第3話:夜の客は、代金を置いていく
扉を開けると、暗がりに人が立っていた。背が高い。外套の肩が濡れている。顔を見るより先に、その方が両手で何かを差し出していることに気がついた。
携行灯だった。軍で使う、金属の枠に取っ手のついた四角い型。
「……あの」
その方は、灯りの届くところまで一歩前に出た。昨日、王宮の廊下でわたしの調律棒を拾ってくださった騎士の方だった。
「昨日の」
「……頼む」
それだけ仰った。
わたしは扉を大きく開けて、中へ促した。その方は敷居の手前で足を止め、外套の裾から雫が落ちるのを見て、それから丁寧に外套を脱いで戸口の外に掛けた。
修理台の前まで来ても、椅子には座られなかった。
「どうぞ、お掛けください」
「いい」
わたしは携行灯を受け取った。思ったより重い。軍用は落としても壊れないよう枠が厚い。留め具を外して蓋を開け、魔石を取り出した。
澱みは、ない。まだ半分以上残っている。次に接点を見た。黒い。煤だ。わたしは少しのあいだ、手を止めた。
この程度なら、布で拭けば点く。壊れている、と呼ぶほどのものではない。この方の隊にも整備の担当はいるはずで、わざわざ夜の町まで持ってくるようなものではなかった。
顔を上げたら、その方はまっすぐこちらを見ておられた。何も言わない。わたしも何も言わずに、細の調律棒を取った。訊かないことにした。
王宮では、持ち込まれた品の来歴を必ず訊いた。誰がどう使って、いつからおかしいのか。訊かないと直せないからだ。けれどこの方が持ってこられたものは、訊かなくても分かる。分かってしまうから、訊くと角が立つ。
わたしは修理台の作業灯を少し引き下げて、手元を明るくした。
「煤です。魔石が悪いのではなく、接点の側に溜まっています」
「……そうか」
「軍用は枠が密ですので、熱が籠もって煤が出やすいのだと思います。年に二度ほど開けて拭いていただくと、こうはなりません」
棒の先で煤を掻き落とし、布で拭いて、指の腹で当たりを確かめた。金属が冷たい。作業灯の下で、細かい粉が舞った。
魔石を戻す。蓋を閉める。留め具を締める。
「点けます」
わたしは取っ手のつまみを回した。じ、と短い音がして、光が点いた。
白に近い、まっすぐな光だった。軍用は明るい。工房の壁と、天井の梁と、部品箱の四十いくつの引き出しが、いっぺんに浮かび上がった。
埃が舞っているのが見えた。昼のあいだ掃いたはずなのに、まだこれだけある。明日もう一度掃こう、と思ってから、明日この店を開けるつもりでいる自分に気がついた。
その光の中に、その方の顔があった。目のあたりに、傷跡があった。古いものだ。
その方は、灯りを見ていた。それから、たぶん自分でも気づかないくらいの短さで、息を吐かれた。
「……直った」
「はい」
わたしは携行灯を修理台の上に置いた。
「二十六ルグです」
言ってから、少し不安になった。町の相場を知らないまま口にした数字だった。煤を落としただけで二十六ルグは、高いのかもしれない。
その方は外套を取りに戸口へ出て、内側から革の袋を出した。修理台に、硬貨を置いた。二十枚硬貨がひとつ。五枚硬貨がひとつ。一枚硬貨がひとつ。
わたしは数えた。数えなくても分かったけれど、数えた。
二十六ルグ。
過不足が、なかった。王宮で、値をつけていただいたことは一度もない。
部品代は寮の予算から出る。手間は「調律士の務め」という言葉で処理される。一度だけ、湯沸かしを一晩で四台直した翌朝に、ユリウス様が「よくやった」と仰ったことがあった。褒められたのだと思って、その日は少し嬉しかった。あとで報告書を見たら、その四台の担当欄には主任のお名前が入っていた。
間違いではない、と言われた。寮の仕事は寮の名で出すものだ、と。
