第33話:国が、預かりますので
その方は、行列の人数を数えてから工房に入ってこられた。
入ってこられる前に、戸口で足を止めて、外の列を端から数えておられたのが窓越しに見えた。指は動かない。目だけが動いて、二度往復して、それで終わりだった。二度で数え終わる人は、あまりいない。
「二十二名ですね。ノルデン嬢でいらっしゃいますか」
「はい」
「王室調達審査院、主査のアデリーネ・フォスと申します」
四十半ばくらいの方だった。上着に飾りはなく、手袋も外して手に持っておられる。手が荒れていた。書類を扱う人の荒れ方ではない。その方は、包みを一つ修理台に置かれた。
「本日の一点として、お受けいただけますか。審査院の備品です」
わたしは包みを開けた。手燭が一つ。座が緩んで、芯が浮いている。二年ほど前に一度、下手な直し方をされている。
「直ります。四半刻ほど。十二ルグです」
「十二」
「座の受け金を替えます。芯は替えません。まだ使えますので」
フォス主査は、椅子を勧める前に自分で腰を下ろされた。わたしが手を動かし始めても、その方は何も喋らなかった。喋らないので、こちらも作業に戻れた。
手燭の座は、二年前に一度、鑞で埋められていた。埋めた人は急いでいたのだと思う。鑞は熱で流れる。流れたぶんだけ座が浅くなって、芯が浮く。浮いた芯は、火が立つ位置が高くなるので、蝋が横に垂れる。この手燭の胴に垂れた筋が三本残っていたのは、そのせいだった。
鑞を掻き落とすと、下から本来の座が出てきた。真鍮の縁が、二年ぶんだけ黒い。布で拭くと、黒はほとんど落ちた。落ちない部分は、傷になっている。傷は埋めずに、受け金の径を半分ずつ大きいものに替えて、その傷ごと噛ませた。
落として、締める。芯を戻して、高さを指の腹で確かめる。
点けた。
火が、まっすぐ立った。
「——たしかに、直っております。ありがとうございます」
わたしは札を書いて、半分に切ってお渡しした。その方は札の欄を一つずつ指で押さえて読んで、それから顔を上げられた。
「欄が二つございますね。名前の欄が」
「直した者の名前と、工房の名前です」
「保証を負うのは」
「工房です」
「では、直した者の名前は何のために」
「誰の手つきかを残すためです。手つきは、消せませんので」
フォス主査は、札を上着の内側にしまわれた。折り曲げずに、平らなまま。この所作をする人は、この二か月で二人目だった。
「ノルデン嬢。本題を申し上げます。数字で伺えますか」
「はい」
「王宮の保証台帳、四百七十二点。一日十点で、四十七日。本日で何日目で、何点まで進んでおりますか」
「七日目です。八十六点まで」
「予定より、十六点先行しております」
「ええ」
「それは、あなたが一日十六点直しているからではなく、直した者が三人になったからですね」
わたしは、手を止めた。
この方は、札を一枚読んだだけでそこまで言った。
「そのとおりです」
「よい仕組みだと思います。ですので、国で採りたいのです」
フォス主査は、鞄から綴じた紙を出して、修理台の上に置かれた。表に「調律者署名登録令(案)」とあった。
「調律者の署名を、国が登録いたします。番号を振り、原簿は審査院が保管します。品には登録番号を打つ。保証は国が引き受け、調律者には手当を支払う。以上です」
わたしは、紙を最後まで見た。
字が細かい。細かいが、書いた人は分かりやすく書こうとしている。条ごとに一行あけて、難しい語には横に小さく言い換えが添えてある。ところどころに、あとから足した注があって、その注の字だけ少し急いでいた。何度も書き直した紙だと分かる。
悪い案ではなかった。悪い案なら、断るのはもっと楽だった。
「二十三行」
わたしは、そう言った。
「はい?」
「二十年前、母の署名が台帳から消されました。二十三行です。消したのは、原簿を持っていた人です」
フォス主査は、うなずかれた。うなずいてから、こう仰った。
「二十年前の事務処理につきましては、記録の欠落として整理いたします。当時の運用は現在の基準を満たしておりませんでした。制度の不備でした。ご不便をおかけしました」
わたしは、その言葉をひととおり聞いた。
制度が謝った。人は謝っていない。人がいないところで謝罪だけが立っている感じがして、わたしは自分の指先が冷たくなるのが分かった。
わたしは怒鳴らない。怒鳴らないので、たいてい何も言わずに終わる。この日は、少しだけ言った。
「フォス主査」
「はい」
「わたしは、預かるという言葉が、苦手なんです」
その方は、少し首を傾けられた。
「お預かりする、というのは、いつかお返しするという意味です。返す側が返さないと決めれば、返りません。二十年前、母の署名は預けられて、返りませんでした」
「原簿の管理は厳格に——」
「厳格に管理されていたと思います。厳格に管理されていたから、二十三行は綺麗に消えました。汚い消し方ではありませんでした。斜線が定規で引いてありました」
わたしは、台帳(二)を開いて、その方のほうへ向けた。
「この帳面は、工房が持っています。工房が消せば消えます。ですので、写しを毎月ハルト鉄具店とヨナスさんの家に一部ずつ置いています。三か所が同時に消えないと、消えません」
「……三重帳簿ですか」
「帳簿を三つにしたのではありません。持ち主を三人にしたのです」
フォス主査は、しばらく紙を見ておられた。それから、案の綴じを閉じて、鞄に戻された。
「お断りになる、ということでよろしいですね」
「はい。署名は工房が負います。国にお預けすることはいたしません」
「理由を、一文でいただけますか。院内で読み上げますので」
「預かれるものは、消せます」
その方は、それを手帳に書き取られた。書き取ってから、立ち上がられた。戸口まで送ろうとしたら、その方は振り返って、こう仰った。
「ノルデン嬢。私は、制度を守るためにやっております。この案を通したいと思っております」
「存じております」
「あなたのご懸念はもっともです。ですので、申し上げておきますが——」
フォス主査は、手袋をはめながら続けられた。
「他国に前例がございます。二十年前から、調律者の署名を国が登録している国が、一つございます。事故は一件も報告されておりません」
「……どちらの国でしょうか」
「北です。関を一つ越えた」
その方は、それだけ仰って出ていかれた。
夕方、アイゼン殿が来られた。両手に携行灯を一つ。開けて、見て、どこも悪くなかった。
「異常が、ありません」
「そうか」
「二十ルグです」
硬貨が置かれて、札を書いて、半分に切ってお渡しした。その方は外套の内側に、折らずにしまわれた。
「今日、誰か来たか」
「王室調達審査院の方が。制度の案をお持ちでした」
「断ったか」
「断りました」
「そうか」
その方は、それだけ仰って帰られた。
わたしは、戸の閉まる音を聞いてから、作業台の抽斗を開けた。母の帳面の十冊目が入っている。最後の頁の、読めない一行。
二十年前。
母の署名が消えた年と、同じ数字だった。
フォス主査は、この物語で初めて出てくる「有能で、丁重で、こちらを踏みつける気がまったくない敵」です。彼女は本気で制度を良くしようとしています。それでも設計が同じなら、結果は同じになる——というのが、この先しばらくの話になります。
「制度の不備でした」と制度を主語にして謝るところだけ、よく覚えておいてください。この方が最後に何と言うかで、この人の話は終わります。
セリアの墨がそろそろ切れます。次の一壺は、皆さまのブックマークと☆で買わせていただきます。
次回、ニナが値段を訊きません。あの子が値段を訊かないときは、だいたい何かあります。




