だ。返事はない。
もう一度呼んだ。今度は名前で呼んだ。
やはり返事はない。
戸に手をかけたら、木がぼろりと崩れた。熱くて持てない。桶があれば水を運べる。桶は沢に置いてきた。
俺はそこで、十を数えた。
十まで数えて、走った。
村の広場に出て、最初に見たのは荷馬車だった。
うちの村のものではない。街道を行く商人の車だ。屋根が焼けている。輪が片方はずれて、傾いたまま燃えていた。
誰かがかくまったのだ。
追われてきた車を、誰かが追い返さなかった。それだけの話だった。
男が六人いる。
走っていない。歩いている。
二人が家に火を入れて、二人が逃げる村人を追い、一人は広場の真ん中であくびをしている。
最後の一人は、何もしていない。
村の男が十人ほど、くわや斧を持って固まっていた。ドランじいさんのせがれがいる。パン屋のヨナスもいる。
ヨナスが手を前に出した。
風が起きた。土がめくれて、砂が飛ぶ。あれはヨナスの得意なやつだ。祭りのときに子どもを驚かせて見せる。
あくびをしていた男が、片手を上げた。
砂が止まった。
止まっただけではない。逆に戻った。ヨナスの顔に、自分の砂が全部かかった。
ヨナスが倒れる。
「いくつだ」
声がした。
何もしていなかった男が、歩いてきていた。四十くらいだろうか。上等でも粗末でもない外套を着ている。武器を持っていない。
「え」
ヨナスが顔を押さえたまま言った。
「数だ」
男はヨナスの前に立った。
「お前の数だ。いくつだ」
「……十二」
「そうか」
男はうなずいた。うなずいて、ヨナスの頭をくつの裏で押した。それだけだ。ヨナスは動かなくなった。
男は隣に移った。
「いくつだ」
「八だ」
「そうか」
次。
「いくつだ」
「言わん」
「そうか」
次。
「いくつだ」
「三十一」
「嘘だな」
「本当だ」
「数は嘘をつかん。人は嘘をつく」
男は列の端まで来た。
そこにドランじいさんがいた。八十を超えている。この村で一番の年寄りだ。手ぶらだった。くわも斧も持っていない。
「いくつだ」
「測っとらん」
男の足が止まった。
「なんだと」
「わしが子どものころは、測る決まりがなかった。あんなもんは、あとからできた」
男はじいさんの顔を見た。それから、じいさんの手を見た。
口が動かない。しばらく、そのままだった。
「行け」
「なに」
「行けと言った」
じいさんは動かない。
「わしを勘定に入れんのか」
「入れる数がない」
男はじいさんの横を通り過ぎた。振り返りもしなかった。
俺はそれを、さくの陰から見ていた。
答える者もいた。黙る者もいた。どちらも同じように倒れた。
倒れなかったのは、数を持っていない年寄り一人だけだった。
俺はさくの陰にいた。
手を前に出した。
十年前の夜と同じように指を開いて、院長に教わった順番どおりに、頭の中でなぞる。
何も起きない。
十年前と、一字も違わなかった。
足元の石を拾った。
投げた。
届かない。
二つ目を拾ったところで、手がふるえているのに気づいた。石が指から落ちた。
視界の端に、ギースがいた。
村はずれの井戸のそばだ。剣を持って、壁によりかかって立っている。
動いていなかった。
ギースは広場を見ていた。正確には、外套の男を見ていた。
あの人が誰かを見て動かないのを、俺は初めて見た。
さけぼうとした。
さけぶ前に、広場で声が上がった。
「おい」
トトの声だった。
聞き間違えるはずがない。十八年、毎日聞いている声だ。
あいつは広場の真ん中に立っている。いつからそこにいたのか、わからない。両手が前に出ていた。指の形が教本のとおりに整っている。
あいつは基礎が丁寧だ。俺と違って、ちゃんと習ったからだ。
「そいつ、うちのパン屋だ」
外套の男が振り返った。
「そうか」
「返せよ」
「返す?」
男は少し考える顔をした。
「死んどらん。返すも何もない」
「じゃあ、そこどけ」
「どかんと言ったら」
「どかす」
「お前が」
「俺が」
男が首をかしげた。
「見た顔だな。さっき逃げとった中にいたか」
「逃げてない」
「逃げとったろう」
「取りに戻った」
「何を」
「これ」
トトが足元を指した。ヨナスの手から落ちた、焼けたパンの籠だった。
「それを」
「うちの村のだ」
「いくつだ」
トトの肩が、一度だけ動いた。
「人並みだ」
「そうか」
男はうなずいた。ヨナスのときと同じうなずき方だった。
トトの指が動く。
俺は走った。
畑を突っ切ったときより速く走った。人生でいちばん速かったと思う。
それでも、広場までは五十歩あった。




