第32話:第七基の足場
見積書を出した翌日、ラング寮長が工房まで歩いて来られた。歩いて、というのは本当に徒歩という意味で、上着の裾に王都の泥がついていた。
「ノルデン嬢。ひとつ、伺いたい」
「はい」
「千二百ルグの内訳です。調律そのものは、いくらですか」
「二百ルグです」
「では、残りの千は」
「足場です」
その方は、見積書を膝に置いて指で押さえた。風が出ていた。
「足場で千。……調律の五倍ですか」
「第七基は、南の塔の外壁の、地上から十二丈のところにございます。梯子では届きません」
「石工に頼めば、いくらになりますか」
「八百ルグと、十日です」
ラング寮長は、しばらく計算しておられた。この方は損得を隠さない。隠さないので、こちらも数字だけ置けばよかった。
「十日は待てません。結界は十二基で一つの膜です。一基欠けた膜が四十日もっているのは、単に運がいいだけでして」
わたしがそう申し上げると、その方は書類を丸めて立ち上がられた。
「——ということになりますが、よろしいか、と私が誰かに伺う先がありませんな。決裁は私です。千二百で通します」
「ありがとうございます」
「損です。ただ、損なぶんは私の決裁で通ります」
三日前に同じ話を、わたしはこの方の横でした。あのとき「損なぶんだけ、消せなくなります」と申し上げた。その言葉を、この方は使い方まで覚えて帰られたらしい。
足場の話をヨナスさんとしていたら、その日の夕方に第二騎士団の荷馬車が二台、工房の前に停まった。降りてきた副長らしい方が、荷台の幌をめくった。丸太と縄と、板が積んである。
「団長より。塔の足場に使えとのことです」
「……あの、これは」
「街道の橋の補修用です。今季は橋が壊れておりませんので、遊んでおります」
わたしは荷台を見上げた。丸太の数を数えた。十二丈なら、足りる。
「お代を、お支払いします」
「団長は、隊の資材に代金は取れないと申しております」
「では、組み賃を」
「組むのも隊です」
わたしは、しばらく荷台の前に立っていた。ニナさんが金物屋の店先から出てきて、腕を組んで片眉を上げた。
「お姉さん。あれ、断るつもり?」
「断るというより、お代の付け方を考えております」
「あの人たちさ、たぶん代金取ったら怒るよ」
「怒られたことがありません」
「怒らないから怖いんじゃん」
結局わたしは、足場の千ルグを見積書から引いた。ラング寮長に届けた新しい見積書は、二百ルグになった。その方は、それを見て一度だけ笑われた。
足場が組み上がったのは二日後の朝で、思っていたより高かった。
十二丈というのは、下から見上げているうちは数字だ。登り始めると数字ではなくなる。板の継ぎ目ごとに風の音が変わって、四段目からは王宮の屋根が下に見えた。
第七基は、外壁に埋め込まれた石の輪だった。輪の内側に魔石が七つ。うち二つが罅で澱んでいる。仮止めの当て板は、四十日前にわたしが応急でねじ込んだままだった。
わたしは工具を並べた。並べてから、手が止まった。
結界の調律は、二人がかりでする。
片方が輪を押さえて基準の音を出し続け、もう片方が石を替える。一人でやろうとすると、押さえながら替えることになって、音が途切れる。途切れた分だけ、膜に細い皺が残る。
母の代は、ハンネスさんが押さえておられたそうだ。いまのハンネスさんは、五十四で、梯子の四段目から上がだめになっている。ヨナスさんは工房で王宮ぶんの十点を回している。
「どこを持てばいい」
声がした。
振り向いたら、アイゼン殿が三段下の板に立っておられた。いつ登ってこられたのか、足音がしなかった。
「危のうございます」
「隊が組んだ足場だ」
「……そういう意味では」
その方は答えずに、わたしの横まで上がってこられた。わたしは、輪の左の縁を指した。
「ここを、両手で。わたしが良いと言うまで、動かさないでください。それから、音を」
「音」
「わたしが最初に一度、棒で叩きます。その音を、口で出し続けていただきます。低い方で、途切れないように」
「……歌えということか」
「歌でなくて結構です。息が続く限り、同じ高さで」
その方は、しばらく黙っておられた。それから輪の縁を両手で持って、こちらを見た。
「叩け」
わたしは調律棒で輪を一度叩いた。低い音が、風に乗って一度だけ鳴った。
その音が、返ってきた。
わたしは澱んだ石を外した。座を掻いて、拭いて、新しい石を落とし込む。二つ目を外すとき、音が少し下がった。息継ぎだ。息継ぎの分だけ、こちらの手を止めて待つ。待って、音が戻ってから、続きをやる。
四半刻で終わった。一人でやったら、二時はかかったと思う。
最後の石が座に落ちた瞬間、輪の内側が白く光って、光が壁を伝って左右へ走った。膜の縁が、空の高いところで一度だけ揺れた。
アイゼン殿が手を離して、指を開いたり閉じたりしておられた。
「痺れております」
「少しな」
「押さえてくださって、助かりました」
その方は、王都のほうを見たまま仰った。
「二人がかりだと、先に言えばいい」
「……はい」
「言わない癖がある」
わたしは、板の上に工具を並べ直した。
訊くなら、いまだと思った。丸一日と、それからもう一日が過ぎている。足場の上には二人しかいなくて、風の音がして、下の音は届かない。
「アイゼン殿」
「なんだ」
留め具のこと。頂き物には保証をつけられないと申し上げたこと。考えておく、と仰ったこと。
「……足場、いつまで置いていただけますか」
「要るだけ置く」
「ありがとうございます」
訊けなかった。
降りながら、四段目のあたりで、自分の言い方の下手さについて考えた。考えても直らないので、板の継ぎ目を数えて下りた。四十二段あった。
高いところで二人が黙って作業する回でした。結界の調律が二人がかりだという設定は、ここで初めて実物として出てきます。片方は押さえて音を出すだけ——何もしていないように見えて、それが無いと膜に皺が残る。この作品はだいたい、そういう話ばかりしています。
セリアは訊けませんでした。三十七段ぶん後悔しています。
次回、王室調達審査院から人が来ます。丁重で、有能で、数字で話が通じる方です。




