第5話:寮からの使者
ハンネスさんは、帽子を膝に置いたまま切り出された。
「寮に、戻っていただけませんか」
わたしは湯を沸かす手を止めた。結局お茶を淹れることにしたのは、その方が帰る気配を見せなかったからだ。
「わたしの署名は、抹消されました」
「復活させられます。寮長の裁量で」
「では、寮長のご意向ですか」
「……いえ」
ハンネスさんは首を横に振られた。
「私が、勝手に参りました」
湯が沸いた。わたしは茶を淹れて、ひとつを差し出した。ハンネスさんは受け取って、飲まずに膝に置かれた。
「昨日から、寮が回っておりません」
「そうですか」
「東廊下の灯りが二本落ちました。三本目が今朝です。若い者が直そうとしましたが——」
「触れませんね」
「触れません」
ハンネスさんは、茶碗の縁を親指でなぞっておられた。
「無署名の品に手を入れれば、責任がその者に移る。壊れれば弁済です。灯り一本の弁済なら、まだ払えます。ですが、あれは全部繋がっている。東廊下の灯りは配線が王族棟の湯沸かしと共通で、その先に厨房の氷室がある。一本触って全体が落ちたら、若い者ひとりの給金では二十年かかっても足りません」
わたしは頷いた。そのとおりだ。だからわたしも、五年のあいだ順番を考えて触ってきた。
王宮の魔道具は、一点ずつ独立してはいない。灯りの列は一本の魔力線を分け合っていて、その線は上流で暖房や湯沸かしと繋がっている。どこか一点の座がずれると、そのぶんの負荷が隣へ回る。隣が耐えられなくなると、また隣へ回る。
わたしが五年かけて覚えたのは、直し方ではなく順番だった。どこから触れば連鎖が起きないか。どこは冬まで待てるか。台帳の並び順は、そのまま触ってよい順番になっている。
二十年変わっていない並び順を作ったのが誰なのかは、考えたことがなかった。
「今朝、若い者に触らせようとした方がおられました」
「主任ですか」
「……はい」
ハンネスさんは、そこで初めて茶を一口飲まれた。
「その者は、断りました。断って、辞表を出しました」
わたしは自分の茶碗を持ったまま、しばらく黙っていた。
「お名前は」
「ヨナスです。三年目の」
「存じております。手が丁寧な方でした」
覚えている。魔石の座を磨くとき、必ず二度拭く癖のある子だった。一度で足りるのに、と言ったら、一度だと自分が信じられないので、と答えた。
「ノルデン嬢」ハンネスさんは顔を上げられた。「戻っていただければ、全部元に戻ります。灯りも、ヨナスの辞表も」
わたしは茶を飲んだ。
「戻りません」
言ってから、思ったより静かな声が出たことに自分で驚いた。
「……お怒りですか」
「いいえ」
怒ってはいなかった。これは本当だ。
「戻ったところで、同じ台帳に同じように署名を書くだけです。書けば、また消せます。次に消されるときにまた同じことが起きて、そのときにはヨナスさんはもう寮におられません」
ハンネスさんが、口を開いた。何も言わずに閉じた。あの日、大広間で見たのと同じ動きだった。
「戻れば、私が困らなくなります」
しばらくして、そう仰った。
「ヨナスが戻り、灯りが点き、主任は面目を保ち、寮長は何もなかったことにできる。困るのはノルデン嬢だけです」
「そうですね」
「……ひどい話を、しに来ました」
「ハンネスさんが考えたことではないでしょう」
「私が考えて、私が歩いてきました」
その方は膝の帽子を握り直された。
「二十年前も、同じでした。誰かが決めて、私は歩いただけだと思っておりました」
わたしはその言葉を、そのまま通り過ぎるところだった。
「二十年前」
「……いえ」
ハンネスさんは首を振られた。振り方が速すぎた。
「わたしは、この台帳に書きます」
わたしは修理台の上の帳面を指した。開いたままの頁に、三行だけ書いてある。携行灯、携行灯、秤。
「三点しかありませんが、ここに書いたものは消えません。消しに来る方がいませんので」
ハンネスさんは、その帳面をじっと見ておられた。それから、ひどく小さな声で仰った。
「……セレスティア様も、同じことを仰いました」
わたしは顔を上げた。
「母が?」
「いえ」
ハンネスさんは急に立ち上がって、帽子をかぶられた。
「失礼しました。お邪魔を」
「ハンネスさん」
「茶を、ありがとうございました」
止める間もなく、戸が閉まった。わたしは開いたままの戸口を見ていた。それから、飲みかけの茶碗が二つ残った修理台を見た。
母は王宮の首席調律士で、わたしが物心つく前に辞めた。理由は訊いたことがない。訊いても、そういうこともあるのよ、としか言わない人だった。
午後は、客が二人来た。
一人は近所の下宿屋の女将さんで、湯沸かしの温度が上がりすぎるという話だった。座が深く沈んで、魔石が接点に押しつけられている。厚みの合う敷板を挟んで直した。四十ルグ。
もう一人は、通りがかりの荷馬車の御者だった。荷台の照明が点かない。見たら魔石が入っていなかった。落としたのだろう。予備を一つ売って、十八ルグ。
どちらも札を書いた。秤の分と合わせて、控えの紐が五枚になった。女将さんは帰りぎわに、貼り紙のない窓を見て、看板はどうするのかと訊かれた。
考えていなかった。母の頃の看板は、外の壁に打ちつけたまま残っている。塗りが剥げて、字がほとんど読めない。
夕方、脚立を出して看板を下ろした。布で拭くと、下から母の字が出てきた。
——ノルデン工房。
その下に、小さく一行。——直せるものは、直します。わたしはしばらく、その一行を見ていた。打ち直して、元の場所に掛けた。
その晩、アイゼン殿は三挺目の携行灯を持ってこられた。開けて、魔石を見て、接点を見て、枠を振ってみた。どこも悪くなかった。
「……異常が、ありません」
「そうか」
「点検料として五ルグいただきますが、修理はしておりませんので、お返しした方が」
「いい。取ってくれ」
わたしは五ルグの札を書いた。
「アイゼン殿」
「なんだ」
「壊れていないものを持ってこられても、五ルグしか書けません」
「それでいい」
「……そうですか」
その方は札を受け取って、しまわれた。戸口で、一度だけ振り返られた。
「王宮の灯りが落ちたら、どうなる」
唐突だった。
わたしは少し考えて、答えた。
「大広間の吊り灯でしたら、まず暗くなります。それだけです」
「それだけか」
「はい。ただ、暗い場所で二百人が同時に動くと、階段で人が転びます。夜会の階段は、手すりが片側にしかありませんので」
アイゼン殿は頷いて、出ていかれた。その頷き方が、たぶん、答えを知っている人の頷き方だった。
書きながら、ハンネスさんの言葉が引っかかっていた。セレスティア様も、同じことを仰いました。
母は何を言ったのだろう。そして、なぜハンネスさんは、それを言いかけて逃げたのだろう。
「戻れば、私が困らなくなります」。ハンネスさんは、ひどい話をしに来たことを自分で分かっている人です。分かっているから、その言葉を自分の口で言う。この作品でいちばん書きにくい人でした。
塗りの剥げた看板の下から出てきた一行は、母親の字です。——直せるものは、直します。この一行は、最後まで効きます。
次回、温まらない暖房具。壊れていないのに温まらない品を、皆さまならどう直しますか。




