第42話:祖父の、最後の客
箱は、道具箱だった。
片手で提げられる大きさで、うちの箱より一回り小さい。留め金が一つ、根元から折れていた。折れた面が黒い。折れてから、ずいぶん経っている。
「祖父の。十年、開けない」
「開けられないのですか」
「留め金、折れた。無理に開けると、蓋、割れる」
わたしは宿の卓に布を敷いて、箱を置かせていただいた。留め金は、真鍮の板を折り曲げて作ってある。折り曲げの内側に丸みを残した曲げ方で、角が立っていない。角を立てると、そこから罅が入る。
この曲げ方を、わたしは知っていた。母の曲げ方だ。
二十年の開け閉めに耐えて、十年前に折れた。折れる直前まで、毎日開けられていたのだと思う。折れた面の黒さは、そういう黒さだった。
うちの留め具は、いちばん細い型が十二ある。細すぎるので二枚を重ね、合わせ目を叩いて締めて一枚の板にした。それを、折れた形に合わせて曲げる。内側に丸みを残す。母がそうしていたとおりに。
半刻かかった。合わせて留めた。指で押すと、きちんと噛んだ。
「開きます」
「あなた、開ける」
「わたしがですか」
「祖父の、道具。祖父、あなたの母、会いました。だから」
わたしは蓋に手をかけた。十年ぶんの空気が、出てきた。
中は、道具だった。抜き差しの工具が五本、鑢が三本、細い鏨。布に包んだ調律棒が一本。先が擦れていた。擦れ方が、母の棒と同じだった。同じ角度で、同じ側だけ減っている。
箱の底に紙が二枚敷いてあった。
一枚目はこちらの文字で、こちらの紙に書いてある。
保証台帳 記帳の方式について
一、品名
二、症状
三、お代
四、日付
五、直した者の名前
母の字だった。
二枚目はエルツの文字で、字が乱れていた。書いては消してある。マレーネさんがそれを取って、しばらく黙って見ていた。
通訳の子を呼んで、話を聞いた。彼女はこちらの言葉で言えるところは自分で言い、言えないところで詰まると、そこを子が訳した。
「祖父、二十年前、あなたの国、三月いました。魔石、納める。組合の、使い」
「王宮に、入られましたか」
「入りました。部屋、後ろ。座らない。立っていた」
参観、一名。名前の書いていない、あの一行だ。
「そこで、女の人。台帳、線、引きました」
マレーネさんは、指で卓に線を引く仕草をした。定規を当てる手つきだった。誰かがそうしているのを聞いて、覚えたのだと思う。
「祖父、部屋、出ました。その人、追いかけました。廊下」
「母を」
「はい。祖父、言いました。『なぜ、自分で消す』。その人、答えました」
彼女は、そこで詰まった。通訳の子が、続きを訳した。
「『この国が要らないと言うなら、そちらで使ってください』——と、その方は仰った、と」
わたしは卓の上の一枚目の紙を見た。母はあの日、自分の署名を二十三行消した。消した足で廊下に出て、他国の職人に自分の帳面の書き方を渡した。
「祖父の箱、留め金、折れていました。その日。その人、言いました。『お預かりします』。夜、直した。朝、返した。札、切った。お代、無い」
組合の台帳の一行目に貼ってあった、あの札だ。
「祖父、帰りました。法、作りました。第一条、書きました。『署名は、直した者のもの。誰も、消せない』」
もう一つ、訊かなければならないことがあった。
「マレーネさん。お祖父様は、十年前、わたしの母の工房へいらっしゃいましたか」
彼女は、頷いた。
「行きました。冬。祖父、着いた。三日、遅い」
三日。母が死んで、三日あとだ。
「工房、閉まっていました。祖父、隣の家、鍵、借りました。帳面、十冊。最後の頁、開きました。祖父、書きたかった。『あなたの仕事、こちらの台帳、一行目にあります』。でも——祖父、あなたの国の文字、書けない」
