第39話:留守を預かる者の署名
三十日という数字が出るまでに、二日かかった。
往路が三日。関で一日。復路が三日。合わせて七日。組合の館で台帳を見て、話をして、こちらの言い分を通すか通さないかを決めるのに、どれだけかかるか分からない。分からないので、二十日置いた。締めて二十七日。三日を予備にして、三十日。
問題は、その三十日に、四百七十二点のうち二百三十点ほどが残っていることだった。わたしは、朝のうちに帳面を広げて、残りの日数と点数を並べた。
二十一日目。台帳(二)は二百二十六行。残り二百四十六点。四十七日の約束まで、あと二十六日。
わたしが抜けると、届かない。
「二人で、一日七点というところですな」
ハンネスさんが、帳面を覗き込んで仰った。
「私が四点、ヨナスさんが三点。若い方が速いのですが、あの方には朝の並びの整理もありますので」
「二百四十六点を七点で割ると、三十六日です」
「四十七日の約束が、五十七日になりますな」
わたしは算盤を弾く手を止めた。約束というのは、四百七十二点を四十七日で終える、というものだ。ラング寮長に、わたしが自分で言った数字だった。
言った数字を守れないなら、言わないほうがましだった。母の帳面には、そういう記述が一行も無い。四千件のどこにも、「間に合わなかった」と書いてある行が無い。無いのは、間に合わせたからだと思う。
「では、行きません」
わたしがそう言うと、ヨナスさんが工具箱を置いた。
「ノルデン嬢」
「はい」
「札の欄を二つにしたのは、どなたですか」
わたしはその方を見た。
「保証を負うのは工房で、直した者の名前は手つきを残すためだ、と仰いました。私はあのとき、切れませんと申し上げました。いまは切っております」
「切っていただいております」
「では、三十日ぶんも切ります」
ハンネスさんが、その横で頷かれた。
「ノルデン嬢。あなたが留守のあいだ、札の工房の欄には何と書けばよろしいか」
「ノルデン工房です」
「では、直した者の欄には」
「……ケラー・ハンネス、と」
「では、変わることが何もございませんな」
わたしはそこで少し黙った。
変わることが何もない。そうなるように作った。作ったのは自分なのに、いざ抜けるとなると、自分がいないと回らないほうが安心する気持ちが、どこかにあった。
その気持ちはたぶん、いちばん危ないものだ。
母のときと同じになる。
「五十七日で、よろしいでしょうか」
「よろしくございません」
ハンネスさんははっきり仰った。
「約束は四十七日です。ですので、二つ直していただきます。一つは、朝の並びです」
「並び」
「ニナ嬢のお父上が、店番の合間に札を配ると仰っておられました。ヨナスさんが並びから外れれば、二人で一日九点になります。二百四十六点を九点で割ると、二十七日」
「一日、はみ出します」
「はみ出すぶんが、二つ目です。あなたが発つまでの二日で、三十点だけ先に片付けていただきます」
その方は、眼鏡の下から、少し笑われた。
「二百十六点を九点で割れば、二十四日。二日ぶん余ります。余らせておかないと、雨の日に止まりますので」
わたしは、その計算を二度検算した。二度とも合った。
結界のことは、別に片付ける必要があった。
十二基のうち、次の定期の点検が、わたしの留守の真ん中に来る。結界の調律は二人がかりでする。片方が輪を押さえて音を出し、片方が石を替える。
ハンネスさんは、五十四で、梯子の四段目から上がだめだ。ヨナスさんは高いところは平気だが、結界の調律をやったことがない。
わたしは、ラング寮長のところへ行って、定期を前倒ししていただけないかと申し上げた。
「何基ですか」
「二基です。第八基と第九基。足場が要るのは第九基だけで、第七基の足場がまだ残っております」
「前倒しの理由は」
「わたしが三十日、王都におりませんので」
その方は、書類から顔を上げられた。
「——ということになりますが、よろしいか、と伺う先が、やはり私しかおりませんな」
それで、通った。
二基は、二日でやった。二日とも、足場の下にアイゼン殿がおられた。第九基のときは上まで上がってこられて、輪の縁を両手で持って、低い音を出しておられた。
二度目は、わたしが叩かなくても、音の高さが合っていた。
「アイゼン殿」
「なんだ」
「三十日、王都を離れます」
「聞いた」
その方はそれだけ仰った。石を替える手が、少し遅れた。遅れたのを、下の板の継ぎ目を数えて誤魔化した。
出立の二日前、わたしは掲示の紙を書いた。工房の戸に貼るつもりだった。三十日いないことをお知らせしておかないと、鍋を持ってきたら店が閉まっている。
ノルデン工房 当主 セリア・ノルデン
三十日ほど、王都を離れます。
その間の修理は、ケラー・ハンネス、キール・ヨナスが承ります。
保証は、これまでどおりノルデン工房が負います。
書いて、墨を乾かして、ハンネスさんにお渡しした。その方は、紙を受け取らなかった。受け取らずに両手を膝に置いたまま、こう仰った。
「ノルデン嬢。これは、貼らないほうがよろしいかと」
「なぜでしょうか」
「貼りますと、町の者は三十日、鍋を持ってこなくなります」
わたしは紙を持ったまま立っていた。
「持ってこられて、直せなかったら」
「直します」
「直せない品でしたら」
「預かって、あなたの帰りを待ちます。それは、いままでもそうしておりました」
ハンネスさんは、そこで初めて、紙のほうを見られた。
「あなたの名前が書いてあるだけの紙を貼ると、あなたがいないことが、この工房の状態になります。私は、そういう工房で二十年働いておりました」
わたしは紙を修理台に置いた。
ヨナスさんも受け取らなかった。ニナさんに見せたら、読んで、腕を組んで、片眉を上げて、「これ、いる?」と言われた。結局、紙は抽斗にしまった。
しまったまま、わたしは荷を作った。
工房を三十日空ける相談の回でした。四十七日の約束は、朝の並びを町の人に預けて二人の手を空け、発つ前の二日で三十点だけ先に走ることで守られます。守り方が全部「誰かに一つずつ渡す」形になっているところが、この工房らしいと思います。
掲示の紙は、誰も受け取りませんでした。ハンネスさんの「あなたがいないことが、この工房の状態になります」は、この方が二十年かけて覚えたことです。
次回、一人で行くつもりだった人が、そうならない話です。




