第36話:記録に、ございません
吊り灯二十台の引き渡しは、朝のうちに済んだ。
八日かかった。新品というのは、直すところが無いぶん、やることは多い。座を全部見て、魔石を一つずつ据え直して、二十台ぶん同じ手順を繰り返す。壊れた品を直すより退屈で、退屈な作業ほど数を間違える。ヨナスさんに二人で照合してもらった。
受け取りに来られたのは、ユリウス様だった。荷馬車を自分で御して来られた。半月前は、荷を降ろす手つきが慣れていなかった。今日は、そこそこ慣れておられた。
「二十台、たしかにお納めします。四百ルグです」
「請求書は」
「こちらに」
その方は請求書を受け取って、日付の欄を見て、それから小さく仰った。
「支払期日が、十日になっている」
「はい」
「前回は七日だった」
「前回は初回でしたので。二度目からは十日でお願いしております」
ユリウス様は、しばらく紙を見ておられた。
「……初回と二度目で、条件が違うのか」
「違います。一度きちんと払っていただいた方は、十日です」
その方は、請求書を折らずに上着へしまわれた。しまい方だけは、まだ少し雑だった。
「セリア」
「はい」
「その、なんだ。四百ルグは、来月の初めになる」
「では、期日を来月の五日に書き直します。お待ちください」
わたしが墨をつけると、ユリウス様が慌てて手を出された。
「待て。直すのか」
「払える日を書いていただかないと、督促する日が決まりませんので」
「督促……するのか」
「します。しないと、次の方に同じことができなくなりますので」
その方は、何か言いかけて、やめた。やめてから、こう仰った。
「君は、昔からそうだ」
わたしは日付を書き直して、判をついてお渡しした。ユリウス様は荷馬車に乗って、二度ほど手綱を持ち直してから、行かれた。
午後は、寮の会議室に呼ばれた。
調律者署名登録令の案について、実際に手を動かす者の意見を聞きたいという趣旨だった。長い机に、ラング寮長と、寮の職人が六人。書記が二人。わたしとハンネスさんは、いちばん端に並んで座った。
フォス主査は、案を一条ずつ読み上げられた。読み上げ方が上手かった。難しい語のところで一度止まって、必ず言い換えを添える。六人のうち四人が、途中から前のめりになっていた。
「第五条。登録された調律者は、当該署名に係る責を負わない。責は国が負う」
寮の若い職人が、手を挙げた。
「あの、それは……我々が、直した品で誰かが怪我をしても、罰されないということですか」
「そのとおりです」
「……それは、たいへん、ありがたいです」
その方が座ると、机の空気が変わった。
わたしは、そこで一度、ハンネスさんを見た。ハンネスさんは、机の上で両手を組んでおられた。組んだまま、動かなかった。
「フォス主査」
ハンネスさんが、静かに仰った。
「一つ、申し上げたいことがございます」
「どうぞ」
「二十年前、この寮で、一人の調律士の署名が二十三行、消されました。私はその場におりました。おりましたが、何も申しませんでした」
部屋が静かになった。
「その方は、罰されたのではありません。責を負ったのでもありません。ただ、消されました。第五条は、責を国が負うと書いてございますが、責を負う人が、署名を消す人でもあるのです。同じ机の、同じ抽斗の中に、両方があります」
ハンネスさんは、そこで顔を上げられた。
「二十年、私はこのことを申し上げませんでした。いま、申し上げております」
フォス主査は、手帳を開いておられた。開いて、少し繰って、それからこう仰った。
「ケラー殿。恐れ入りますが、その件は」
その方は、指で頁を押さえた。
「記録に、ございません」
わたしは、机の下で、自分の指が固まるのが分かった。
「当時の議事録には、異議申立ての取扱いに関する決定のみが残っております。署名の抹消に関する記載はございません。ですので、ご記憶としては伺いますが、案の検討材料としては——」
「承知いたしました」
ハンネスさんが、そう仰った。
椅子を引く音がした。その方は立ち上がって、机に軽く手をついて、それから静かに部屋を出ていかれた。誰も止めなかった。止めなかったので、扉の閉まる音が長く聞こえた。
フォス主査は、手帳を閉じて、次の条へ進もうとされた。
「フォス主査」
わたしは、そこで初めて口を開いた。
「はい」
「四百七十二点のうち、本日までに百六十六点を直しました。全部、帳面に残っております。品名と、症状と、お代と、日付と、直した者の名前です」
「存じております」
「そのうち三十一点は、ケラー・ハンネスの手です」
「……はい」
「記録は、あります」
わたしは、鞄から台帳(二)の写しを出して、机の上を滑らせた。
「二十年前の議事録に無いのは、消した側が書かなかったからです。書かなかったことは、無かったことにはなりません。無かったことにできるのなら、あの二十三行も、無かったことになっているはずです」
フォス主査は、写しを手に取られた。取って、しばらく頁を繰っておられた。繰る速さが、だんだん遅くなった。
その方は、何も仰らなかった。
その日の会議は、そこで終わりになった。
寮の門を出たら、アイゼン殿が門柱の脇におられた。
ハンネスさんが先に出ておられたので、その方が一緒に待っていてくださったのだと思う。ハンネスさんは、何も仰らずに荷馬車に乗られた。
「ケラー殿は」
「先に、お乗りになりました」
「そうか」
その方は、それ以上訊かれなかった。
工房に戻ると、ハンネスさんはもう作業に戻っておられた。王宮ぶんの受け金を選り分けて、一つずつ油紙に包んでおられた。
何も訊かないほうがいいと思ったので、わたしも自分の手を動かした。動かしながら、作業台の端を見た。
見慣れないものが、増えていた。
万力だ。工房のものではない。うちの万力は三つあって、どれも母の代からのもので、口金が擦り減っている。それは新しかった。口金に布が巻いてあって、細い物を傷つけずに挟めるようにしてある。
台の右端に、金屑が少し落ちていた。真鍮だった。
「ヨナスさん。この万力は」
「私のではありません」
「ハンネスさんの」
「私のでもございませんな」
二人とも、こちらを見なかった。
見ないので、それ以上は訊かないことにした。
「記録に、ございません」。この一言だけは、書く前から決めていました。フォス主査は嘘をついていません。本当に記録に無いのです。記録に無いものを検討材料にしないのは、審査の作法として正しい。正しいことをすると人が黙って部屋を出ていく、ということが、世の中にはあります。
ハンネスさんが二十年ぶりに口にしたことを、セリアは数字で言い直しました。この人の怒り方は、いつもこの形です。
次回、エルツから書状が届きます。封蝋の形を、どこかで見た気がします。




