第35話:エルツの文字を読める人
王都で、エルツの文字を読める人を探した。
三日かかって、見つからなかった。まず、大通りの書字商に行った。看板に六か国語と書いてある。書いてあるだけだった。
写しは、わたしが墨で引き写したものだ。引き写すために、その一行を半日かけて見た。字は全部で七つ、右から左へ流れて、四つ目と五つ目のあいだだけ間があいている。姓と名の切れ目だと思う。最後の字の下に、小さな輪が二重に重なった印が押してあった。印は、字よりも濃かった。
ご主人は写しを受け取って、しばらく上下をひっくり返したあと、「これは南の文字ではありませんな」と仰った。それは、わたしにも分かっていた。
次に、隣町の問屋へ行った。母の木箱を十年預かってくれた方だ。その方は帳場から出てこられて、写しを見て、こう言われた。
「北のもんは、うちは扱わんのや。関の税が高うてな」
「どなたか、ご存知の方は」
「昔は、関の宿場に代書屋がおったんやけどな。十年ほど前に畳んだ」
十年ほど前。
その数字を、わたしはこのところ何度も聞いている気がした。
三日目は、王宮に行った。書庫の灯りが二点、点かなくなっているという依頼が回ってきていたので、ちょうどよかった。ちょうどよかった、というのは、口実になるという意味だ。
書庫は、寮の三階の北向きの部屋だった。窓が小さく、昼でも暗い。灯りが二点とも死んでいるので、書記官の方が蝋燭を立てて仕事をしておられた。
一点目は座の緩みで、四半刻で直った。二点目が悪かった。魔石は生きているのに、点いて、消えて、また点く。接点の裏に、指の脂が古く固まっていた。長い年月、同じ人が同じ持ち方で運んだのだと思う。
拭いて、当て板を入れて、点けた。部屋が明るくなって、書記官の方が蝋燭を吹き消された。
「ありがとうございます。……いつからでしたかな、これ」
「二年は経っております」
「二年、蝋燭でやっておりました。誰も直せないと言うので、そういうものかと」
わたしは札を書きながら、その方に訊いた。
「こちらの書庫に、北の国の文字の資料はございますか」
「エルツですか」
「はい」
その方は、少し考えて、棚の並びを見渡された。
「無いはずです。国交はございますが、書き物のやりとりは関の税書だけでして。……ああ、ただ」
立ち上がって、いちばん奥の棚へ行かれた。
「再点検の資料が、倉に下りております。過去二十年ぶんの納入検査記録を洗い直しておりまして、そのなかに、古い会議の綴りが混ざっておりました」
倉は、書庫よりさらに暗かった。ラング寮長が鍵を開けて、灯りを二つ点けてくださった。点けてくださった灯りは、わたしが三日前に直した品だった。
「ノルデン嬢。ひとつ、伺いたい」
「はい」
「あなたが探しているのは、母上のことですか。それとも、フォス主査の言った前例のことですか」
「同じものかもしれないと思っております」
その方は、それ以上訊かなかった。
綴りは十二冊あった。二十年前の年のものは、いちばん下にあった。上の十一冊を順に床へ移して、いちばん下を引き出す。紙が湿気を吸って、束が厚くなっている。紐が乾いて、解こうとしたら、指をかけた場所で切れた。
切れた紐を巻き取って、隅に置いた。倉で紐を切るのは失礼な気がしたが、そう思ったのはわたしだけで、ラング寮長は何も仰らなかった。
中身は、退屈な記録だった。納入検査の日付。品目。数量。査収の可否。同じ書式が何十枚も続いて、時々、会議の記録が挟まる。わたしは、日付を探した。
母の署名が消された日は、覚えている。二十年前の、冬の初め。ハンネスさんが一度だけその日付を口にされたことがある。
あった。
その日の綴りは、たった一枚だった。「魔石納入に係る異議申立ての取扱いについて」という題がついて、下に出席者の一覧が並んでいた。寮長。次席。主任。記録係。それから、書記が二名。
いちばん下に、一行あった。
参観 エルツ調律士組合 一名
名前は書いていなかった。
わたしは、その一行を指で押さえた。押さえたまま、しばらく動かなかった。
母がその日、告発を取り下げた。取り下げて、自分の署名を二十三行、定規で消した。その部屋に、他国の職人が一人いた。
いたのに、記録には名前がない。
「ラング寮長」
「はい」
「参観というのは、どういう立場でしょうか」
「発言権のない同席です。他国の視察団などが入るときに使います」
「視察団ではなく、一名です」
「……一名の視察団は、聞いたことがありませんな」
その方は、綴りを覗き込んで、指で行を追われた。
「参観者の名簿は、別綴りになっているはずです。探させます。ただ、二十年前ですと、残っているかどうか」
わたしは、その一枚を写させていただいて、倉を出た。寮の門を出たところに、アイゼン殿が立っておられた。荷馬車の脇に、いつもの位置で。
「終わったか」
「終わりました。お待たせしましたか」
「一時ほどだ」
「お待ちくださらなくて、結構ですのに」
「倉は暗い」
その方は、それだけ仰って、工具箱を荷台へ上げてくださった。工房に戻ったのは、日が落ちてからだった。ハンネスさんが作業灯の下で、王宮ぶんの受け金を選り分けておられた。
わたしは、写しを机に置いた。
「ハンネスさん。二十年前の、あの日のことです」
その方の手が、止まった。止まってから、しばらく動かなかった。受け金を一つ、指で転がして、また戻された。
「……その紙は、どちらで」
「倉の綴りにございました。参観が、一名」
「一名」
ハンネスさんは、眼鏡を外された。外して、目のあたりを押さえて、それからゆっくり仰った。
「覚えております」
わたしは、椅子を引いて座った。
「あの日、部屋のいちばん後ろに、外套を着たままの人が一人おられました。誰も紹介しませんでした。私も、その方が誰かを存じません」
その方は、そこで一度、息を吸われた。
「ただ——セレスティア様は、あの方をご存知でした」
王都でエルツの文字を読める人は、三日探して一人も見つかりませんでした。読める人がいない文字が、母の帳面の最後の頁に一行だけある。それだけの話だったはずが、二十年前の会議の綴りに「参観 一名」と出てきます。
名前は書いてありません。書かなくてよかったのか、書けなかったのか。どちらでも、母はその人を知っていました。
次回、ユリウス様が吊り灯を二十台、納めに来られます。そして審査院の主査が、ハンネスさんに向かって、あの一言を言います。




