第1話:「壊れたら買い直せばいい」
「セリア。婚約は、なかったことにする」
大広間の中央で、ユリウス様がそう仰った。
わたしは頭を下げながら、天井の吊り灯を見上げていた。四十八個の魔石のうち、七個が澱んでいる。あの澱み方だと、保つのはあと十一日といったところ。
夜会は、十一日後だったはずだ。
「聞いているのか」
「はい。婚約は、なかったことに」
ユリウス様は苛立たしげに息を吐かれた。ドラン侯爵家のご子息で、王宮魔道具寮の主任で、わたしの婚約者だった方。三つ数えるあいだ、その最後のひとつだけが過去形になった。
「五年も王宮に出入りして、君がやっていたことといえば、古い道具をいじって回るだけだ。侯爵家の妻に必要なのは、そんなものじゃない」
そんなもの、とわたしは口の中で繰り返した。
その古い道具は、いま貴方の頭上で光っているものです——とは言わなかった。言っても、直る話ではないので。
大広間には二十人ほどが集まっていた。寮の職人が数名、書記官が数名。奥の壁際に、第二騎士団の方が一人だけ立っておられる。警備の当番なのだろう。背が高くて、こちらを見ているのか見ていないのか分からない、表情のない方だった。
「それに、君の家には何もない。母上は十年前に亡くなって、工房は閉じたまま。持参金の代わりに持ってくるものが、調律棒一本というのは——」
「二本です」
つい、訂正してしまった。ユリウス様が眉を寄せられる。
「なんだ」
「調律棒は、二本です。細と粗で分けますので」
書記官のどなたかが、小さく咳払いをなさった。
わたしは失礼をお詫びして、もう一度頭を下げた。数を訂正する癖は、直そうと思って直ったためしがない。
「……もういい」ユリウス様は手を振られた。「メッツ寮長。台帳を」
寮長のゲルハルト様が、机の上に分厚い革表紙を広げられた。王宮魔道具保証台帳。この国の魔道具は、売った者ではなく、最後に調律した者の署名でその保証が成り立つ。品名の隣に、直した人間の名前が並ぶ。
わたしの名前が、そこに五年ぶん並んでいる。
大広間の吊り灯。東の廊下の灯り。西翼の階段灯。冬季の暖房具が三十二台。王族棟の湯沸かし。厨房の氷室。洗濯場の乾燥架。医務室の保温器。それから——
十七のときにこの台帳をはじめて開いたとき、署名の欄はほとんど空白だった。母の名前が引かれた跡だけが、上の方に残っていた。前任者がいないという意味を、当時のわたしはよく分かっていなかった。分からないまま、目の前の壊れたものを順番に直していったら、五年で欄が埋まった。
埋めるのに五年かかったものが、いま、一本の線で消されようとしている。ゲルハルト様が、羽根ペンに墨を含ませた。
「ノルデン嬢の署名を、抹消する」
ペン先が、最初の一行に斜線を引いた。二行目。三行目。紙の上を、規則正しい音が滑っていく。しゃ、しゃ、しゃ、と。乾いた音だった。
「お待ちください」
声を上げたのは、古参の職人のハンネスさんだった。五十を過ぎた、母の頃からいる方。
「寮長。それは——ノルデン嬢の分を消してしまいますと、王宮の品はほとんどが」
「規則だよ、ケラー」
ゲルハルト様は手を止めずに仰った。
「無署名の品に手を入れれば、責任は触れた者に移る。壊れれば弁済だ。それがこの台帳の意味だろう」
「ですから、それは」
「誰も触らんさ」
ハンネスさんは口を開いて、閉じた。それから、わたしの方を見ないようにされた。斜線は、まだ進んでいる。
書記官のひとりが、数えるように唇を動かしていた。三十、四十、と数字が増えていって、途中で止まった。数えるのをやめたのだと思う。
二十七行目で、ペン先の音が一度だけ変わった。
その行に書いてあるのは、王宮の外周に張られた結界魔道具だった。年に四度、深夜に足場を組んで、二人がかりで半日かけて調律する。最後にそれをしたのは三月前で、次は秋の予定だった。
