第8話:二十年前にも、消えた署名がある
ハンネスさんは、朝いちばんに来られた。前と同じように帽子を取って、前と違って、脇に紙束を抱えておられた。
「これを」
修理台に置かれたのは、綴じの緩んだ紙の束だった。表紙に「保証台帳 写」とある。角が擦り切れて、紙が飴色になっていた。
「二十年前の写しです。寮の書庫の、いちばん下の棚に」
「ハンネスさん、これは持ち出しては」
「写しですので。原本ではありません」
言い訳の口調だった。ご自分でも分かっておられるのだと思う。わたしは椅子を出して、茶を淹れた。今度は最初から二つ淹れた。
紙束を開く。
二十年前の台帳は、いまより薄い。品数が三百に届いていない。品名の欄の隣に署名の欄があって、そこに名前が並んでいる。
筆跡はほとんどが同じだった。セレスティア・ノルデン。三百点近くのうち、二百四十点ほどが母の署名だった。
「……母は、こんなに」
「首席でしたから」
わたしは頁をめくった。灯り、暖房、湯沸かし、氷室。いまと同じ品が、いまと同じ順番で並んでいる。台帳の並び順は二十年変わっていない。
その順番を作ったのが母だと、昨日ハンネスさんから聞いたばかりだった。
順番の意味は、頁を見れば分かる。灯りの列がまず来て、そのあとに加熱系が来る。灯りは魔力線の末端にあるから、触っても上流に影響しない。加熱系は上流だから後回しにする。触ってよい順に並んでいる。
この順番を作るには、王宮の魔力線を全部見て回らなければならない。一年では終わらない。母は二十四かそこらでそれをやっている。
自分が五年かけて「覚えた」ものを、母は「作った」のだと、初めて分かった。途中で、指が止まった。署名の欄が、空いている。
一行だけではない。そこから先、二十行ほどが白いままだった。
「ここは」
「そこからが、抹消された分です」
「斜線が、ありません」
ハンネスさんは茶碗を持ち上げて、飲まずに置かれた。
「写しを取り直したのです。斜線ごと写すと見苦しいということで、抹消のあった年の翌年に、寮長の指示で」
わたしは白い欄を指でなぞった。斜線があれば、そこに誰かの名前があったことは分かる。空白は、最初から誰もいなかったように見える。
「消したうえに、消したことも消したのですね」
「……はい」
わたしはしばらく、その二十行を見ていた。結界。西翼の階段灯。医務室の保温器。産室の保温器。厨房の氷室。
空白の二十行を、わたしは何度か数え直した。二十行ではなかった。二十三行だ。数えるたびに一つずつずれるのは、たぶん、数えたくないからだと思う。
二十三点。母が最後に署名していた品。いまの台帳では、この二十三点にわたしの名前が入っている。入っていた。三日前に、斜線で消された。
同じ二十三点が、二十年の間に二度、無署名になったことになる。
「ハンネスさん」
「はい」
「二十年前、この二十三点はどうなりましたか」
「……順に、署名が入り直しました。半年ほどかけて」
「どなたが」
「寮の者が、手分けして」
わたしは頁の先を見た。抹消された二十三行のあとに、新しい署名が並んでいる。筆跡がばらばらだ。五人か六人で分けたのだろう。
結界の欄は、いちばん最後に埋まっていた。日付が、他より四月ほど遅い。誰も触りたがらなかったのだと思う。
二十年前。わたしは二つだ。母は王宮を辞めて、この工房を開いた。理由は、そういうこともあるのよ、で終わっている。
「ハンネスさん。母は、何をしたのですか」
「……何も」
「では、なぜ」
ハンネスさんは黙っておられた。わたしは訊き方を変えた。
「昨日、母も同じことを言ったと仰いました。何を言ったのですか」
その方の手が、茶碗の縁でぴたりと止まった。
「『ここに書いたものは消えません』と」
わたしは息を止めた。
「この工房の台帳を指して、そう仰いました。二十年前の、ちょうどこの季節です」
修理台の上には、いま、わたしの帳面が開いている。七行書いてある。
「……母も、消されたのですね」
「私は」ハンネスさんは首を振られた。「私は、何も見ておりません。あの日、寮の書庫におりましたが、何も」
その言い方で、十分だった。
「寮長は、当時から寮におられましたか」
「メッツ様は、当時は次席でした」
次席。母は首席。
わたしは頁を戻して、抹消の始まる一行前を見た。最後の母の署名の隣に、日付がある。
その日付の下に、別の筆跡で小さく書き込みがあった。墨の色が違う。あとから足したものだ。
——査収済。
「ハンネスさん。この『査収済』は」
「……納入品の検査が済んだ、という意味です。魔石の受け入れのときに書きます」
「署名の抹消と、同じ日ですね」
「そう、ですな」
ハンネスさんは、初めてその書き込みに気づいたような顔をされた。本当に気づいていなかったのか、気づかないことにしていたのかは分からない。
その方は茶を飲み干して、帽子をかぶられた。
「ハンネスさん。もうひとつだけ」
「……はい」
「母が寮を辞めた年に、魔石の納入元は変わりましたか」
ハンネスさんは、しばらく答えられなかった。
「変わりました」
「どちらへ」
「新しい商会です。値が三割ほど安く、量が出せると」
「名前は」
「……当時は、まだ小さな商会でしたので」
答えになっていなかった。答えになっていないことを、その方も分かっておられた。
「ノルデン嬢。あまり、掘らん方がよろしい」
「掘るつもりはございません」
「そう仰る方が、いちばん掘られる」
ハンネスさんは紙束を置いたまま、戸口へ歩かれた。
「持ち出しは、まずいのでは」
「……失くしたことにします」
戸が閉まった。
わたしは二十年前の台帳を、修理台の隅に積んだ。午後、客が三人来た。
街灯の接点。呼び鈴の座。子供の玩具の魔石。玩具は五ルグと言ったら、母親が三ルグしか持っていなかったので、三ルグにした。
三件とも札を書いた。控えの紐が十二枚になった。書きながら、二十年前の写しのことを考えていた。
あの写しには斜線がない。斜線がなければ、消されたことも消える。二十年経てば、母がそこにいたことを覚えている人はハンネスさんくらいになる。
では、いまの台帳はどうなるだろう。いまはまだ斜線が引いてある。斜線は、消した跡だ。跡があるうちは、誰かが「ここに誰かがいた」と読める。
けれど、二十年後に写しを取り直せば、そこも白くなる。わたしは自分の帳面を開いて、八行目を書いた。街灯、呼び鈴、玩具。
この帳面は、誰も写しを取らない。取る人がいないということは、書き換える人もいないということだった。
白いままの欄というのは、こんなに落ち着かないものなのか、と思った。
斜線は「消した跡」ですが、空白は「最初から誰もいなかった」という顔をします。写しを取り直せば、消したことまで消える。——この作品でいちばん薄気味の悪い仕掛けは、悪人ではなく書式のほうです。
数え直すたびに数がずれるのは、数えたくないからです。二十三行。
次回、王宮の五年ぶんの実績が公示に貼り出されます。載る名前は、一つだけです。




