↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/8

火

 煙は三本から増えていた。


 数えようとして、やめた。


 鐘が鳴りはじめる。村の鐘は年に二回しか鳴らない。祭りと、火事だ。


「ノア」


 姉が俺の腕をつかんでいた。いつ台所から出てきたのか、わからない。


「子どもたち」


「わかってる」


 井戸のほうへ走った。下の子が四人、おけのそばで固まっている。


「立て」


「やだ」


「立てって」


「靴」


「いいから」


 一番小さいのが泣き出す前に、抱え上げた。


「マーサ先生、裏だ」


「裏のどこ」


「沢まで下りて」


「あんたは」


「あとで行く」


 院長は言い返さない。この人は言い返すべきときと、そうでないときを知っている。


「先生、この子」


「持てるよ」


「持てないだろ」


「持てるって言ってるでしょう」


 姉が二人抱えた。俺が一人。院長が一人の手を引いた。


 さくを越えて、畑を突っ切る。麦がまだ低い。隠れるところがない。


 背中のほうで、何かが割れる音がした。


 振り返らなかった。


  


 沢まで下りると、水の音で村の音が少し遠くなった。


 子どもたちを岩の陰に座らせた。四人とも声を出さない。この子たちは、大人が本気で急いでいるときの顔を知っている。


「ノア」


 姉が俺のそでを引いた。


「一緒に来て」


「トトがいない」


 姉の手が止まった。


「見てないの」


「朝から見てない」


 姉は俺の顔を見た。それから、井戸のほうを見た。もう見えないのに、見た。


「先生と、この子たちをお願い」


「ノア」


「すぐ戻る」


「そういうこと言う子じゃなかったでしょ」


「すぐ戻る」


 姉が何か言いかけて、やめた。かわりに俺の頭をたたいた。朝と同じやり方で、朝より強く。


 沢をかけ上がった。


  


 途中で、ミラーばあさんの家の前を通った。


 屋根が落ちていた。戸が内側に倒れている。


 中から音がした。


「誰か」


 声を出したのは俺だ。返事はない。


 もう一度呼んだ。今度は名前で呼んだ。


 やはり返事はない。


 戸に手をかけたら、木がぼろりと崩れた。熱くて持てない。桶があれば水を運べる。桶は沢に置いてきた。


 俺はそこで、十を数えた。


 十まで数えて、走った。


  


 村の広場に出て、最初に見たのは荷馬車だった。


 うちの村のものではない。街道を行く商人の車だ。屋根が焼けている。輪が片方はずれて、傾いたまま燃えていた。


 誰かがかくまったのだ。


 追われてきた車を、誰かが追い返さなかった。それだけの話だった。


 男が六人いる。


 走っていない。歩いている。


 二人が家に火を入れて、二人が逃げる村人を追い、一人は広場の真ん中であくびをしている。


 最後の一人は、何もしていない。


 村の男が十人ほど、くわや斧を持って固まっていた。ドランじいさんのせがれがいる。パン屋のヨナスもいる。


 ヨナスが手を前に出した。


 風が起きた。土がめくれて、砂が飛ぶ。あれはヨナスの得意なやつだ。祭りのときに子どもを驚かせて見せる。


 あくびをしていた男が、片手を上げた。


 砂が止まった。


 止まっただけではない。逆に戻った。ヨナスの顔に、自分の砂が全部かかった。


 ヨナスが倒れる。


「いくつだ」


 声がした。


 何もしていなかった男が、歩いてきていた。四十くらいだろうか。上等でも粗末でもない外套を着ている。武器を持っていない。


「え」


 ヨナスが顔を押さえたまま言った。


「数だ」


 男はヨナスの前に立った。


「お前の数だ。いくつだ」


「……十二」


「そうか」


 男はうなずいた。うなずいて、ヨナスの頭をくつの裏で押した。それだけだ。ヨナスは動かなくなった。


 男は隣に移った。


「いくつだ」


「八だ」


「そうか」


 次。


「いくつだ」


「言わん」


「そうか」


 次。


「いくつだ」


「三十一」


「嘘だな」


「本当だ」


「数は嘘をつかん。人は嘘をつく」


 男は列の端まで来た。


 そこにドランじいさんがいた。八十を超えている。この村で一番の年寄りだ。手ぶらだった。くわも斧も持っていない。


「いくつだ」


「測っとらん」


 男の足が止まった。


「なんだと」


「わしが子どものころは、測る決まりがなかった。あんなもんは、あとからできた」


 男はじいさんの顔を見た。それから、じいさんの手を見た。


 口が動かない。しばらく、そのままだった。


「行け」


「なに」


「行けと言った」


 じいさんは動かない。


「わしを勘定に入れんのか」


「入れる数がない」


 男はじいさんの横を通り過ぎた。振り返りもしなかった。


 俺はそれを、さくの陰から見ていた。


 答える者もいた。黙る者もいた。どちらも同じように倒れた。


 倒れなかったのは、数を持っていない年寄り一人だけだった。


 俺はさくの陰にいた。


 手を前に出した。


 十年前の夜と同じように指を開いて、院長に教わった順番どおりに、頭の中でなぞる。


 何も起きない。


 十年前と、一字も違わなかった。


 足元の石を拾った。


 投げた。


 届かない。


 二つ目を拾ったところで、手がふるえているのに気づいた。石が指から落ちた。


  


 視界の端に、ギースがいた。


 村はずれの井戸のそばだ。剣を持って、壁によりかかって立っている。


 動いていなかった。


 ギースは広場を見ていた。正確には、外套の男を見ていた。


 あの人が誰かを見て動かないのを、俺は初めて見た。


 さけぼうとした。


 さけぶ前に、広場で声が上がった。


  


「おい」


 トトの声だった。


 聞き間違えるはずがない。十八年、毎日聞いている声だ。


 あいつは広場の真ん中に立っている。いつからそこにいたのか、わからない。両手が前に出ていた。指の形が教本のとおりに整っている。


 あいつは基礎が丁寧だ。俺と違って、ちゃんと習ったからだ。


「そいつ、うちのパン屋だ」


 外套の男が振り返った。


「そうか」


「返せよ」


「返す?」


 男は少し考える顔をした。


「死んどらん。返すも何もない」


「じゃあ、そこどけ」


「どかんと言ったら」


「どかす」


「お前が」


「俺が」


 男が首をかしげた。


「見た顔だな。さっき逃げとった中にいたか」


「逃げてない」


「逃げとったろう」


「取りに戻った」


「何を」


「これ」


 トトが足元を指した。ヨナスの手から落ちた、焼けたパンの籠だった。


「それを」


「うちの村のだ」


「いくつだ」


 トトの肩が、一度だけ動いた。


「人並みだ」


「そうか」


 男はうなずいた。ヨナスのときと同じうなずき方だった。


 トトの指が動く。


 俺は走った。


 畑を突っ切ったときより速く走った。人生でいちばん速かったと思う。


 それでも、広場までは五十歩あった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。