第37話:封蝋の形
十七日目の朝、わたしは工房にいた。王宮ではなく、工房にいた。それが自分でも少し不思議で、朝のうちに二度、荷馬車の支度をしそうになって手を止めた。
王宮ぶんは、ハンネスさんとヨナスさんが荷馬車で出ていった。二人が門前で受け取り、二人が直し、二人が札を切る。わたしが行かなくても回る。回るように作ったのだから当たり前なのだが、当たり前になるまでに十七日かかった。
台帳(二)は、百八十六行まで埋まっている。予定は百七十行だ。先行しているぶんは、ヨナスさんが朝の並びを整理するようになったぶんだった。その代わり、わたしは町の品に戻れた。
鍋、蝶番、水差しの注ぎ口、子どもの玩具の車輪。一点あたり三ルグから十ルグの品を、一日に十四点。王宮の吊り灯より、こちらのほうが手が汚れる。
玩具の車輪は、軸が木で、受けが鉄だった。木のほうが減るので、普通は木を替える。ただ、その車輪の木には、持ち主の子が墨で名前を書いていた。書いた字が軸の減った側にかかっていて、替えると名前が消える。
わたしは受けの鉄のほうを削って、軸の減った形に合わせた。手間は木を替える倍かかって、代金は同じ三ルグになった。母の帳面にも、こういう直し方が何十件もある。母は理由を書いていない。書いていないので、こちらが勝手に、同じ理由だろうと思うことにしている。
午後、辻の集配箱の錠を見てほしいと言われて出かけた。
箱は辻の角の石の台に据えつけてあって、鍵穴が下向きについている。下向きの鍵穴は水が入る。入った水が錆を呼んで、錆が舌を膨らませて、鍵が回らなくなる。
この形の集配箱は町に十九ある。十九のうち十七は、鍵穴が横向きだ。横向きなら水は入らない。下向きが二つだけ残っているのは、据えつけた石の台の向きが先に決まっていたからで、箱の側では直せない。
十二年前に母が留め金を替えた記録が、七冊目にあった。留め金だけ替えて、鍵穴の向きには手をつけていない。手をつけられなかったのだと思う。
「三日、開いとらんのや。中に手紙が溜まっとる」
集配人の方が、箱を揺すって見せてくださった。紙の音がした。
錆を落とすには、まず舌を抜く。抜くには、面の四本の螺子を外す。四本のうち二本は、頭が潰れていた。潰れた螺子は回らないので、溝を切り直してから回す。ここが半刻。
舌を抜いて、錆を落として、油を差して、戻した。鍵を入れる。回った。
「六ルグです」
「安いな」
「螺子は次に潰れます。そのときは十二ルグになります」
箱を開けると、手紙が二十通ほど出てきた。集配人の方が仕分けて、束を三つに分けられた。
「ノルデン工房に一通あるで」
わたしは受け取った。
厚みのある紙だった。町の紙ではない。表に、こちらの文字で「ノルデン工房 当主どの」と書いてある。書いた人の字は、丁寧だが、こちらの文字に慣れていない。線の止め方が全部同じ強さだった。
裏を返した。
封蝋が押してあった。
濃い赤の蝋に、輪が二重。外の輪の内側に、細い切り込みが一つ。
わたしは、その場で立ったまま、しばらく動かなかった。集配人の方が何か仰ったが、聞こえなかった。
工房まで戻る間、封は切らなかった。切らずに、手の中で表と裏を三度返した。返すたびに、輪の形を目で測った。
紙は、こちらの紙より厚くて、繊維が粗い。透かすと、細い筋が縦にそろって見えた。漉き方が違う。この紙を漉く水は、たぶん冷たい。
差出人の名は、表にも裏にも書いていなかった。書かない代わりに、封蝋を押してある。名を書かずに印だけ押すというのは、押した印で相手に分かるという前提の押し方だ。
わたしには、分からないはずだった。
工房に着いて、作業台の抽斗を開けて、母の帳面の十冊目を出した。
いちばん最後の頁。下の隅の、読めない一行。その一行の、いちばん下の字の、さらに下。
小さな印がある。三日前に写しを取ったとき、字の一部だと思って、そのまま写した印だ。輪が二重。外の輪の内側に、細い切り込みが一つ。
同じだった。
大きさまで同じだった。帳面の印のほうが十年ぶん薄いだけで、輪の太さも、切り込みの角度も、重ねたら合う。
「お姉さん」
顔を上げたら、ニナさんが戸口に立っていた。地図を脇に挟んでいる。返しに来たのだと思う。
「何それ」
「書状です」
「どこから」
わたしは、封蝋を上に向けて、その方に見せた。
「まだ開けておりません」
「なんで」
「開けたら、行くことになる気がしております」
ニナさんは、修理台の横まで来て、封蝋を覗き込んだ。腕を組んで、片眉を上げた。
「これ、あの帳面のやつと同じ?」
「同じです」
「じゃ、もう行くじゃん」
わたしは、封を持ったまま黙っていた。
工房が回るようになった。町の品に戻れた。四百七十二点は先行している。制度案は二月ほど先に院の議に上がって、そのときわたしは、また同じ話を同じ言葉で繰り返すことになる。
繰り返して、勝つのかどうかは分からない。母のときは、勝たなかった。
「お姉さん」
「はい」
ニナさんは、地図を修理台に置いた。置いて、指で北の端を叩いた。それから、封蝋のほうへ顎をしゃくって、こう言った。
「——で、いくら?」
わたしは、その方の顔を見た。
「まだ、何も書いてありません」
「書いてあるって。そういう封してくる相手は、だいたい先に値段の話をしないんだよ。父さんが言ってた。値段の話をしない客がいちばん高くつくって」
戸口に、影が差した。アイゼン殿だった。手に、携行灯を一つ。
「三十二点目でよろしいですか」
「頼む」
わたしは受け取って、開けた。どこも悪くなかった。その方は、修理台の上の封蝋を見ておられた。見て、こう仰った。
「北からか」
「エルツ調律士組合、と書いてございます」
「開けるのか」
「開けます」
わたしは、封に指をかけた。
蝋は硬かった。十年前の印と同じ形の蝋が、今日届いた紙の上で、まだ新しい艶をしていた。
工房が回るようになるまで十七日でした。回るように作ったのだから当たり前なのですが、当たり前になるまでの十七日を書きたかったので、ここまで使いました。
封蝋の輪が二重で、外の輪の内側に切り込みが一つ。十年前の帳面の隅に押してあった印と、大きさまで同じです。
封を切る前にニナが値段を訊きます。この子の「——で、いくら?」は、だいたい正しい方向を向いています。
次回、封の中身。第一条から始まる短い法文が入っております。
台帳(二)の綴じ紐が、そろそろほつれてきました。次の一巻きは、皆さまのブックマークと☆で。