わたしは目を伏せた。この場でそれを申し上げる理由が、思いつかなかったからだ。申し上げたところで、ペンは止まらない。止まらないものを止めようとするのは、修理ではない。
最後の行まで引き終わって、ゲルハルト様がペンを置かれた。
「以上だ」
「はい」
「なにか、言うことは」
わたしは少し考えた。
言うべきことは、たぶん、ある。五年ぶんある。けれどそれは全部、この台帳に書いてあったことで、いま斜線が引かれたものだった。
「いえ」
「そうか」
ユリウス様が、ようやく機嫌を直されたように仰った。
「セリア、そう気を落とすな。道具など、壊れたら買い直せばいい。そうだろう?」
——なるほど。
わたしは顔を上げた。
「では、王宮の魔道具保証は、本日で終了です」
ユリウス様が瞬きをなさった。
「なんだって」
「わたしの署名が消えましたので、王宮にある品のほとんどが、本日から無署名になります。寮の方々は規則上、無署名の品に手を触れられません。触れれば責任がその方に移りますので」
しゃ、という音が、まだ耳の奥に残っていた。
「つまり、明日から王宮の魔道具は、壊れても誰も直せません。買い直していただくのが、いちばん確実です」
誰も何も言わなかった。
ゲルハルト様が、閉じかけた台帳をもう一度見下ろされた。ハンネスさんが、両手を握ったり開いたりしておられる。ユリウス様は、たぶん、まだ意味を測りかねておられた。
「……脅しのつもりか」
しばらくして、ユリウス様がそう仰った。
「いいえ。ご説明です」
「なら説明を続けろ。どうすればいい」
「新しい調律士の方に、一点ずつ署名を入れ直していただくのがよろしいかと。品を開けて、状態を見て、名前を書く。それだけです」
「それだけなら、明日にでも済むだろう」
「四百七十二点ございます」
ユリウス様の口が、途中で止まった。
「一点あたり、早いもので四半刻。結界のように足場の要るものは、半日でも足りません。……ですので、順番をお決めになるのがよろしいかと思います。どれから直せなくなっても困らないか、という順番です」
わたしは礼をして、大広間を出た。廊下の途中で、鞄の留め金が外れた。中身が石畳に散らばる。細の調律棒が、思ったより遠くまで転がっていった。
拾おうとして手を伸ばしたら、先に拾われた。
顔を上げると、さっき壁際に立っておられた騎士の方だった。近くで見ると、思っていたよりずっと背が高い。
その方は、調律棒をわたしの手のひらに置いた。
「あの、ありがとうございま——」
もう歩き出しておられた。礼を言い終える前にいなくなる方というのは、いるものらしい。
わたしは調律棒を鞄に戻し、留め金を締め直した。この留め金も、そろそろ限界だ。直せるけれど、部品がない。
王宮の門を出て、はじめて、行き先がないことに気がついた。
侯爵家の屋敷には戻れない。寮の宿舎も今日までだ。手元にあるのは調律棒が二本と、この五年で貯めた給金——というほどのものでもない金額。
石畳に座り込むわけにもいかず、しばらく突っ立っていた。
夕方の風が吹いて、通りの街灯に明かりが入った。魔石の灯りだ。ひとつだけ、ちらついている。あれは接点の汚れだろう。拭けば直る。
直せるな、と思ってから、自分がずっと、そういう見方でしか町を歩いてこなかったことに気がついた。
母の工房が、たしか、この通りの十字路を三つ越えた先にある。十年、閉めたままの店だ。
「壊れたら買い直せばいい」。言った側は、たぶん一生忘れます。言われた側は、その日のうちに台帳を閉じます。
この国の魔道具保証は、売った者ではなく「最後に調律した者の署名」に紐づきます。彼女の名前を消したその日、王宮の四百七十二点はまとめて、誰も触れない品になりました。断罪の最中に魔石の残量を数える人です。泣くと手元が見えなくなるので、泣きません。
次回、十年閉じたままの母の工房へ。鍵が、まだ回るかどうか。
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