第2話:十年ぶりの工房
鍵は、まだ回った。
母が亡くなってから十年、誰も触っていない扉だ。蝶番が悲鳴のような音を立てて、埃の匂いが押し出されてくる。わたしは咳き込みながら中に入った。
修理台。工具棚。壁一面の部品箱。天井から下がった作業灯。どれも記憶のままの場所にあって、記憶のままの場所で錆びていた。
作業灯の紐を引いてみる。反応がない。魔石が切れているのだから当然だった。
鞄から細の調律棒を出して、灯りの根本の接点を掻いた。黒い粉が落ちる。ついでに手持ちの予備魔石をはめてみたら、じ、と小さな音がして、橙色の光が点いた。
埃の粒が、光の中を漂っていた。
「うわ、十年ぶんの埃」
振り返ると、戸口に女の子が立っていた。十四か十五くらい。腕を組んで、片方の眉を上げている。
「……どちらさまでしょう」
「隣。ハルト鉄具店の娘」
顎で隣を指し示された。そういえば、記憶の中でも隣は金物屋だった。
「ニナ。で、お姉さんは?」
「セリアと申します。ここは、母の——」
「ノルデンさんとこの娘さんでしょ。知ってる」
ニナさんは勝手に上がり込んで、修理台の埃をひと撫でした。それから指先を見て、顔をしかめた。
「お姉さん、王宮からクビになった人でしょ」
わたしは手を止めた。
「どうして」
「昼過ぎからみんな噂してる。侯爵家のぼんぼんが婚約破棄したって。うち、御用聞きが早いの」
王宮を出てから、まだ半日も経っていない。
「そうですか」
「そうですか、って」ニナさんは呆れたような声を出した。「泣いたりしないんだ」
「泣くと、手元が見えなくなりますので」
ニナさんは何か言いかけて、やめた。それから思い出したように、抱えていた布包みを修理台にどん、と置いた。
「うちの秤。壊れてる」
布を開くと、吊り下げ式の秤が出てきた。皿と、目盛り盤と、根本に小さな魔石がひとつ。町の店で使う、いちばんありふれた型だ。
「どう壊れていますか」
「重く出る。二十匁ぶんくらい」
「いつからでしょう」
「半年前くらい……かな。父さんは気にすんなって言うんだけど」
わたしは秤を持ち上げて、目盛り盤の裏を覗いた。二十匁。多すぎず、少なすぎない。客が気づかない程度に、店が損をし続ける量だ。
「毎日、何回くらい使われますか」
「知らない。三十回とか、四十回とか」
わたしは頭の中で数字を並べた。四十回。半年。二十匁。
「……三十七貫ほど、余分に渡しておられます」
「え」
「半年で、です。売値に直すといくらになるかは、そちらの方がお詳しいかと」
ニナさんの腕組みが、ゆっくりほどけた。
「うそ」
「秤は、静かに壊れるんです。動かなくなれば誰でも気づきますけれど、ずれるだけのものは、誰も気づきません」
わたしは魔石の座を調律棒の先で軽く叩いた。澱みではない。座の受け金が歪んでいる。魔石が正しい位置より、わずかに沈んでいる。
「直せます」
「ほんとに?」
「ただ、部品がありません。受け金が歪んでいますので、同じ寸法のものと替える必要があります」
わたしは壁の部品箱を見上げた。母が並べた箱が、上から下まで四十いくつ。中身の一覧は、たしか母の帳面にあったはずだけれど、その帳面がどこにあるのかは分からない。
「探してみます。何日か、お預かりしても」
「——で、いくら?」
ニナさんは即座にそう訊いた。腕を組み直して、値踏みするような目をしている。金物屋の娘だった。
「直ってからで結構です」
「そういうの、いちばん高くつくやつじゃないの」
「では、部品代の実費と、手間賃を八十ルグで。直らなければ、いただきません」
ニナさんは八十ルグ、と口の中で繰り返して、それから鼻を鳴らした。
「ふうん。まあ、いいけど」
「高いでしょうか」
「安い。だから訊いてんの」