わたしは目を閉じた。
母の帳面の十冊目。最後の頁の、下の隅。読めない一行と、輪が二重の印。書きたいことが書けなかった人が、せめて自分の名前と、自分の作った組合の印だけ置いていった一行だった。
「祖父、帰る道、この箱、落とした。留め金、折れた。祖父、それから、箱、開けない。仕事、しない。九年前、死にました」
しばらく誰も何も言わなかった。
アイゼン殿は戸口の側の壁にもたれて立っておられた。話のあいだ、一度も動かれなかった。
マレーネさんが二枚目の紙を卓の上で伸ばした。乱れた字のほうだ。
「祖父の、手紙。下書き。出した手紙、これ」
「どなたに」
「あなたの母。十一年前」
わたしはその数字を聞いて手を止めた。十一年前。母が二枚目の申立書を書きかけて、その年の冬に倒れた年だ。
「あなたの母、手紙、書きました。関の代書屋、訳しました。『そちらの制度は、無事ですか。二枚目の申立書に、前例として書きます』」
「……母は、そう書いたのですか」
「はい。祖父、返事、書きました。ここ」
彼女は、下書きの一行を指した。通訳の子が、訳した。
「『制度は、無事です』」
マレーネさんはそこで自分の手を膝の上で握った。
「嘘です。その年、テオドール、第十一条、足しました。代理。祖父、反対した。総会、負けた。祖父、それ、書かなかった。あなたの母、病気、知っていた。だから」
通訳の子が最後の一文を整った言葉で訳した。
「祖父は、あなたのお母様に一つだけ嘘をつきました。制度は無事だと。無事ではありませんでした」
母はその返事を読んで倒れ、次の年に死んだ。二枚目の申立書は、書きかけのままだった。
わたしはそれ以上何も訊かなかった。訊かなくても、分かった。この人のお祖父様は、ハンネスさんと同じことをした。言えなかった。言えないまま三日遅れて工房に来て、名前だけ書いた。
マレーネさんは荷からもう一冊、綴じた紙を出した。
「法の、原本。館の書庫。わたし、持ち出した。怒られる。でも」
エルツの文字で書かれた綴りだった。頁を繰ると途中に一枚だけ、色の違う紙があった。透かすと、繊維の筋が横に走っている。周りの頁は縦だった。漉いた水も、年も、違う紙だ。
「第十一条」
彼女は、そう言った。
わたしはその一枚をしばらく見てから、綴りを閉じて彼女に返した。
「明後日の総会に、これをお持ちください。わたしは、告発はいたしません」
「では、何、する」
「一点、直します」
マレーネさんは、しばらくわたしを見ていた。見てから、戸口のほうを顎で示した。
「あの人、いつも、立っています」
「立つのが、お仕事だそうです」
「あの人、夜、館の工作台、借りた。真鍮、削る。何、作る?」
「……存じません」
アイゼン殿は壁から背を離して、荷を持ち直された。それだけだった。
翌朝、宿を出たら館の前に人が立っていた。
随員が四人。上着に飾りのない方が一人。手袋を外して、手に持っておられる。その方は館の入口の上の印を指を動かさずに二度目で往復してから、こちらを見られた。
「ノルデン嬢」
「フォス主査」
その方は少しだけ疲れた顔をしておられた。
「視察になりました。日程と、随員と、報告書がついてまいりました」
留め金の曲げ方が、母の曲げ方でした。内側に丸みを残す。角を立てると、そこから罅が入ります。二十年もって、十年前に折れて、それから箱は一度も開いていません。
箱の底の二枚目の紙は、出された手紙の下書きです。「制度は、無事です」。母はその返事を読んで、二枚目の申立書を書きかけのまま倒れました。嘘をついた人は、三日遅れて工房に来て、名前だけ書いて帰りました。
次回、総会。告発はいたしません。一点、直します。




