第6話:温まらない暖房具
その日の朝いちばんの客は、老夫婦だった。
ご主人が台車を押して、奥様が横を歩いて、二人がかりで暖房具を運んでこられた。据置型の、腰の高さくらいある鉄の箱だ。
「もう夏だというのに、と思われるでしょうがね」
ご主人が息を切らしながら仰った。
「冬に温まらんかったんです。今年こそ直して、次の冬に間に合わせようと」
「賢明だと思います。冬に壊れたものを冬に直すのは、いちばん高くつきますので」
わたしは扉を開けて、中を見た。魔石は二個。どちらも半分ほど残っている。熱の伝わる板も、送りの羽根も、詰まりはない。
念のため、順番に確かめていった。
まず魔石の座。指を当てると、金属がひやりとする。次に接点。煤はない。送りの羽根を手で回すと、油が差してあって滑らかに回った。板の継ぎ目に隙間もない。
「よく手入れをしておられますね」
「女房が、毎年秋に開けとります」
「開けられるのですか」
「見よう見まねで。悪いことでしたか」
わたしは首を横に振った。
「悪くありません。ただ、羽根の軸に油を差しすぎると埃を吸いますので、次からは布で拭くくらいで」
「はあ、なるほど」
試しに点けてみると、ちゃんと熱くなった。
「……温まりますね」
「ええ、そこでは温まるんです」
奥様が仰った。
「うちに置くと、温まらないんですよ」
わたしは手を止めた。
「お宅では、どちらに置いておられますか」
「窓際です。冬は窓が寒いから、そこに」
「窓と、どのくらい離しておられますか」
「くっつけて。狭いもので」
なるほど。
「あと、失礼ですが、扉のすぐそばでしょうか」
「そう、そう。ようご存知で」
わたしは箱の背面を指した。黒く煤けた跡が、うっすら二本ついている。
「これは、熱が壁に当たって戻ってきた跡です。窓や壁にくっつけると、出た熱の半分が壁を温めます。壁は外に面していますから、その熱は外へ逃げます」
「はあ」
「扉のそばですと、開け閉てのたびに温めた空気が出ていきます。つまり、この暖房具はずっと、外を温めておりました」
ご主人と奥様が顔を見合わせた。
「壊れとらんのですか」
「壊れておりません。ここまで手入れの行き届いた品は、めったに来ません」
「そりゃ、女房が毎年」
「では、置き場所を三尺ほど内へ寄せて、扉から離してください。それだけで、去年と同じ魔石で倍ほど温まります」
奥様が、口を開けたまま黙っておられた。それからご主人の腕を叩いた。
「あんたが窓際がええ言うたんやろ」
「寒いのは窓やと思うたんや」
「窓が寒いから窓を温めてどないすんの」
その言い合いは工房を出るまで続いた。台車を押しながらまだ続いていた。
二人が言い合っているあいだに、わたしは羽根の軸の油を拭いて、板の継ぎ目を締め直した。半刻もかからない仕事だ。
王宮では、こういう品はまず来なかった。
王宮の魔道具は使う人と直す人が完全に分かれていて、使う側は箱を開けない。だから、置き場所が悪いという理由で温まらない、という故障はそもそも起きない。設置は寮が決めるからだ。
町の品は、使う人が毎日触っている。触っているぶん、癖がつく。癖は故障ではないけれど、故障と同じ顔をしてやってくる。
母がこの工房で何を直していたのか、少しだけ分かった気がした。母が直していたのは、たぶん、品ではなかった。
お代はいただかなかった。何も直していないので、書く欄がない。
ただ、受領札は書いた。品名と、症状と、「異常なし・据置位置の助言」と書いて、保証の欄に自分の名前を入れた。次の冬にまた温まらなかったら、それはわたしの落ち度になる。
控えの紐が、これで七枚になった。夕方、暖房具を運び出すときに扉の内側を最後に一度見て、わたしは手を止めた。
魔石の一つに、見慣れない刻印があった。半円をふたつ重ねた形。魔石の側面に、浅く押してある。
「奥様。この魔石は、どちらで」
「ああ、それね。去年、安いのが出とったから買い足したんよ。市場の、大きいお店の」
「お店のお名前は」
「クレーマー、いうたかね」
わたしはその刻印を、しばらく見ていた。
魔石には産地ごとの癖がある。同じ大きさでも、澱み方が違う。王宮では納入元の刻印を全部覚えさせられた。半円をふたつ重ねた形は、覚えのない印だった。
「何かありましたか」
「いえ。よい魔石です。今年の冬は、置き場所だけお気をつけて」
言ってから、よい魔石です、と言い切ったことが少し引っかかった。わたしはその魔石を手に取って、窓の光にかざした。
表面はきれいだ。粒も揃っている。ただ、芯のあたりに細い筋が一本走っている。光の角度を変えると消えて、また出る。
この筋を何と呼ぶのか、寮では教わらなかった。教わらなかったのは、寮に入ってくる魔石にこれが無かったからだ。
「奥様。この魔石は、いつ買われましたか」
「去年の、秋のはじめ」
「冬のあいだ、暖房はよく点いておりましたか」
「点いとったよ。温もらんかっただけで」
「……そうですか」
九月ほど使って、まだ半分残っている。罅があるにしては保っている。ということは、この一本はまだ広がっていない。
広がっていないだけなのか、広がらないものなのかは、一つ見ただけでは分からない。老夫婦は満足して帰っていかれた。
戸を閉めてから、わたしは自分の予備の魔石を並べてみた。三つとも、王宮の頃に買った古い在庫だ。刻印は、どれも違う。
王宮に入る魔石は、納入のたびに検査を受ける。粒の揃い方、澱みの入り方、刻印。合格したものだけが台帳に載り、納入元の名前が記録される。合格しなかったものは返す。
その検査を、五年のあいだ、わたしは一度もやったことがなかった。
検査は主任の職掌だった。検査の済んだ魔石が箱で届いて、わたしはそれを使う。使うだけだ。だから、市場に何が出回っているかを、わたしは知らない。
半円をふたつ重ねた刻印。紙に写してみた。線が二本。単純すぎて、覚えにくい形だった。覚えにくい形の刻印は、真似がしやすい。
母の頃の帳面がどこかにあるかもしれないと思って、抽斗を順に開けた。三つ目に、古い紙束が入っていた。母の字で、納入元の刻印がずらりと写してある。二十いくつ。
その中に、半円ふたつはなかった。二十年前には、なかった刻印だ。明日、市場へ行ってみようと思った。
故障には、持ち主の暮らしが残ります。窓が寒いから窓際に置く。理屈は通っていて、通ったまま外を温めていた。町の品を直すというのは、たぶんそういう仕事です。
夫婦の言い合いが台車を押しながら遠ざかっていくところ、書いていていちばん楽しい場面でした。
次回、市場へ。半円をふたつ重ねた刻印の魔石を、九個買います。四日ぶんの稼ぎが飛びます。