ニナさんは修理台に肘をついて、こちらを見上げた。
「お姉さん、王宮でいくらもらってたの」
「……部品代は、寮の予算から出ておりました」
「手間賃は?」
「調律士の務め、ということになっておりましたので」
「それ、ただ働きって言うんだけど」
わたしは秤の目盛り盤を布で拭いた。埃が取れて、目盛りの線が出てきた。
「そういう言い方も、あるかもしれません」
「ある。ていうか、それしかない」
言い方は乱暴だったけれど、出ていく前に、戸口で一度だけ振り返った。
「掃除、手伝おうか」
「いえ、大丈夫です」
「そう」
戸が閉まって、すぐにまた開いた。
「うちの父さんには、まだ言わないで。秤の話」
「かしこまりました」
「……別に。驚かせたいだけだから」
今度こそ、戸が閉まった。わたしは秤を修理台の真ん中に置いた。台の上に物が一つ載っただけで、部屋の意味が変わったような気がした。
昨日まで、ここはただの空き家だった。物が一つ載ると、店になる。それから日が暮れるまで、部品箱を上から順に開けた。
一番の箱は留め金。二番は蝶番。三番から七番までが接点の部品で、番号が進むにつれて細かくなっていく。十二番の箱を開けたところで、並びの規則が分かった。使う頻度の高いものが低い段にある。母は背が高くなかった。
二十九番目の箱に、受け金が六種類入っていた。そのうち二つが、たぶん合う。母の字で「小 秤用」と書いた紙が、箱の底に貼ってあった。
わたしはその紙をしばらく見ていた。
母は、王宮の首席調律士だった。わたしが物心つく前に王宮を辞めて、この工房で町の品を直すようになった。理由を訊いたことはない。訊いても「そういうこともあるのよ」としか言わない人だった。
十二のとき、母がこの修理台で誰かの湯沸かしを開けているのを、隣で見ていたことがある。手元を覗き込んだら、母は蓋を少しこちらへ傾けて見せてくれた。
——セリア。これ、どこが悪いと思う。
——わかんない。
——分からないときはね、動くところを全部押さえて、残ったところを見るの。その言い方が、なぜか十年経っても残っている。
箱の紙を元に戻して、引き出しを閉じた。日が落ちてから、鞄の中身を修理台に並べた。
調律棒が二本。替えの魔石が三つ。布と油。それから、この五年で残った給金が、四百二十ルグ。紙に書き出してみた。
家賃はいらない。ここは母の名義のままで、借地料が年に一度だけ出ていく。次の支払いは春だから、当面は考えなくていい。食べるものと、灯りの魔石と、部品。
部品が、いちばん重かった。母の在庫はあるけれど、四十いくつの箱の中身がいつまで持つかは分からない。仕入れを起こすには金が要る。金を作るには直さなければならない。直すには部品が要る。
わたしは書いた紙を折って、抽斗に入れた。
四十日。
何もしなければ、それくらいで底が見える計算だった。
悲観する数字ではない。四十日ぶんの余裕があるということでもある。母なら、動くところを全部押さえて、残ったところを見ろと言うだろう。動くところは押さえた。残ったのは、店を開けることだけだった。
夜になって、作業灯の下で秤を分解し始めた頃、扉を叩く音がした。こんな時間に部品箱の話をしに来る人はいない。ニナさんが忘れ物をしたのだろうか。
「はい、どうぞ」
返事はなかった。
もう一度、叩かれた。同じ強さで、二回。
「うわ、十年ぶんの埃」。ニナさん、初登場でいきなり主人公の生活を値踏みしてきます。まず値段を訊く子です。
部品箱の並びに、母親の背丈が残っている——この一点だけは書きたくて書きました。使う頻度の高い箱ほど、低い段にある。それだけで、その人が背の高くない人だったと分かってしまう。
次回、夜更けに扉を叩いた客は、代金を置いていきます。過不足なく。