それはそうかもしれない、とそのときのわたしは思った。実際、直りさえすれば湯は沸く。誰の名前で沸いても、湯は湯だ。
修理台の上の二十六枚は、その五年ぶんのどれよりも重かった。
重いというのは、たぶん、正しい言い方ではない。硬貨は硬貨で、二十六ルグは二十六ルグだ。ただ、こちらが差し出したものと、あちらが返したものの大きさが、生まれてはじめて釣り合っていた。
「たしかに、お預かりしました」
声が、思ったより低く出た。わたしは咳払いをして、抽斗から紙の束を出した。母が使っていた受領札だ。半分に切れる線が入っていて、片方を客に渡し、片方を控えとして綴じる。十年ぶんの埃をかぶっていたけれど、紙は生きていた。
ペンを取って、書いた。品名。症状。お代。日付。最後の欄で、手が止まった。
「保証は」
訊きながら、自分の声が硬くなるのが分かった。
この欄に名前を書けば、この携行灯は今日からわたしの署名で保証される。次に壊れたときの責任は、わたしに来る。
昨日、その仕組みが王宮からわたしを追い出したところだった。その方は、少しのあいだ黙っておられた。
「……つけてくれ」
わたしはペンを紙に下ろした。セリア・ノルデン、と書いた。自分の名前を書くのに、こんなに時間をかけたのは初めてだった。
半分に切って、片方をお渡しする。その方はそれを受け取って、外套の内側にしまわれた。折り曲げずに、平らなまま。
しまう前に、一度だけ札を見ておられた。品名の欄でも、お代の欄でもなく、いちばん下の欄を。
「ありがとうございました」
「……ああ」
携行灯を手に取り、戸口まで歩いて、そこで一度止まられた。
「年に二度、と言ったな」
「はい」
「隊の分も、二度でいいのか」
わたしは瞬きをした。
「何挺くらい、お持ちですか」
「四十」
「……四十挺でしたら、二度で足ります。ただ、同じ日に四十挺は開けられません」
その方は少し考えて、頷いた。
「では、日を分けて持ってくる」
「はい。お待ちしております」
それから、名乗らずに出ていかれた。
扉が閉まってから、四十挺を何日に分ければいいのかを考えて、その前に、あの方のお名前をまだ伺っていないことに気がついた。
扉が閉まってから、わたしは修理台の上を見た。二十六ルグと、受領札の控えが一枚。
控えを綴じるための紐を探すのに、抽斗を三つ開けた。三つ目で見つけて、穴を開けて、通した。紐に札が一枚だけぶら下がっているのは、なんだか間の抜けた眺めだった。
それから、二番目の抽斗の奥に、白紙の帳面が一冊あるのを見つけた。
母が使っていたものと同じ型で、まだ一度も開かれていない。表紙に何も書いていない。わたしはペンを取って、表紙にこう書いた。
——ノルデン工房 保証台帳。開いて、一行目に、今日の日付と品名と、自分の名前を書いた。
王宮の台帳は四百七十二点で、そのうちのほとんどにわたしの署名があった。この帳面には、一点しかない。どちらが多いかで言えば、比べるまでもない。
ただ、王宮の四百七十二点は、昨日わたしの手から離れた。この一点は、離れない。誰かがここに斜線を引きに来ることは、たぶん、ない。
墨が乾くのを待って、帳面を閉じた。作業灯を消して、二階へ上がった。次の日の朝、店を開けたら、戸口の前にその方が立っていた。
両手に、別の携行灯を持って。
二十六ルグ。煤を落としただけの、たいした額ではありません。ただ、こちらが差し出したものと、あちらが返したものの大きさが、生まれて初めて釣り合った——この一点を書くために、三話ぶん助走をつけました。
名乗らずに帰る客と、名前を書かないと気が済まない職人。しばらく、この二人の話です。
次回、二日目の騎士団長。あと三十九挺あるそうです。
ブックマークと☆は、受領札の紙代に充てさせていただきます。折らずに、平らなまま頂戴します。




